地方から出版社を始めること。そして、個人的な喪失感を超えて
前回、この版元日誌にはじめて書かせていただいたのが、2019年6月19日だから、もう二年以上が過ぎている。最後のほうに、私個人のことはすこしご報告するとして、この二年間は世の中がコロナにふりまわされ、ここにきてウクライナ戦争と慌ただしい。
私の「ひとり出版」も怒涛のような時期を過ごした。
直近の新刊は、『気候危機とグローバル・グリーンニューディール』
だが、本書の感想をツイッターで発信している方の投稿に、「この本を出している出版社、超ローカルだね。こういうのが最近増えているような感じ」というような趣旨のものがあった。正直、嬉しかった。特に「超ローカル」というところが!おそらく発信者の方は、「栃木県大田原市」という地名に反応したのだと想像する。まったく全国的知名度のないフツーの東北・白河に近い平凡な北関東の「場」である。それを「超ローカル」と評してくださったのだろう。同じ地方といっても、これが札幌や仙台、福岡、金沢、広島や高知あるいは那覇という「有名地方都市」だったら、すこし反応はちがったかもしれない。新刊の著者のひとりは、世界的に高名な言語学者・思想家のノーム・チョムスキーだが、その著名人と無名なジャパンの一地方というバランスの悪さが、面白いと思って下さったのかもしれない。
地方で出版社起業というのは、この数年の流行といえるだろう。私がお世話になっているトランスビュー協業社のお仲間でも、地方での版元さんは結構あるように思う。また、コロナ禍で地方移住の機運がでてきたことが、出版ということにも影響を与えているのかもしれない。私が20代前半(1980年代前半)に東京文京区の本郷にある小さな出版社に勤めていたころから、著名な地方出版社というものはあった。しかし、当時の先輩たちの暗黙の了解事項のなかに、「出版をやるなら、やはり、東京の神田ムラか本郷ムラあたりにいないとね」ということがあったように思う。たしかに、著者との関係、流通、印刷などを考えると東京の一部の地域に出版業が集中するのも合理的な側面があった。しかし、それらは、インターネットの登場によって、技術的にはあまり意味をもたなくなったといえる。直近の新聞、WEB記事をみても、地方出版記事をすぐにひろうことができる。
〇2022年2月12日 日本経済新聞の「「田舎出版社」がヒット本 距離を逆手に流行追わず」
(海士の風さんとぞうさん出版さんを取り上げている)、
〇2021年12月1日WEB記事「ひとまち結び」「「地方出版社の時代」を切り開いた、社員全員が著者と“つながる”出版社」
(書肆侃侃房さんのこと)
〇2021年7月19日「『ライツ社』が照らす、出版業界のこれから。」ソトコト(ライツ社さんのこと)
などなど、ほかにもたくさんあるだろう。
これって、昔からある「地方の時代」なんていうものではなくて、ちょっとした日本の文化的転換期の動きなのではないだろうか(ここではくわしくは触れないが、これまでの「地方の時代」は、地方財政的にみると、中央の言うことを聞く限りで中央の予算をお涙頂戴的に恵んでやろう的な欺瞞的「地方の時代」が大部分だったような気がする。この結果、近視眼的な「地方経済活性化プラン」と中央政府に都合のよい地方緊縮財政政策ばかりになっている)。
ここでは、自分が何をしたいかという意味での屁理屈をこねてみよう。材料として以下の三冊を材料にしてみる。『定本 想像の共同体』ベネディクト・アンダーソン著 書籍工房早山、『公共性の構造転換』ハーバーマス著 未来社、『サードプレイス』レイ・オルデンバーグ著 みすず書房 である。
ベネディクト・アンダーソンは、とても面白いことを言っている。
「人間の言語的多様性の宿命性、ここに資本主義と印刷技術が収斂することにより、新しい形の想像の共同体の可能性が創出された。これが、その基本的形態において、近代国民登場の舞台を準備した。」
印刷出版(資本主義)事業が、近代民族意識を生み出したというわけだ。印刷出版技術は、特権階級の知的独占物だったラテン語の権威を失墜させ、たとえば、各国の民族語に訳された聖書が当時の大ベストセラーとなって普及した。こうして一部特権的エリート知的階級と一般大衆の境目があいまいになり、ハーバーマスの言う「公衆」が誕生する基盤が生まれていくことになる。これは、米国の都市化の現状を批判して、地域コミュニティの再生を説くオルデンバーグにもつながる。
