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ことばと世界が変わるとき
意味変化の哲学
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2024年2月20日
- 書店発売日
- 2024年2月20日
- 登録日
- 2024年1月21日
- 最終更新日
- 2025年2月13日
書評掲載情報
2024-07-20 |
図書新聞
3648 評者: 串田純一 |
2024-04-11 | 佛教タイムス 第3029号 |
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紹介
言葉の意味が変わってしまうのはなぜか。
単語の指すものの内実が変わったり、同じものを指していたとしても受け止め方が変わったりする。同じ一つの文の意味も決してずっと同じであり続けるわけではない。
このとき、私たちにはいったい何が起きているのだろうか。
そもそも、「意味」とは何なのか。
「自己」とは何か、「出来事」とは何かといった、哲学ではよく知られたさまざまな問題と交錯しながら考察する。
目次
はじめに
Ⅰ 意味変化という主題
1意味をめぐる問い
言葉の「意味」とは――接続詞と動詞を手がかりに
浮かび上がる「意味」――単語から文へ
意味をめぐる考察の略史
物とも心とも異なるもの
2意味は変化する
意味が変わるとはどういうことか
語の意味の変化
文の意味の変化
受け止め方や推論をめぐる意味変化
3意味が通じないとき
意味変化と誤解
述定内容の変化
異なる文脈への気づき
Ⅱ 事実へといたる意味
1意味は幻なのかという疑い
消えてなくなるもの
言葉がもたらす間違い――論理分析の効力
空性を体得する
消えずに残るもの
2確固たる意味について――存立・出来事・事実
構文的な対象性――「存立」か「実在」か
隠された出来事
出来事という存在者
たんなる意味から「事実の概念」への移行
3事実のもつ客観性
事実を知る〈私〉
異なる者の認め合い
事実と意味変化
Ⅲ 意味をもたらす自己
1行為する自己の意識
〈私〉と〈私〉以外を分けるもの
自己への気づきと身体
世界への自己の刻印
自己表現としての行為
2視野を拡げること
局所的な視野の単層性
局所的な視野の接続による拡大
広域性と「心の壁」
3視野の揺れ動き
自己を揺るがす遭遇
述語の意味が変わる
揺れ動きつつ生きる
Ⅳ 世界の意味が変わるとき
1厚みのある観点の獲得
重層性を増す経験
役割・立場をもつ
様相性を獲得する
2自己へ問いを向ける自己
理想と生きる意味
自己を変える自己
観点がともなう意志
意味を与えるもの
3自己の変様、世界の変貌
剥き出しの現実
意味が到来する
変様なのか開示なのか
おわりに
あとがき
前書きなど
はじめに
もし言葉の意味がころころと変わってしまうなら、他人との間にコミュニケーションは成り立たないだろう。そのため言葉の意味は、少なくともある程度は固定化していることが望まれるのだが、それでもなお意味は変化するし、変化し続けているように見える。単語の指すものの内実が変わったり、同じものを指していたとしても受け止め方が変わったりする。同じ一つの文の意味も決してずっと同じであり続けるわけではない。重要な経験を経ることによって、同じ言葉を用いつつも表現内容がすっかり変わってしまうということだってある。
誰もが知っているこうしたごくありふれた事柄が、本書の考察対象である。一見するとまったく別々の現象に思われる意味変化の場面に目を向け、それらを貫くものを明らかにしたい。
この筆者の願いは、意味が容易には伝わらない経験や、意味が劇的に変わっていく経験に根差している。その例の一つが、私が子供のとき母親から繰り返し聞いた、「かなんところにロマンがある」という言葉である。「かなん」とは「かなわない、イヤだ」という意味の関西弁であり、「イヤだなぁと思うところに可能性がある」ということだと子供でも分かる。だが、これがやがて私にとって意義深い言葉、ほとんど座右の銘のようになっていくには、長い時間がかかった。つまり、この言葉の意味は、大きく変わっていったのだ。
意味が分かっていなかったと、このように後になってはじめて気づくことがある。私は今では教師を生業としており、「教える」場面で意味の伝わらなさを日々痛感している。たとえ授業内容をしっかりと伝えており、学生も分かっているように見えても、いざ試験をすれば実は伝わっていなかったことが判明して戸惑うことが多々ある。どうも教え方が悪いわけではないらしい。というのも、後から学生に「授業の時は分かっていたつもりなのに不思議だ」という感想を聞くからだ。意味が分かったのに分かっていなかった、後になってはじめて意味が見えてきた――こうしたありふれた経験はなぜ、あるいはどのように、起こるのだろうか。
