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米軍ジェット機事故で失った娘と孫よ
改題『「あふれる愛」を継いで』
- 初版年月日
- 2007年12月
- 書店発売日
- 2007年12月28日
- 登録日
- 2010年2月18日
- 最終更新日
- 2015年8月22日
紹介
歳月は経過したが、米軍基地をめぐる「ひどい話」は、今も昔も変わりなく続いている。横浜市・緑区(現青葉区)の事件の場合、米軍からの連絡ですぐにやってきた自衛隊救難ヘリは、血だるまの被災者よりも、パラシュートで降下した無傷の米兵だけを乗せて、飛び立ってしまった。重傷の幼な児たちを、すぐに病院に運べば助かったかもしれないのに(早乙女勝元氏・序文より)。好評につき、改題再登場!
目次
改題本の刊行に際して
序 文 あふれる愛の志に生きる(早乙女勝元)
語りつぐべき人と事件(佐高 信)
はじめに
第一章 和枝が逝った理由
第二章 忘れられない事故の日のこと
第三章 事故の記録を残そう
第四章 和枝との思い出
第五章 もう一度、和枝に子どもたちを抱かせてやりたい
第六章 和枝の思いを「福祉」に託す
第七章 人の温もりにささえられ
おわりに
土志田和枝年譜
前書きなど
語りつぐべき人と事件 佐高 信(評論家)
愛は悲劇によってしか刻印されないものなのか。娘と孫を襲ったこれ以上ない惨劇から二十八年。その受難を改めて綴る父のペンは悲しいまでに冴え渡り、読者の血涙を誘う。
私は二十七年目の二〇〇四年に『サンデー毎日』のコラム「佐高信の政経外科」で、二度、天国の土志田和枝さんに宛てて手紙を書いた。最初は「愛の母子像へ」という形でである。それを次に引く。
横浜の「港の見える丘公園」のフランス山にある「愛の母子像」は「あふれる愛を子らに」と書いてあるだけで、何の説明もなく、通り過ぎる人も何の像かわからないという感じでした。裏にも「寄贈者 土志田勇 昭和60年1月17日 山本正道作」としか書かれていません。
一九七七年九月二十七日の午後一時過ぎ、横須賀の米軍基地から出航する空母ミッドウェーを追って、厚木基地から飛び立ったファントム・戦術偵察機が横浜市緑区荏田町(現在の青葉区荏田北)に墜落し、五棟の家屋が全半焼するなど、九人の死傷者が出ました。あなた方はその犠牲者ですね。
この間、沖縄の普天間基地に隣接する沖縄国際大に米軍ヘリが落ち、何日か経って重い腰をあげた自民党の政調会長は「怪我人が出なくてよかった」という意味のことを言いましたが、あなた方のことはとうに記憶から消え去っているのでしょう。もちろん、同じ神奈川県出身の小泉首相の頭にもないと思います。
私はいま、あなた方のことを書いた早乙女勝元原作のアニメ絵本『パパ ママ バイバイ』(草土文化)を横に置いて、これを書いています。
ここに登場する三歳のユー君と一歳のヤス君はすぐに亡くなりました。「母子像」の寄贈者の土志田さんの孫ですね。
「痛いよ……熱いよう……」
全身に包帯を巻かれたユー君は苦しさに暴れ、
「お水ちょうだい……ジュースちょうだい」
と繰り返しました。
「いまは、あげられないんだよ……お水飲むと、もっと苦しくなるのよ」
泣きながら、こう言わなければならなかったおばあちゃんの辛さはいかばかりだったでしょう。そして、
「パパ……ママ……バイバイ」
と呟いてユー君は亡くなりました。
ようやくカタコトが言えるようになったヤス君はユー君の後を追って、
「ポッ……ポッ……ポ……」
と鳩ぽっぽの歌を歌いながら亡くなったのです。
あれから二十七年経って、状況はまったく変わっていません。あの時、米軍の飛行士二人は無事に落下傘で降り、何の罰も受けずにアメリカに帰りました。米軍は事故原因の証拠品であるエンジンなどをすばやく基地に運び、日本の警察などにはまったく手を触れさせませんでした。それどころか、海上自衛隊のヘリコプターは米軍飛行士の救助を真っ先にやり、あなた方を救うはずの日本の救急車は一番後に来たといわれます。
