出版衝動
はじめまして、昨年より出版業を始めました三田産業の三田と申します。三田産業は法人ではありますが、一人でやっている所謂「ひとり出版社」です。
昨年11月に第一弾として坂口安吾の『安吾巷談』
を復刊、今年2月に第二弾として同じく坂口安吾の『安吾人生案内』
を復刊しました。この原稿を書いている現在、内容は後述しますが、第三弾を準備中でして、本稿が公開される頃には刊行されているかいないかどうだろうか、といった状況です。
上記のように弊社はごくごく新興の版元ですから、ここで語ることを求められているのは、出版業を始めようと思った動機や背景、あるいは出版業界に一石を投じようとする野望や情熱なのかもしれません。ですが、正直に申し上げて、私自身なぜ出版業を始めたのかよく分かっていないところがあります。自らの来し方を丹念に振り返って、キーとなりそうな経験をうまく取捨選択して繋ぎ合わせていけば、それなりに受容されやすい物語はできるかもしれません。でもそうすると、どうしてもそこから零れ落ちる残余があって、そちらの方にこそ個人的には重要な何かがあるように思えてならないのです。ですので、出版業を始めた動機につきましては、言葉を尽くして説明するのは諦め、思い切ってその反対の極へ振り切って、乱暴ではありますが、ワンフレーズでまとめるということでご容赦ください。私が出版社を始めた動機は、「衝動」です。衝動としか言いようのないものに操られるまま、ここまでやってきたように思います。
刊行する書籍の内容を決めた理由についてもまた、衝動によってとしか説明できない部分があります。坂口安吾の『安吾巷談』と『安吾人生案内』を復刊したのも、衝動に背中を押されたからというのが、少なくとも私自身にとっては、最もしっくりくる説明です。「もともと安吾が好きで、学生時代から愛読していたから」「安吾の作品には普遍性があり、いつの時代においても読まれる価値があるから」「既存の秩序が崩壊しつつある現代社会と、安吾が生きつつ描いた戦後社会は、新たな秩序の構築を迫られているという点で共通しているから」等々、説得的な理由を付与することはそれほど難しくありません。今しがた列挙したものも、思い付きででっち上げたわけではなく、それぞれ私が安吾の作品を復刊した理由の構成要素ではあろうと思います。実際にメディアの取材に対してそのような話をしたこともあります。ただ、そうした物語的な理由づけをしてしまうと、何か重要なことを伝え損なっているような居心地の悪さに襲われるのです。
さて、前置きが長くなりましたが、そろそろ最新刊の話に移りたいと思います。今回の著者は坂口安吾ではなく、仏文学者・渡辺一夫です。『寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか――渡辺一夫随筆集』
というタイトルで、戦後に書かれた渡辺一夫の文章のなかから社会批評的な随筆17篇を精選して収録しました。なぜ今この本を刊行するのかと問われても、正直また衝動がそうさせたとしか説明できないところがあります(タイトルの長さはまさに衝動の賜物としか言いようがありません)。ただ、これだけははっきり言えることなのですが、この本の刊行を後悔することは死ぬまで一度もないだろうという確信はありました。不寛容や戦争、人間の機械化を一貫して批判し続けた仏文学者の文章は、鍵括弧つきの「正義」を大義名分とした不寛容が跋扈する現在においてこそ、是非とも読まれるべきであろうと思います。衝動に身を任せて本書の出版を決行した人間が言っても説得力がないかもしれませんが、この時代に渡辺一夫の文章を読んで損をすることはないと、それだけは断言できます。
ちなみに、余談になってしまうかもしれませんが、衝動に関することで一つ付け加えると、私は本書のテキストデータを作成するにあたって、OCRは使わずに、底本を見ながら手作業で一文字ずつパソコンに打ち込んでいきました。なぜそんなことをしたのか、自分でも分かりません。まさに衝動の為せる業です。三分の一くらい入力が済んだ段階で、作業がどことなく修行の様相を帯びてきて、全てを投げ出そうかと真剣に考えました。本当に目が潰れるかと思いました。でも一方で、目が潰れてもいいかとも思いました。何だかんだ言って、それくらい渡辺一夫の文章に惚れ込んでいたということなのかもしれません。
何を伝えたいのか分からない文章になってしまいましたが、衝動で突き進んでいる出版社・三田産業を今後ともよろしくお願いします。破滅へと驀進することのないよう、今後はどうにか衝動を飼い慣らしていきたいと思います。衝動によって始まった営みは、衝動によって終わりやすいものですから……。