意味の変化がとりわけ顕著に見られるのは、すぐれた書物や作品に出会ったときのように、世界の見え方ががらりと一変する体験においてである。何かにふれて人生が変わるほどの衝撃を受けるのは、若者の特権とも言えよう。感受性が高いのは、必ずしも若い人だけに限られないにせよ、芸術や哲学に触れて世界の意味合いが揺らぐことが起こりやすいのは、やはり若い時分であろう。
逆に言えば、物事の意味が一変するような経験が大人になるにつれ減っていくのは、安定した意味世界を構築することが、すなわち成長することだからだ。衝撃を受ける体験を経て大人になるにしても、いつまでも世界の見え方が揺らいでいては困るのだ。
意味の揺らぎが小さくなり、いわばどうでも良い現象になっていくのは、人の一生だけに限られたことではない。先ほど、すぐれた書物や作品に出会ったときと述べたが、こうしたことが人生を変える大きな出来事となった時代は、もはや過ぎ去ったようにも思われる。一人の人生だけでなくあたかも一つの文化世界についても、感受性の衰えを言いうるかのようだ。世界を大きく変貌させるのは科学技術、とりわけ情報技術であり、企業がもたらすアイディアである――そう言う方が賢明なのかもしれない。そして芸術にも哲学にも、もはや意味を固定化させるか、せいぜい制御する役割しかないというのが、高度に成熟した資本主義の「文化」の姿ではないだろうか。とりわけ東アジア各国のような高齢化社会は、すっかりかつてのような感受性を失ってしまったかのようにも見える。
だが、もう少し文化に期待しても良いし、大人であっても意味の揺らぎや変化を積極的に楽しんで良いだろう。新しい物事や作品は、従来の凝り固まった意味を解きほぐす役目をもつ。それだけでなく、古くから守り伝えられてきたものの中には、意味を固定化させるどころか、それに触れることで意味が揺らぎ変わっていく経験がすぐれて得られるものが、やはりある――逆説的に見えようとも、そう期待して良いし、あえてそう述べる必要もある。実用に役立たないと言われる文学や芸術作品などが、幾多の危機を乗り越えて、命に代えてでも守り伝えられてきたのは、それだけの力を秘めたものだからだ。世界の眺めを一変させる力、安定した意味世界を揺さぶる力を文化はもっており、これは私たちが生きていく上でも大切なのである。
本書が目指すのは、もちろんそうした作品に代わって意味の変化をもたらそうということではない。意味が変化するとはどういうことか、とりわけ私たちの有りようを一変させるかのように見える意味変化において、いったい何が起こっているのかを、明らかにすることである。意味変化をめぐる問いは、衝撃的に意味が一変するような体験さえも、一時の偶然に任せるのではなく、しっかりと把握したいという願望に根差している。
そうであるならば、考察は「意味」とはそもそも何なのかという問いと不可分であるとも考えられよう。それだけでなく、「自己」とは何か、「出来事」とは何かといった、哲学では一般的によく知られたさまざまな問題と交錯しながら、考察を進めることになる。それほど大きな問題に限られた紙幅の中で取り組むと言うのだから、いかにも大それた試みだと訝しく思われるかもしれない。本書の関心は別の所にあるにせよ、「意味」とは何かといった哲学上の大きな問題について、これまで論じられてきた幾多の議論を紹介して整理することだけでも、非常に大変なことになることは目に見えているのだから。
もし、これまでの学説の手際の良い紹介を本書に期待するならば、裏切られることになるかもしれない。もちろん、学術的な成果をまったく無視して考察を進められる問題ではないことは確かだが、学問としての哲学には「借り物」による思考以外は成立しえないようなイメージがある。有力な説の解説こそが哲学だという考えが歓迎されるようだ。しかし、学説を前提として考察を進めることによる弊害が無視できないほどに大きいことを、筆者は尊敬する幾人かの哲学者に教えられた。
本書では、できるだけ他人から学んだことの紹介になることを避けるような仕方で、そのために可能なかぎり前提知識などを必要としないようにして、考察を試みる。だからこそ、議論は行きつ戻りつを繰り返しながら進んでいく。文献を挙げるのも必要最低限にとどめ、いくら不格好となろうともできるだけ「手作り」で議論を試みようとした。もしかすると、そのような手作りの考察には「意味がない」と言われるかもしれない――そういう意見を十分に予想しつつ、まさにこうした言明の
「意味」もまた変わりうることこそが、示したい事柄である。そのため、細部にこだわらずにできるだけ最後まで読み通していただきたい。
上記内容は本書刊行時のものです。