丹後半島で、『新兵衛じぞう』にあう(2007年9月16~18日)
5メートルのお地蔵さん
日本海側、若狭湾を西側から抱くようにしてあるのが丹後半島である。
東京を朝9時36分のぞみで発ち、京都で城之崎行きの特急ディスカバリーに乗り換え、
午後2時25分には宮津駅に着く。ここはもう若狭湾に面した町である。
車で約20分、新兵衛じぞうは京丹後市大宮町字常吉263番地にある。あまのはしだて出版の社長・福井禎女(さだめ)さんが連れて行ってくださった。
見上げるほどのおおきなお地蔵さんである。丈は5.05メートル、体重は4200キログラム。
そして美しいお地蔵さんである。
8月、津田櫓冬さんにカバーデザインをお願いした、『子どもの本に描かれたアジア太平洋』(定価2800円+税、梨の木舎)ができあがる。それから1か月半後、津田さんも春からかかりきりだった絵本『新兵衛じぞう』(定価1600円+税 あまのはしだて出版)が完成し、出版記念会に誘っていただいた。
『新兵衛じぞう』にまつわる話は奥が深い。津田さんの絵は、時をこえて、村人のざわめき、苦境、喚声をつたえる。
「宮津藩文政百姓一揆」
ときは江戸末期文政5年(1822)12月13日。歴史に名高い「宮津藩文政百姓一揆」、丹後半島・宮津藩領の120カ村が一揆をおこす。新兵衛じぞうは、その先頭にたち35歳の若さで打ち首になった義民・新兵衛(とそして一緒に強訴した為次郎、元蔵、大工長五郎)を祭っている。
この経緯が絵本になった。お地蔵さんにまつわる真相を解明したのが、安田正明、安田千恵子のもと小学校教師ご夫妻であり、『新兵衛じぞう』と同時刊行の『資料集 平智地蔵の謎』に解明にいたる古文書が掲載されていて、これもまたおもしろい。
新兵衛たちが処刑されたあと、近隣の常林寺と光明寺の和尚さんと村人が久美浜(丹後半島、天領であった)の代官・蓑笠之助に、お地蔵さん建設予定地の天領への変更を願い出ている。新兵衛たちを祭ろうと考えたが、宮津藩領では許可されない。天領にかえてもらおうとおもいたった。蓑笠之助――この名前にもエピソードがあるようだ――は一揆に同情的であったらしい。調査の上で天領への変更を許している。そして設立のための寄進は、近隣の村人や旅人あわせて7万5000人に及んでいる。多くの人の思いと行動が、おおきな地蔵さんをつくらせ、そしておおきなお地蔵さんであったことが村人の蜂起を今に伝えることになった。新兵衛さん、曹洞宗で、石門心学を学んだ35歳の青年は、不条理への抵抗の術を次の世代にどう引き継ぐか、胸に畳んでいた。
彼の辞世の歌がある。
桜咲く さくらの山の桜花 ちる桜あれば 咲く桜あり
人びとの意思と行動の170余年にわたる積み重なり――それがこの二冊の本につまっている。そしてここにつまったものは、ページを繰られるたびに、また飛び立っていく。
「すとんと」
児童文学の評論家で作家のきどのりこさんをつうじて、津田櫓冬さんと知りあった。櫓冬さんとは20年近く前に絵本で出会っている。漁業の絵本で、深い藍色の海が鮮やかに心に残った。お会いするたびに話しをきいて、丹後半島への思いがつのった。
思いはとうとう現実になった。
この旅にきどのりこさんは参加できなかったが、英米文学の研究者でターシャ・チューダーの翻訳者である内藤里永子さんとごいっしょだった。わたしも大好きな、ターシャさんの話をするときは、里永子さんのひとみがきらっとひかる。
あまのはしだて出版の社長・福井禎女さんは、安田さんご夫妻と旧知の間柄で、古文書の解読に共に参加されている。印刷業など多角的に経営し、地元に根づいた仕事をされている。
大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立(子式部内侍)
昔ならった歌は、記憶の中にあり、とうとうわたしも天の橋立をふんだ。池井保さん(もと学校の先生。方言や貝の収集の専門家)に教えられて、松並木の海岸で貝も拾った。波間柏貝――なみまかしわがい、ピンクの美しい貝である。
丹後半島ひとめぐり、浦嶋子神社をたずね、徐福伝説の神社を巡り、かつては鯨がきたという漁村をみた。
「すとんと」、はまっすぐにということ。丹後地方のことばで、たとえば「この道をすとんと行くと海にでる」、というふうにつかうと、池井さんに教えていただいた(手書き54頁A5判のご著書『丹後のことば・方言――古語残照』には、つきない示唆と魅力がある。)
丹後半島にみなぎる古代からのエネルギーが「すとんと」、ではないがジワーッとつたわってきた。運転は、この海を産湯とした櫓冬さんのお兄さん、善弘さん。善弘さんも資料調査や分析に関わられている。2泊3日の“常世”の旅を用意してくださった。