今更のようにビートルズに学ぶこと
はじめまして。本年8月からアールズ出版に入社した加子と申します。
以前、勤務していた版元とはあらゆる点で異なる職場ですが、主力商品の一つが芸能本だという共通点があり、自分自身の興味も自然とそうした方面のニュースに向かいがちな毎日です。
芸能面から2009年を振り返ると、清志郎さん・ジャクソンさんちのマイケル君、加藤和彦さんと、ビッグネームの相次ぐ逝去があり、有名俳優の薬物問題があり、相変わらず面白い洋画が当たらない…前年に続いて、暗い話題ばかりが目立った印象があります。
受け手の幼稚化と、それに伴う娯楽の質の低化が悪循環となって、良作に対する不感症を蔓延させていることは、受け手の注意が醜聞にしか向かず、自分に都合の良い現状肯定と癒しだけしか求めない傾向にも顕著です。酒の勢いにまかせて憤ってみたところで、周囲から白い目で見られるだけなのは百も承知、半端に芸術やら創作やらにかぶれた人間は、不平不満のやり場もなく、独り戸張大輔なんぞを聴き、一層荒んだ気持ちになっては、「世間の価値基準はクズだ」などとのたまう薄っぺらな不良の如く、ヒネていくのであります。
そんな中で、ビートルズのリマスターが発売され、幅広い世代の客層から支持を集めたことは、久しぶりに手放しで喜ぶことのできる明るい話題だったのではないでしょうか。そんなベタなところを今更ぁ!?と冷めた振りをしつつも、独創性と普遍性の両面において、今なお飛び抜けた存在であるバンドが、その音楽に触れたことのない世代からも然るべき評価を受け、然るべきセールスを記録したことは、やはり大変嬉しく思われました。
殊更に言うほどのことでもありませんが、ライブハウスから結婚式の二次会まで通用するビートルズの汎用性の高さは、他に類を見ないものがあります。冷静に考えれば、重度のロック患者からアイドルの追っかけをやってる女子高生まで、皆が胸を張って好きだと公言できる音楽なんて、相当異常なものなんですが、今回のリマスターを聴いていて、ビートルズがそのようなポップ・ミュージックの「一つの基準」となりえた理由には、やはり彼らの奔放さが大きく関係しているな、と感じました。
『ビートルズサウンド 最後の真実』(ジェフ・エメリック著/白夜書房刊)にも詳しく記されていますが、『リボルバー』以降のナンバーには、ジョン・レノンがスタジオワークに無知だったからこそ、エンジニアに無茶な注文を出しまくって生まれた名曲がいくつもあります。彼が当時の録音技術の限界を知っていれば、逆に「こんな感じの音が欲しい」といった要求は出てくることすらなかったでしょう。
「今の仕組みで何ができるか」「何ができないか」ではなく、「何をしたいか」「どうありたいか」だけを突き詰め、形になる保証もないまま、多大な時間と労力を費やすことが許されたのは、もちろん彼らがビートルズだったからです。しかし、仕事をする上で既存の枠組みに捉われ、難しいことをやり遂げようと考えるよりは、ついルーティンワークの中に埋没してしまう平凡な勤め人の自分には、こうした逸話にとても重要な意味があるように感じられるのです。
いつ終わるとも知れぬ膨大な作業の中で、彼らが自分たちの意図していたヴィジョンを少しずつ形にしていくその過程は、何らかの啓示を受けて、新たな世界への扉を一枚一枚開いていくような神秘的な体験だったのではないでしょうか。聴く者をも、そうした未知の世界に誘ってくれる自由奔放な感性が迸っているからこそ、彼らの曲は、どんな人間の耳にも新鮮に響くのだと思います。
自己陶酔のアヤしい話になってしまいましたが、仕事もそういうことが大事なのかもしれないと思うことがあります。あらゆる業界が不振に喘ぎ、出口が見えないまま迷走していると言われるような時代にこそ、「現状、何ができるのか」だけでなく、常識の枠だけに捉われることなく、柔軟かつ奔放な発想で「何をしたいか」「どうありたいか」を突き詰めることが、大事なんだと。まあ、どう頑張っても、自分のそんな姿がビートルズほど格好良く見えることは想像できないワケですが。