版元ドットコム

探せる、使える、本の情報

文芸 新書 社会一般 資格・試験 ビジネス スポーツ・健康 趣味・実用 ゲーム 芸能・タレント テレビ・映画化 芸術 哲学・宗教 歴史・地理 社会科学 教育 自然科学 医学 工業・工学 コンピュータ 語学・辞事典 学参 児童図書 ヤングアダルト 全集 文庫 コミック文庫 コミックス(欠番扱) コミックス(雑誌扱) コミックス(書籍) コミックス(廉価版) ムック 雑誌 増刊 別冊 ラノベ

教育勅語への元田永孚の推敲に、朱筆の真髄を見た

▽話題になるわりには読まれていない教育勅語
 2月に刊行された、高橋陽一『くわしすぎる教育勅語』を担当しました。

 国会での失効決議から60年あまりを経て、いまなお話題にのぼることの多い教育勅語ですが、このごく短い文章の内容を、読めていない人があまりに多すぎる、というのが企画の端緒でした。
 いわく、「ふつうの道徳が書いてあるだけ」とか、「国際的な協調を重んじる」と書いてあるとか、「国民を戦争に駆りたてるのが目的」などなど文意に反した解釈がされています。使われ方の経緯においても、「当時にあってはごく穏当」「昭和期に使われ方が熱狂的になっただけ」というような、事実に反する解説が何度もくりかえし流布されています。

 以下のコラムで、著者の高橋陽一さん自身が、報道や論文への違和感を語っています。
だれも教育勅語を読んでいない?

 教育勅語には何が書かれているのか、その一字一句をつまびらかに解き明かし、つくられ使われた経緯まであきらかにしたのが本書です。著者の広汎な教育勅語研究のなかから、前提知識なしで読める「教育勅語について知るための最初の本」として企画しました。
 以下に、本書の付録に掲載した教育勅語の全文と、著者による現代語訳を掲載します。

 テキスト版はこちらのページに掲載しています。
 どうぞ、ネットに流布している訳文と照合し、異なる部分が原文でどうなっているか確認してください。この訳が原文に忠実なスタンダードな訳文であることがわかるはずです。

 書名の「くわしすぎる」は原稿を読んだ周囲の感想からできたタイトルです。たしかに315字を4万字かけて解説する「第一部 精読」は、一般書としてやりすぎ感がなくもないですが、あとの部分はテーマ別にコンパクトにまとまった本とも評していただいています。
 テーマを掘り下げた真正「くわしすぎる」本としては、高橋陽一『共通教化と教育勅語』も、東京大学出版会から出たばかりです。『くわしすぎる教育勅語』で食いたりなかったという方は、さらにそちらへお進みください。

 今回の版元日誌では、そのこぼれ話として、出版関係のみなさまなどに関心ありそうな「朱筆」による改稿の話をお届けします。書いているうちにどんどん長くなってしまいました。10000字ほどあります。お時間あるときに気が向いたらご覧ください。

▽誤字も放置されている「四大詔勅」のほか3本
 話は変わりますが、さきごろ平凡社ライブラリーに収められた半藤一利『B面昭和史』によれば、「昭」の字は、元号に昭和が使われるまで一般にはなじみがなく、大正期までは子どもの名前に「昭」の名前はほとんど見られないといいます。しかし、明治天皇の正室が死去して「昭憲皇太后」と追号されたのは1914(大正3)年ですし、1923(大正12)年に出された「国民精神作興ニ関スル詔書」(以後、国民精神作興詔書)にも「皇祖皇宗ノ遺訓ヲ掲ケテ其ノ大綱ヲ昭示シタマヒ」という一節があります。

「国民精神作興詔書」は「教育勅語」「戊申詔書」と並んで「三大詔勅」と呼ばれ、学校に謄本が渡され、数々の解釈書が出版されています。これが、教育勅語同様に人口に膾炙したものであったなら、戦前世代から「「昭」の字になじみがなかった」などという証言が出てくるはずもありません。
 これらの詔勅はのちに1939(昭和14)年の「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」とあわせ「四大詔勅」と呼ばれるようになりました。それらの字数を比較すると、以下のとおりです。

