先生と私
「あいつが悪いんやろ? お前はわるない。そうやな?」
西武池袋線沿線の公立小学校。1989年の放課後、私はひとりで担任のS先生に説教されていた。クラスで出場する市の合唱コンクールの放課後自主練習をさぼっていたからだ。
放課後くらい、のんびり過ごしたかった。私と一緒に練習をさぼっていた「あいつ」、Kは私とは違い、頭の良い子で、その時間は塾に通っていた。
「あいつにそそのかされたんやろう」
S先生は重ねて言った。さぼりを怒られるのともかく、それはない、と、うすぼんやりした私でも思った。
その質問には答えず、練習でます、ということを言った気がするが、S先生に重ねて「悪いのはあいつやな?」と言われ、「それは違います」と言ったことは、はっきり憶えている。
私は、時々は練習に参加するようになり、クラスは市のコンクールから県の大会に出場した。
これをふいに思い出したのは、梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』(岩波現代文庫)を読んだからだ。
状況と時代は違うけれど、原武史『滝山コミューン1974』(講談社)を読んだ時もS先生のこと、放課後の説教、その他いくつかのあまり面白くないエピソードを思い出した。
Kとは読書好き仲間で、彼女に薦められて『ホメーロスのイーリアス物語』(岩波書店 ※リンクは2013年刊行。私が読んだのはおそらく1970年刊行版)を読んだ。古典を最初に意識したのは、この時期、物知りのKから知らないことをたくさん教えてもらったことの影響が大きい。
「悪いのはAだ。だから悪くない私たちは連帯してAに対抗しよう」
こういう話は、プライベートでも、仕事でも、ときどき遭遇した。悪者がいることは、とてもわかりやすい。S先生のいくつかの言動は肯定しかねるものだった。ただ、だから私が良い人間で、S先生が悪い人間でもない。
S先生は教育熱心な先生だった。尼崎のご出身で、中卒ののちに苦学されて教師になられたとお話されていた。S先生は、授業のなかで、灰谷健次郎『太陽の子』(角川文庫、当時は新潮文庫)のテレビドラマをビデオで見せて下さった。それで、私は灰谷健次郎の作品を一通り読んだ。どの作品も強烈だったけれど、S先生が一番熱く語った『太陽の子』が、私も一番心に残っている。
沖縄。戦争。貧困。大人になってから、これらを考えるときにも、時折『太陽の子』やS先生の話を思い出す。苦学されてた頃の中卒の工場の同僚は、よく指がなかった、という話をされていた。
「みてみい、俺は指が残ったからオルガンも練習できて、教師になれたんやで」(※小学校教員の採用は全教科指導の一環として音楽も伴奏程度の技能が必要とされるとのこと)
という言葉をおぼえている。S先生には、必死に勉強して教育者になって子どもを教育する信念と理由がおありになったのだと思う。卒業後は一度もお会いしていない。
人と出会い、本を読み、何か考えたりする。人は今、生きている。本は著者がご存命の場合もあるけれど、何千年前の死者だったりする。私も、私が出会った人たちもいずれ死に、大勢の死者の一人となる。
本を作りながら、これを誰が読むのか、ということを考える。今生きている人間、これから生まれてくる人間。いずれもひとしく、生まれ、考え、死ぬ人間たちだ。
長く歴史から見れば、それぞれは一瞬でしかない。ただ、その一瞬に個々人の世界はあって、それは結果的に時間の中で埋もれていくものだとしても、それぞれ貴いものだ。
楽しいこと、嬉しいことが、あまねく世界に、恒久的に存在することを願っている。本に刻まれた思考、記憶が未来のそれに貢献することを願っている。
『POSSE』
は、今をたたかう雑誌。
『nyx』
は、古典から未来へ思考を紡いでいく雑誌。
『ウラオモテヤマネコ』
は、子どもから大人まで、本を楽しむこと、また儚い人の世について考えることを教えてくれる絵本。
数千年前の本に描かれた戦争、悲劇。いまだそれが繰り返されているとは知りつつ、ささやかな願いを込めて、本をつくっている。