主と客の位相
「主体性」という言葉はもう死語になってしまったのだろうか。己れを取り巻く環境、あるいは己れが拠って立つ社会というものと、己れ自身との関係を理解しえない人たちが増えていると感じる。そうした関係を客体と主体の対立図式として捉えることから、環境も社会も、とりわけて、己れ自身が見えてくるはずである。
己れを社会の真只中に埋没させてしまう認識から、いまさまざまな悲劇的、喜劇的現象が生み出されていく。己れの不遇、不運、時には過ちまでも、その責任、原因を己れと切り離された社会に転嫁する事件、事象があまりに多い。昨今くり返されてきた少年たちの殺傷事件などその典型である。
具体的事例をいちいち取り上げる必要ももはやないだろう。彼らのほとんどが、自己という存在を己れの意識の中に位置付けていない、いや、見つけていないと言ったほうが正確か。大分県の一家殺傷事件の場合でも、彼は村という共同体の被害者として自己を位置付けているのみで、その風聞を作り出した「自分」の存在をどこにも見いだしていないのである。こうした意識状況からは他者への逆恨みしか生じない。
主と客の対立図式の欠落現象——これはなにも社会的事件の加害者だけではないということが、つい最近の重大事件に象徴的に現れた。ただ、この事件の場合、どうしようもない三文喜劇としてだが。米原潜によるえひめ丸撃沈事件に対する(もうすぐ前首相の)森氏の対応のことで、ゴルフ場に居続けたのは、「官邸の秘書官にそこに居て欲しいと言われたので」と言い逃れしている点である。
いまさら森氏の批判をしてもはかないが、ひとつの象徴的事例として、この稿のテーマにあまりにはまりすぎている。これが本当なら彼の主体性は一体どこにあるのだろう(もっとも真相は、彼は官邸に帰りたかったが秘書官の助言に従ったということではなく、単に「うるさいなぁ、その程度のことでゴルフの邪魔すんなよ」というところだろうが)。政治家に主体性を求めるなんて無理ということは、醜聞から逃れるために、「秘書が、秘書が」という言い訳が、常識になっていることを見ていればよくわかる。事件への自己の介在を徹底的に排除するのが政治家的手法なのだから。
森氏の場合もそうなのだが、問題はこうした没主体的対応が、前述した少年犯罪と通底しているということである。すなわち、シチュエーションこそ違え、眼前の客体的事象から主体の存在を吹き飛ばしているわけで、「君の発言のなかに君自身がいない」と言うことでことは足りる。結論として、少年犯罪の加害者も森氏以下政治家諸氏も、主と客に対する自意識内の理解は同じ穴のムジナで、いつでも交換可能だということである。
最後にもう一言。彼らだけでなく、わたしたちも気づかないうちに「主」が抜け落ち、「客」のなかに責任を転嫁していることはないだろうか。