教育勅語 315字
戊申詔書 306字
国民精神作興詔書 591字
青少年学徒ニ賜ハリタル勅語 177字

 いずれもコンパクトな文章ですが、教育勅語以外は復活論も聞きませんし、暗誦できるという人もなかなかいません。戦前においてもさほど読まれていなかったのではという疑念は先ほど書きましたが、戦後に至ってはほとんど読まれていないと言っていいでしょう。

 その傍証を挙げてみます。これらの詔勅は上記のとおり文部科学省のサイトに掲載されていますが、じつはこのサイトはたいへん誤字が多いのです。

 教育勅語で「爾祖先ノ遺風ヲ」の「ノ」が欠落したり、青少年学徒ニ賜ハリタル勅語の「気運ヲ永世ニ維持セムトスル任タル」が「任クル」になっているくらいはかわいいもので、戊申詔書の「淬礪さいれいノ誠ヲいたサハ」が「淬礦」となっているのは意味が通りません。
 国民精神作興詔書の「荒怠ノいましめヲ垂レ」→「荒怠ノ誠ヲ垂レ」は、もはやおちょくっているかのようだし、戊申詔書の「我力神聖ナル祖宗」→「我力神紳聖ナル」に至っては世が世なら不敬罪でしょっぴかれるのではないかと心配になるほどです。

 間違いは誰にでもあることで、こういう誤字を面白がっていると、かならず特大のブーメランが刺さるのでほどほどにしておきます。ここで言及したいのは、文科省の校正品質ではありません。この誤字が伝播し、数多くの「詔勅を解説する」webサイトなどでもそのままになっているということです。
 誤った語句で検索してみると、教育勅語の誤りはほとんど引き継がれず修正されているのに対し、ほかの詔勅の誤りは学術論文にまでそのまま広まっていることがわかります。つまり、四大詔勅のうち「教育勅語」以外は、読まれもせずコピペされ、その誤りに誰も気づかないまま論文が通ってしまったりする状態だと考えられます。

「四大詔勅」は教育勅語を除き、戦前・戦中世代にも親しまれず、戦後の研究でも等閑視されていると言っていいでしょう。したがって、「天皇の権威によって学校に広められ儀式で読まれたから」というだけでは教育勅語の影響力の説明にはなりません。

▽なぜ教育勅語だけが突出して読まれたか
 教育勅語はよく、法制局長官であった井上こわしの筆によって出来たと言われます。井上毅は伊藤博文によって重用され、帝国憲法起草のとりまとめをおこなった英才です。政府内でも名文家として知られていました。彼の文才あって、教育勅語のみが後世に残る名文となったのでしょうか。

 さきほどの「昭」の話に戻ると、「昭」の字は大正期だけではなく、明治期にさらに重要な文章で用いられていました。すなわち、教育勅語の前年に公布された大日本帝国憲法の冒頭にある「告文」の一文目に、「皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示シ」とあります。
 この「告文」も井上毅が細心の注意をもって起草したとされています。しかし、日本国憲法前文643字を暗誦できる人は現在ざらにいますが、大日本帝国憲法告文332字をそらんじているという人は旧憲法下でもさほど多くはなかったでしょう。
 でなければ、「昭の字はなじみがなかった」とされるはずもありません。

 また、帝国議会が開会されたのは、教育勅語が出た翌月の1890年11月29日です。この日に出された「第一帝国議会開院式ノ勅語」も、井上毅の筆になるとされています。
 教育勅語が出た当時の新聞資料を漁ったのですが、「勅語」と言及されているのはこの議会開院式ノ勅語ばかりで、これを掲載した号外や引用した社説まで出ているのにくらべると、教育勅語の扱いは小さなものでした。面白かったのは、この勅語は、井上が執筆したものを天皇が読み上げたものであることが、当時の新聞に堂々と書かれていたことです。

 ともあれ、当時にあっては華々しく注目されたこの勅語も、顧みられることなく歴史に埋もれました。数多ある井上毅のかかわった勅語類のなかで、なぜ教育勅語だけが影響を色濃く後世に残したのかという疑問は残ります。

▽中村正直案を否定するという緊張感
 教育勅語は井上毅ひとりが考えたものではありません。当時、福沢諭吉と並ぶきってのオピニオン・リーダーであった中村正直まさなおに、当初の起草は委託されました。中村正直は儒学者の出ながら、幕末期に渡英して持ち帰ったサミュエル・スマイルズ『自助論』や『西国立志編』の翻訳でその名をあげ、洋学の啓蒙に邁進した人物です。

