社会人のふりをするために固定費3万9千円で始めた「ひとり出版」のいま
はじめまして、学而図書(がくじとしょ)の笠原と申します。法人化していないので「出版社」と言えないことが残念ですが、2021年4月に個人事業として学而図書を立ち上げ、以来、ひとりで出版業を営んできました。横浜の妙蓮寺という駅にあるシェアオフィスの一室(広さ2.5㎡)で、今日もささやかに活動しています。
ずっと愛読してきた版元日誌に、こうして自分も寄稿できて光栄です。この次の順番が回ってくるまで生き残っている自信がありませんので、この機会に、私が出版の世界に飛び込んだ経緯をお話しさせてください。あまり胸を張ってお伝えできない部分も、包み隠さず書き残しておきたいと思います。
学而図書は、身体を壊して社会からドロップアウトした私が、全ての責務を放り出し、ただ一つ、どうしても形にしたかった私家版を制作するためだけに設立された事業です。この事情から、経費の削減を最重視した設計になっており、創業当初の固定費は月39,000円ほど(人件費除く、内訳は本文中ほどをご参照ください)。今でも、出版に欠かせない出費以外はぎりぎりまで削り落として運営しています。
さて、私には、もともと出版業界とのご縁も、編集者としての経験も全くありません。前職は、自分に最も向いていないという自覚のある仕事、小・中・高校の教員です。適性の無さを努力と根性でカバーする、無茶な教員生活を続けて18年。厄年にあたる40代はじめに、私の身体は限界を超え、次々と不可解な病状に見舞われるようになりました。
特にしんどかったのは、わずか2週間で頭髪がほぼ全て抜け落ちて、数十本の白髪を残すばかりになったことでしょうか。その後も、体中の毛が薄くなるわ、自律神経失調症と更年期障害のような症状まで上乗せされるわで、もう散々です。これではまともな社会生活など送れないと観念して教職を辞すことにしたのが、2021年の3月でした。
壊れた身体を抱えて無職になると、人間、不安に押しつぶされそうになるものです。短時間の仕事を探さねばと焦りつつ、頭に浮かぶのは過去の苦しい思い出ばかり。学生時代のアルバイト先で、同僚に嫌われて「お前にだけはうちの子の先生になってほしくない」などと言われていた記憶まで蘇ってきて、私は日々「もうだめだ」と絶望的な気分に浸っていました。
ただ、そんな私にも、社会から完全にフェードアウトする前に、たった一つだけ、どうしてもやっておきたいことがありました。30代になって飛び込んだオルタナティブ教育の世界、そこで先達から学んだことを、きちんとした記録にして後に残しておきたかったのです。幸いにして私の手元には、あらゆる講義・講演・談話の内容を10年にわたって記録してきた手書きのノートがあります。並べて背幅を測ると50cmほどになり、なかなかの分量です。たとえ何年かかったとしても、私はこのノートを整理して自主制作の本へと仕立て直し、長く関わってきた学校教育の世界との別れの証とするべきではないでしょうか。考えれば考えるほど、それこそが最優先事項であって、次の仕事なんて一旦どうでもよい気がしてきました。
しかし、小心者の私からすると、ひとつだけ、無視できない大きな問題が残っています。そう、この日本という国では、履歴書の空白期間に対する判定が、非常に厳しいのです。無職のまま本を完成させたとして、次の職探しで出会う採用担当者に、その職歴の空白をどう解説すればよいのでしょうか。これまでの経験上、私が何かを必死に説明しようとすると、面接官は「一言で説明してください」と切り捨ててきます。それで何かをまともに伝えられたことなど、人生で一度もありません。私は、短い言葉で大事なことを説明できないのです。
そこで考えたのが、書籍の制作を請け負う「出版社」を新たに立ち上げ、その業務の一環として本の編纂を行うのなら誰にも文句はつけられないだろう、というコロンブスの卵的な解決策でした。面接では「出版社を経営していましたが、全く儲かりませんでした。残念でしたが、いい経験になりました」とでも説明しておけば、担当者も納得してくれるに違いありません(おそらく)。
