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「経済戦士」の父との対話
俳句にみる戦時下の人びと
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2022年4月21日
- 書店発売日
- 2022年4月19日
- 登録日
- 2022年3月18日
- 最終更新日
- 2022年4月19日
紹介
この悲惨な時代を“経済戦士と俳人”として真摯に生き、「大洋丸事件」の犠牲者の一人となった父の俳句と日記から、戦争の無謀さ、無責任さ、愚かさ、悲惨さを改めて訴える。
本書を亡き父と次の世代に捧げる。
・はじめに
・第一章 父のおもかげを尋ねて
・第二章 残された俳句と散文 (1920年~1936年)
・第三章 俳句界にも戦争の影響 (1937年~1940年)
・第四章 日中戦争下の暮しと思い (1941年1月~5月)
・第五章 占領下の中国をゆく (1941年5月~6月)
・第六章 「経済戦士」の死 (1942年5月)
・終 章
・おわりに
・年表
・参考文献
目次
■はじめに
■第一章 父のおもかげを尋ねて
・父の記億
・新宮市と大逆事件
・会社勤めと俳句の人生
・結婚そして妻の死
・故郷に眠る
■第二章 残された俳句と散文 (1920年~1936年)
・俳句の道へ
・子規と漱石の友情
・「倦鳥」の誌友となる
・生涯の師・西村白雲郷氏との出会い
・俳句にみる父
・俳句界の変革を目指して
・散文にみる父
■第三章 俳句界にも戦争の影響 (1937年~1940年)
・俳句同人らが戦場へ
・父の俳句論―「近代俳句と色彩」
・父の俳句に対する評価
・俳句仲間のみた父
・前線俳句が中心に
・父への召集
・俳句誌『断層』の廃刊
■第四章 日中戦争下の暮しと思い (1941年1月~5月)
・軍務の日々の中で
・自分をみつめる
・故郷を想う
・話題は戦争のことばかり
・戦時下のあくどい商法
・気になる父の思想
・戦時下の煙草のお粗末さ
・八歳の子との対話
・なぜフランスは敗けたか
・戦争「正当化」の理論的支柱
・「世界新秩序の第一歩―満州事変」
・戦争「正当化」のための皇国史観
・特派員のみた南方諸国
■第五章 占領下の中国をゆく (1941年5月~6月)
・ボロ船での出発
・東支那海を航く
・揚子江の広さに一驚
・南京にて―知らされなかった南京大虐殺
・漢口にて―中国民族の生活力に驚く
・上海にて―テロの暗躍を抑え切れず
・中国をどう見たか
・恵まれた中国出張
・家族への思い
・帰国後のこと
■第六章 「経済戦士」の死 (1942年5月)
・命運を握る南方資源の開発
・国策戦士の人選
・最初から輸送船が不足
・早や領海内に敵潜水艦
・魚雷が船を撃沈
・明暗分けたボートへの乗船
・ボートの争奪
・遅れた救出作業
・事件の隠蔽
・「大洋丸会」の結成
・生還者の苦労
・捕虜となった父の友人
・父の贈りもの
・大洋丸の発見
・いまだ海に眠る30万体
■終 章
・遺句集の発行
・二人の師の序文
・追悼句会の開催
・俳句界にも弾圧が及ぶ
・俳句界も大政翼賛下に
■おわりに
●年表
●参考文献
前書きなど
戦争の時代を生き、その犠牲者となった私の父は、普通の会社員で、社会的地位が高かったわけでなく、とくにすぐれた業績をあげた人でもなかった。
その時代は、天皇・政府・軍部によって、国民が戦争に総動員されていた。国民は国策に適う情報だけを与えられ、不都合な情報は隠された。そのため、当然のことながら、父は大多数の国民と同じように為政者を信じ、国策の「正当」性を信じて行動した。
しかし、その時代にあっても、ごく少数ではあったが、この戦争の不正義を見抜き、侵略と人間存在の否定に抗して、命がけでたたかった人たちがいた。また、行動するまでの勇気がなくても、国のあり方に疑問を抱き、批判の精神を持ち続けた人たちがいた。
父はことさら時局に迎合したとは思わない。