「徳育に関する箴言」を依頼された中村はプロの仕事をしました。2週間ほどで書き上げた草案は、「その善、その悪、皆天地神明照臨するところ」「心は神の舎する所にして天と通ずる」というような東西の宗教的語彙を用いながら、「神仏儒」「外教」いずれの信仰を持とうと帝国に忠順を誓えば善良なる臣民と認められる、とするものでした。キリスト者であった中村にとって、世俗権力と信仰の自由を両立させる、ギリギリの表現をしたことがうかがえます。

 しかし、井上毅はこの草案に激しく論駁を加えます。宗教的語彙を持ち込むこと自体が、「宗旨上之争」のもととなるというほか、中村草案の難点を10項目にわたり数え上げた書簡を、総理大臣である山県有朋に送りました。とはいえ、法制局長官の職にある井上が、文部大臣の委嘱によって成った案をそこまで口を極めて批判しておいて、そのままというわけにはいきません。当然に「ならばどういうものがいいのか」という問いが返ってきます。

 当代きってのオピニオン・リーダーの原稿を没にし、それに圧倒的に勝る代案を立てなければならないというプレッシャーは、他の起草に勝るものだったことでしょう。「非常の困難を感じ候て両三日来苦心仕候」「真成なる王言の体を全くするは実に十二楼台を架するより困難」と、同年に建築中だった浅草十二階になぞらえて記しています。
 こうした緊張感が、井上草案の文言が丁寧に彫琢されることにつながったとおもわれます。

▽元田永孚というライバル
 ここでいよいよ、井上とともに教育勅語を修文した元田永孚永孚ながざねの登場となります。元田は井上毅と同じ熊本の藩校に学んだ儒学者ですが、井上より25歳年上で、大政奉還のときには49歳。当時としては高齢で、ちょうど引退するところでした。そこがこの政変で現役にカムバック。1871年に上京し、当時18歳の明治天皇の家庭教師になり、『論語』などを進講します。

 明治初期の学校における教育は、西洋学問の急速な輸入の途上にありました。大学の講義が英語やドイツ語でおこなわれていたばかりか、小学校の道徳教材までフランスやアメリカからの翻訳書が使われていました。また、教員も幕臣気分の抜けない者が多く、「徳川様」「権現様」と生徒に話しながら、天皇のことは呼び捨てというような事例も見られました。この状況を視察した明治天皇は「本末をあやまるの生徒少なからず」と不満を述べています。

 天皇の意を元田が体したのか、元田が天皇にそう仕向けさせたのかは定かでありませんが、元田は1879年に「教学聖旨」という文書を起草し、儒教流の「仁義忠孝」を重視した教育への転換を主張します。この動きを伊藤博文は警戒し、「教育議」という反論文を井上毅に起草させます。元田は「教育議附議」で再反論する一方で、宮内省での地歩を生かし、『幼学綱要』などの勅撰修身教科書を編集し、道徳教材の「国産化」につとめます。

 こうして路線対立していた元田と井上ですが、10年後になると利害は一致します。引き延ばしてきた国会がいよいよ開設されることになったのです。自由民権運動は軍事力で鎮圧していましたが、叩けばいくらでもホコリが出る政権です。議会で公に論じられれば明治政府の正統性は危うくなるかもしれません。

 1890年になっての短兵急な教育勅語の起草と普及には、1889年の米騒動から来る再度の内戦への恐れも大きかったのではないかと、岩本努『教育勅語の研究』では推測されています。
 起草経緯についての解説は、『くわしすぎる教育勅語』に、よりわかりやすく総括的に書かれていますので、そちらをご覧ください。

 元田も中村正直の教育勅語草案をよしとせず、自らの案を起草しますが、井上案を見て早々にそちらを本案に切り替えます。いっぽうで、その内容に自分の企図を反映させるべく、入念な修正案を出します。その修正朱筆が今回の主題です。

▽元田永孚の朱筆

 この画像は、国立国会図書館憲政資料室に所蔵されている、教育勅語の草案(芳川顕正関係文書・資料番号8番)です。戦前から教育勅語を研究してきた海後宗臣宗臣ときおみ(1901-1987年)が、著書『教育勅語成立史の研究』の口絵に掲載して知られるようになりました。今回、『くわしすぎる教育勅語』