このアイデアを叩き台に、固定費を極限まで絞り込んだ資金計画を立案し、「履歴書に空白を作らないための出版事業」というコンセプトに対する妻からの同意も得て、密かに夜の海へと漕ぎ出した小舟が「学而図書」です。以下は、2021年3月末時点で私が算出した「出版者になるための最低限度の必要経費(個人事業主型)」であり、恥も外聞も気にせず掲載いたします。
■固定費(月額換算):約39,200円(税込)
[内訳]
・シェアオフィス :26,400円/月。事務所の住所でISBNを取得するため専用ブース契約。ポスト付。
・固定電話・FAX :2,230円/月。クラウドPBXで経費節減。クラコールは個人事業主でも契約可。
・ホームページ運用:448円/月。独自ドメインとサーバーの維持費用。中身は自分で作る。
・クラウド会計 :1,078円/月。freee会計のスタータープラン。開業書類の作成機能は無料。
・Microsoft 365 :990円/月。Apps for businessプランでクラウドストレージ付。最近値上がりした。
・Adobe税 :年額約40,000円(約3,300円/月)。セールか提携スクール経由でライセンス購入。
・フリーランス協会:年額10,000円(約850円/月)。賠償責任保険・弁護士保険が付帯、メリット多数。
・交通費 :3,950円/月。創業時の事務所が自宅から少し遠く、惜しくも電車賃が必要。
・携帯電話 :0円/月。特に電話する先も無いので、当時は無料だった楽天モバイルと契約。
・事業用銀行口座 :0円/月。ゆうちょ銀行(当時は屋号可)とジャパンネット銀行の口座を準備。
・ネットショップ :0円/月。月額無料プラン。決済端末無料キャンペーンに釣られてSTORESに。
・倉庫 :0円/月。当初は自宅に置ける量以上の部数を刷る予定なし。
・事業主の取り分 :0円/月。生きるだけで精一杯という現状を鑑み、収入のことはしばらく忘れる。
■初期投資:約50,000円(税込)
[内訳]
・ISBN(7桁)取得 :書籍JAN含め33,000円。気後れせず6桁にしておくべきだったとすぐに後悔する。
・WordPress用テーマ:11,980円。ホームページにデザインプラス社のTCDを導入。買い切り。
・スマートフォン :約5,000円。まともに動けば十分なので中古品。
・ノートパソコン :0円。何年か前に5万円で買った中古品を使用。メモリ8GBで一応動く。
この程度でも、「ISBNを付けて国会図書館に納本し、要望があれば教材として直接販売」という初期の計画には十分でした。個人事業なので、会社の登記費用も法人住民税もかかりません。
また、屋号(事業名)には、これから私が取り組む書籍の編纂過程を思い、学んだことを習う(復習する)喜びを説いた『論語』の「学而第一」から2文字をお借りすることにしました。これで、私は後顧の憂い無く、ひたすら執筆と編集作業に明け暮れることができるのです。
ところが、こうした当初の想定は、やがて脆くも崩れ去ることになります。いえ、正確には、予定していた本は、非売品『ヨハネ研究の森セッション記録集』全3巻として、1年どころか半年で完成してしまいました。問題はそこではなく、「次の仕事を探すには時期が半端だし、お世話になった先生方への最後のご恩返しに、公刊をご希望の原稿があるならお手伝いしてみようか」と、事業計画外のプランを自ら考案してしまったことにあります。
やがて、「もうしばらくは出版をやりますから、本が出せます」と公言した私のもとに、教員時代にご指導いただいた大恩ある先生方から、学而図書の設立を歓迎するメッセージが届きはじめます。そして、諸先生方の「この国の学術出版の現状を憂い、新たな出版社を立ち上げたその意気や良し。よくやった」という力強い激励を前に、そのような大志など全く抱いていない私は、ただ「いえ、そういうつもりではないのですが……」と小さな声で呟くことしかできませんでした。私は、短い言葉で大事なことを説明できないのです。