上記を日本の近代150年に当てはめてみるとどうなるだろうか。明治維新というものは、薩長軍事クーデターによって出来上がったもので、不安定な薩長政権を安定させる目的で皇室を政治利用した。京都御所の幼い明治天皇を拉致して東北(奥羽越列藩同盟)へにらみをきかせる軍事的拠点としての江戸=東の都=東京に住まわせたのだ。こうして東京が権力装置の中心として近代国家の枠組みを構築していくことが日本の近代化となる。江戸期の藩は、藩札がそれぞれの地域の産物を原資として流通させたように、地方の特性を生かした政治システムだった。文化的にも、本居宣長は、伊勢松坂。安藤昌益は、秋田八戸。そして大阪懐徳堂は、富永仲基や山片蟠桃などのユニークな町人思想家を生み出した。こういう地域多様性を東京からの近代化というローラーで塗りつぶしていくのが日本の近代だったのではないか。
明治以降は、政治権力装置として、東京中央からの「指令」で政治も文化も統率されていく。そうなれば、必然的にベネディクト・アンダーソン風に、東京に出版・印刷事業者は集積していくことになる。東京中央からの「指令」は、日本の近代化=物質的に豊かになるということと不即不離だから、戦後に続く大量生産・大量消費そして政治的には、マスデモクラシーへとつながっていく。
こういう近代の大きな枠組みに反転攻勢をかけるひとつの試みが、地方からの出版社ということになると思う。だが、そんな勇ましいことをいっても、地方から、特に私のような超弱小「ひとり出版」は、経営的に生き残っていかないとお話にならない。この生き残りのために、先の反転攻勢の話をひっかけると、東京からの「指令」は、大量・大規模・マスなのだから、逆転して、少量・小規模・共同体自治なんていう言葉になるのかもしれない。
ここから何が生まれてくるのだろう。ひとつは、すでに、地方出版社さんの多くが取り組んでおられると思うが、地方からの文化・表現・情報発信と、地方からの、地方での表現者の支援・発掘ということがある。加えて、思いつくのは、地方と地方がつながる流通である。本の種類によっては、都市部の大手書店さんで売れていくものがあるだろうし、それが主流なのだろう。しかし、●●県の●●市の●●町のこの「書店」さんでは、都市部の大手書店さんにはない本が、都市部よりも多く売れるなんていうことはないのだろうか。「ここ」でこそ「売れる」という地方拠点だ、そこに地方版元がつながる。まさに地方と地方がつながるわけである。もうひとつは、この前の版元ドットコムさんの鎌垣ラジオのゲスト、田口幹人さんがおっしゃっていた「まちづくりの一環として書店を考える」という視点である。このお考えをお借りすると「まちづくりの一環として、地方出版社を考える」ということになる。まちづくりの一環に版元が参加し、なんらかの拠点のひとつになるということができるのではないか(あるいは、もうすでに実践されているところもあるように思う)。実際、うちの本をSNSで宣伝すると、地元の方から「こんな出版社が地元にあるなんて嬉しい」というご感想や、「地元で個人図書館をはじめたいのですが、何かコラボしませんか」などというお声をいただくことがある。なんだか、「まちづくり」につながりそうな予感がある。
さて、ここで個人的事情である。実は、コロナ禍がはじまったころパートナーががんの手術で入院した。そこから、厳しい闘病生活が始まったが、昨年末にパートナーは死去してしまった。その闘病の最中に、三冊の本を作成してきたが、どうやって作業していたのかよくわからないぐらいである。大きな喪失感があって、いま、書かせていただいている文章もその喪失感の影響かうまく書けていないと思う。だが、それも「版元日誌」というタイトルに甘えて、そのまま掲載させていただこうと考えている。
これで、ほんとうに「ひとり出版」になってしまった。ここから再生できるのだろうか。自分ではよくわからない。だが、「地方=今、生きる場」からはじめてきたわけだから、この流れでなんとか生きていくしかないだろう。次に「版元日誌」の執筆依頼がもしあるとしたら、そのときは、どうなっているのだろうか。