(その2)自由な社会への道と版元ドットコムとの関係を考えてみた
「本の未来を、私たち版元自身の手で切り開いていくために」などと、ずいぶん肩ひじ張ったものでした。
一年間の新刊点数が7万点をこえています。一日に250点ほどになるようです。
この「7万点」という数字をめぐっては、作りすぎだとか、粗製乱造などというように言われています。
でも、ぼくはどうもその「粗製乱造」論に納得がいきません。
実際7万点が「正しい」新刊点数かはよくわからないし、正しい新刊点数を考えたり決めようとしてもあまり意味があるとは思えません。
しかし、7万点という数はともかくとして、たくさんの本を出すことができる状態はとてもいい状態だと思います。
この、出せる自由、がぼくらの自由の度合いを表す指標となると思うからです。
自分が好きなもの、他者に伝えたい考え、などを出すことができる。
多くの本のなかから自分の好きなもの、知りたいことが書いてある本を選ぶことができる。
こうした自由を増やすことに、近代の人間が力を注いできたのだとすれば、せっかくの自由をへらすようなことはマイナスなのだと思うのです。
よく「こんな本を出すことが表現の自由ではない」といって、一部の本を批判する論調を目にしますが、そんな本を出すことも、自由なのだと
思うのです。
もし、ある本が本当に必要ないなら、買われなかった、という事実で退場させられればいいのだと思います。
いま、僕らが日々入手しているものは、ただたんに生存のために必要なものではなくなっています。
生きるために必要な栄養素として食事をしてるというよりも、おいしいものを食べようとしています。
コンビニの弁当でさえ、安さ・手軽さばかりではなく、おいしさを競っていますよね。
いかに栄養をとるかではなく、とりすぎた栄養をいかに燃焼させるか、のほうが問題です。
必要、ではなくって、好きなもを手に入れることが、今のぼくらには大切なんだと思います。
その程度までに、人間は畑を耕してきて、蓄積させてきた。
で、その好きなものを大切するって態度が、だんだんとうまくなって、他者の好きなものを排斥したりしないで共存できる態度になっていくのではないかな、と思います。
さて、版元ドットコムです。
版元ドットコムは主に小規模の版元(出版社)が結果的にあつまった団体です。
たぶん、出版傾向は、売れるだろうモノよりも出したいモノに傾いているんだと思います。
食べ物にたとえるなら、ニチレイの「冷凍・シュウマイ」ではなく、商店街のお総菜屋の「シュウマイ」だったり、つぶれかけたばあちゃんの店のものだったりするんだと思うのです。
冷凍庫にいれて、仕事で遅くなったときにチンしてすぐ食べられる「冷凍・シュウマイ」は便利だし、味だってずいぶんと工夫されていておいしいもんです。なので、それがいいという人も多いでしょう。
またべつに、総菜屋の「シュウマイ」を好きでこのんで買ってくれるひとも、そこそこにいると思います。
日もちしなかったりするけど、まあそっちが好きなんで、って感じで。
で、その両方があるから、ぼくらの食事は、選ぶ自由を増やすことができて、ついつい食べ過ぎてしまうのだとおもうのです。
総菜屋を選ぶこともできるから、ニチレイの「冷凍・シュウマイ」を選ぶ日もいい、ということになるのではないでしょうか。
小規模の版元が、自分の好み・一部の偏った好みの本をだしていて、全体の本の世界の選ぶ自由の幅が広がってるんだと思うのです。(大きな声では言いづらいですけど「小」があるから「大」があり得るんだぞ、と思ってもいます)
そこで問題は、しかし小規模の出版は、その本の存在そのものを知らせることがむずかしいということです。
東京にすんでるぼくは、大阪のある町のお総菜屋の存在を知りません。
ところが、版元ドットコムの存在は、インターネットという道具をつかって、少なくともその存在を知らしめる最低限のことを実現できるようにしたのだと思います。
あとは、よりいっそう自分自身の好み、一部の好みの本をつくっていくのです。
もちろん、それでもだれからも見向きもされなかったら、退場せざるを得ないかもしれませんが……。
沢辺 均(ポット出版)