さらに、先生方からは次々と、研究の最前線に立つ方ならではの情熱と知性、加えて「学而図書を盛り立てよう」という愛情に満ちた出版企画が立ち上がってきます。その熱い思いに触れ、私は、いまいちど自分のやるべき仕事を見直す必要があることを痛感しました。その傍らでは、絶対に儲からないと何度も説明しているのに、私の親族たちもなぜか「それはいい」と喜んでいます。昔、私が「学校の先生になる」と意思表示した際には、家族・親族・同級生・教師の全方位から「やめておけ」とストップをかけられたのに(無視しましたが)、今回に限って誰も止めてくれません。どう考えても、こっちの方が危ない橋ではありませんか。
「こうなった以上、本を流通させなくては先生方に申し訳が立たない」と、別の方向性の覚悟を固めざるを得なくなった私は、ネット検索で版元ドットコムの存在を知り、思い切って活用入門講座(基本編)への参加を申し込みました。受講時には、参加者がどなたも出版・編集経験の豊富な方ばかりで恐れおののきましたが、JPRO経由での情報発信や2段バーコードの出力等々、「ああ、こういう支援があれば何とかなるかも」と暗闇の中に一筋の光明が差し込んできたような思いがしたものです。
それでも、実際に本を流通させたいと思えば、まだ課題は山積みというほかありません。どこかに取次をお願いするといっても、学而図書には資金もなく、実績もなく、倉庫もなく、法人でもない上に、経営者は病人です。商業用の印刷をお任せできる会社へのツテだって、何一つありません。こんな私と取引してくれる企業が、果たしてこの国に存在するのでしょうか?
そうやって悩みに悩んだ末、手に取った本『まっ直ぐに本を売る』(石橋毅史さん著、苦楽堂)をきっかけに、私は残り僅かな勇気を振り絞って、トランスビュー社の工藤さんのもとへとご相談に伺ったのでした。そして、「本当にこんな有様でも大丈夫でしょうか」という私の長い説明を工藤さんは温かく受け止めてくださって、ありがたいことに、学而図書も直取引ネットワークのお仲間に加えていただけることになりました。しかも、偶然そのとき来訪されたモリモト印刷の鈴木さんにも引き合わせていただき、印刷会社にアテがないという悩みまで、この日だけで一気に解消されてしまったのです。帰り道、「こんなことってあるんだなあ」という驚きで、頭がぐるぐるしていたのをよく覚えています。
その後、版元ドットコム会員として、電子書籍の製作と流通を株式会社ボイジャーさんに丸ごとお任せできるようになり、表現媒体の選択肢はさらに広がりました。1990年代後半から、青空文庫をきっかけとしてボイジャー社のソフトウェアに親しんでいた身としては、このような形でお仕事をご一緒できることにも大きな感動があります。
こうして、その場の成り行きに勢いと偶然が積み重なった末、学而図書は商業出版の世界に恐る恐る足を踏み入れることになりました。もちろん、商才にも体力にも欠ける私が出版だけで食べていけるほど、世の中は甘くありません。今でも、学而図書が発行する本の売上高は「印刷代と流通費用はまかなえるかな?」という程度です。ただ、最近では、出版を通じてお仕事をご一緒した方たちから外注先として様々な業務をお任せいただけるようになり、お陰様で何とか生きていけそうな気配もしてまいりました。
この小さな事業が、これから先どうなるのかは全く分かりません。ただ、こんな私を支えてくださる多くの方々に深謝しつつ、できるだけ長く出版の世界に関わっていけたら、と願うばかりです。皆様、どこかでお会いした際には、どうか病人と思ってお手柔らかにお付き合いください。
最後に、1月1日に発生した能登半島地震によりお亡くなりになられた方々に深く哀悼の意を表すと共に、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。今回、〆切の関係で書き直しができず、昨年末に執筆した内容をそのまま投稿いたしました。本稿が掲載される頃には、せめて少しでも状況が落ち着いていることを切に祈ります。