ママの和枝さんは体の皮膚の八割近くも焼かれ、全国の千人以上の人から皮膚の提供の申し出を受けて六十回もの手術を繰り返し、何とか命をとりとめました。しかし、最初は隠されていたわが子の死を知った悲しみを想像することはできません。
その後、パパとは離婚することになり、土志田姓に戻ったママは当然のことながら、米軍に対して無力な国を強く批判します。そして、一九八二年一月二十六日、格子のある病院で三十一歳の短い生涯を終えたのですが、今度の沖縄の事件で、どれだけの人があなた方のことを思い出したでしょうか。
あなた方の信じられないような悲劇に対して、少しでも安らかに成仏をと願うなら、日本から米軍基地をなくすしかありませんね。沖縄をはじめ、米軍はいままでにたくさんの悲劇を生んでいますが、それで何を守っているというのでしょうか。
そして私は一週おいて、また、土志田和枝さんへの手紙を書いた。
一九七七年九月二十七日、米軍機の墜落によって二人の稚な児を亡くし、自身も全身に火傷を負って、五年後の一月二十六日に三十一歳で昇天したあなたの無念を新たにする集会が、今年も横浜市緑区の公会堂で開かれましたよ。私も参加して、あなたの書いた『あふれる愛に』(新声社)を求めてきました。
その日講演した「戦争屋にだまされない厭戦庶民の会」の信太正道さんは、かつて、特攻隊員であり、戦後は日本航空の機長をした人ですが、ちょっと飛べばすぐに海があるのにパイロットが自分だけは助かろうとパラシュートで脱出したのは信じられないほどの技量未熟だと怒っていました。広島、長崎に原爆を落としたパイロットと同じように、そこに日本の市民が住んでいるという感覚がないからでもあるでしょう。
また、信太さんは、多くの日本人がこの重大な事故を忘れてしまっているのは、翌九月二十八日に日本赤軍によって日航機がハイジャックされ、赤軍兵士ら六人が釈放されるまで世間の耳目はそちらに注がれたからだろうとも言っていました。たしかに、たとえば毎日新聞社刊の「シリーズ20世紀の記憶」の一九七六―一九八八『かい人21面相の時代』にも墜落事件のことはまったく出てきません。しかし、語り継がなければならない事件であり、あなたのような悲劇に遭遇する危険は、いま現在、私たちにもあるということですね。
この墜落事故による被害者は、当時次のように報じられました。
〈中略〉
あなたの手記にはこうあります。
「地上に降り立った(ファントム機のパイロット)二人は、ほとんどケガらしいケガもなく、約二十分後に海上自衛隊のヘリコプターに収容され、厚木基地に運ばれた。五人の重傷者を出すという大惨事のさなか、自衛隊が活動したのは、実にこの二人のパイロットの救助にだけだったのである。米軍関係者が現場に到着したのは、事故から一時間もたった(午後)二時二十分ころであった。その後マイクロバスやヘリコプターが到着したが、米兵たちがまず行なったことは、被害者の救出や被害状況の調査、ではなく周辺の人たちを事故現場から閉め出すことだった。怒りにふるえる人たちに、彼らはニヤニヤしながらVサインを出してみせたりした」
あなたの子ども二人が翌朝までに亡くなった後、あなたの夫の妹が危篤状態に陥りました。そのとき、夫は当時の防衛庁長官に目を血走らせて食ってかかったということです。
「子ども二人を殺しておいて、このうえ三人目の妹まで殺したら承知しない。あんたが命令すれば、妹は日本全国、どんないい病院へだって入れられるはずじゃないか」
すさまじい闘病生活を支えた夫に、あなたはある時、こう言ったそうですね。
「パパ、私もカーター大統領からファントムを一機もらおうかしら。そしてアメリカにそれを落としてやるの」
その後あなたは離婚し、土志田姓に戻るわけですが、私はその経緯を尋ねようとは思いません。ただただ、アメリカに対してあまりに弱腰な日本政府に憤激を強めるだけです。
多分、何度も目を真っ赤にしながら、それでも激情に流されずにこの手記を綴ったと思われる土志田勇さんに、私はただただ頭を下げたい。
これは言うまでもなく、亡き娘との共著である。
上記内容は本書刊行時のものです。