しかし、為政者を信じ込まず、もっと広い視野と鋭い判断力で時代を捉え、国策に疑問を抱くことができなかったのか。
それは、当時の時代・状況・環境を知らないから言えることなのか、戦後ようやく戦争の実相を知りえたから言えることなのか。
私は父が残した記録や資料をもとに、父の人生と戦争を知ろうとした。これが私の人生最後の「課題」のようにもと思った。
幸いなことに、父は会社員であるとともに俳人でもあったから、数多くの俳句とこれに関連した資料を残していた。また、死の一年前、戦時下の暮しと自らの思い、軍務で訪れた占領下の中国の印象などを日記に残していた。
さらに、戦後になって父が殉職した「大洋丸事件」の真相を明らかにした概略次の内容のルポルタージュ『企業戦士、昭和十七年春の漂流』(小田桐誠著 朝日新聞社)が出版されていた。
昭和十七年(一九四二)五月五日、大洋丸が広島・宇品港を静かに出航したのは、太平洋戦争開始から僅か半年後のことであった。前年十二月に真珠湾奇襲攻撃に成功した日本軍は、南方諸地域を次々と陥落させ、破竹の勢いで進撃していた。もともと神州日本が敗れるはずがないと思っていた国民は、相次ぐ勝利に湧き返っていたときのことである。
大洋丸には、陸軍が選んだ約百社のエリート社員・技術者約千人が乗船し、南方諸地域に向かっていた。
彼等は、戦場でたたかう戦士と区別して、「経済戦士」「企業戦士」、あるいは「産業戦士」と呼ばれた。
資源のない日本がアメリカ、イギリスに勝つには、南方諸地域の資源確保が不可欠であり、武力で領土を奪い取ったのち、そこにある資源を利用するために企業の協力を必要とした。
重要な資源の一つがキナという木の皮だった。マラリア病は南方でたたかう兵士にとって、もう一つの恐ろしい敵であり、蘭印(現在のインドネシア)は、マラリア予防薬キニーネの原料であるキナ皮の貴重な原産地であった。
この分野で選ばれた株式会社武田長兵衛商店(現在の武田薬品工業株式会社)は、十五人の社員を派遣することとし、薬学専門学校を卒業して同社に勤務していた父は、その一人として大洋丸に乗船を命じられた。
出港して三日後、大洋丸がいまだ領海内の男女群島沖を進行していたとき、アメリカの潜水艦の標的になっていた。
敵潜水艦に対する備えを十分にしないまま、いわば、「はだか」の状態で進んでいた大洋丸は敵潜水艦の魚雷により撃沈された。
この戦争初期の海の犠牲者は、父を含む八百人余であった。
父の遺体は、長い漂流ののち、遠く済州島(韓国)の岸辺に打ち上げられた。
この事件を知った陸軍本部は、想定外の被害に仰天し、国民の戦意喪失をおそれて事件を隠蔽した。真相が明らかになったのは戦後のことである。
戦後七十六年が経過し、すでに数多くの戦争体験・証言などが残されているなかで、父の人生について書くことがどれほどの社会的意義を持つのだろうかと思い、躊躇した。
しかし、それでもこの悲惨な時代を真摯に生き、犠牲者の一人となった父と、資料を読む中で繰り返した無言の「対話」を書き残すことは、戦争の記憶を次の世代に引き継ぐために必要ではないかと考えた。
とりわけ、戦後の憲法体制が危機的状況にあるいま、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように決意し」(憲法前文)て成立した憲法の意義を、戦争体験・記録から再確認する作業はもっと数多くなされてよいのではないかと思った。
そうはいっても、本書の主題は、やはり私の父への思いなのである。
本書の中の俳句は原文のままとし、その余の文章はできるだけ、いわゆる新漢字に置き換え、仮名遣いも同様にした。
また、文中の( )は、著者の注書きで、主に広辞苑によるものである。
版元から一言
ウクライナ侵攻を正当化し、悲惨な戦争を始めたロシア!
かつて日本もそうだった。
太平洋戦争初期の「大洋丸沈没事件」から、戦争の無謀さ、無責任さ、愚かさ、悲惨さを改めて問いかける。
上記内容は本書刊行時のものです。