の表紙にも使用しています。
 私がはじめてこの文書に出会ったのは5年ほど前です。ある小学校教員の方からこの朱筆のカラーコピーを見せてもらう機会があり、その修文の巧みなことに驚嘆しました。

 海後の整理によれば、この文書は井上草案(十五)となります。井上の草案を元田が筆写し、それに元田が自筆で朱筆を加えたものであるというのが、海後の見立てです。
 一方で、この国会図書館資料の冒頭にある白い付箋には「朱書は元田東野先生の高見 朱書は代書と認む」と書かれています。(私は読めません。著者の高橋陽一さんに読んでいただきました。「東野」は元田の雅号です。)この、海後と異なる見解を書きつけた付箋の主は不明です。

 本資料は、当時の文部大臣である芳川顕正が子孫に伝来していたものです。公務の文書を私宅に持ち帰るのは感心しませんが、おかげでこうやって現在に残りました。芳川には自分たちの行動が歴史に残るものだという自覚があったのでしょう。保存をつづけて、研究者たちに閲覧を許してきたうえ、最終的には図書館へ寄贈してくれた子孫の方々にも感謝します。
 この写真は国会図書館で手続きの上、館内の「自写室」にて現物を撮影したものなのですが、たいへんきれいな状態で保管されていました。撮影した画像は、パブリックドメインとしてwikimediaに公開しています。 余談ですが、国会図書館の撮影物の掲載・使用には都度に許可が必要になるため、wikimediaの公開ソースとして掲載申請し、それからこの版元日誌に転載するという手順を踏んでいます。迂遠なようですが、一度これをやれば、あとはどう使おうと自由になります。

 芳川顕正は、徳育方針の国定に不熱心だった榎本武揚が文相から更迭され、代わりに入閣した人物です。教育勅語の成立と普及に大きな役割を果たし、その文章も人物もなかなか味のある感激屋なのですが、そちらも『くわしすぎる教育勅語』にたっぷり収録しましたので、本のほうでご覧ください。

 朱筆をくわしく見ていきましょう。書き起こしは常用漢字にして、カタカナをひらがなにあらため、一部送り仮名を補っています。

 まず「国を肇むること久遠に」を「宏遠に」と改めています。声に出して読んでみると、その後ろの「深厚なり」と響きあい、調子がよくなることがわかります。

 次に「臣民またの祖孝に継ぎ」の「臣民」を「我が臣民」に変え、「厥の祖孝に継ぎ」を削除しています。「厥の祖孝に継ぎ」にあたる部分は3行うしろに「祖先に継術し」と送られていますが、決定稿では第四文の「なんじ祖先の遺風を顕彰」というかたちに再変更されます。

「億兆心を一にして以て国の光輝を発揚する」を「億兆心を一にし世々厥の美をせるは」という最終稿に近いかたちに変更します。この「世々」は「代々」という意味ですので、「祖孝に継ぎ」の意味あいも含みます。

「爾衆庶父母に孝に」の「衆庶」を「臣民」に変えており、その理由が上に書かれています。「衆庶二字上下を包たるといえども既に貴族衆議両院を別つ時は衆庶の二字は貴族官員は加わらざるの嫌いあり」。
 つまり、ちょうど議会が貴族院と衆議院でつくられるところなので、「衆庶」と書くと貴族などが対象に含まれないと誤解されるおそれがある、ということです。なかなか細かな気遣いです。

 このあとの「父母に孝に」に始まる徳目列挙は、教育勅語を論じるときによく語られるところです。元田の朱筆は、世俗的な「隣里相保ちて相侵さず」「小にしては生計を治め身家を利し」と言った文言を「簡明を要す」「勅諭に掲ぐるに及ばず」とコメントしてバッサリ削除しています。
 声に出して読みくらべると、この朱筆によって文章のリズムはあきらかによくなります。

「常に国憲を重んじ国法に遵い」のところも削り、この勅諭は道徳の話なのだから「別に掲示するに及ばず」と主張しています。また、教育勅語でもっとも話題になることの多い「義勇公に奉じ」の項目を、より直截的な「身を以て国に殉じ」という表現に変えることを提案しています。しかし、こちらの2つの修正は一顧だにされなかったようで、次の(十六)案には反映されていません。

 そして、教育勅語のいちばん主要な部分である「皇運を恢弘かいこうす」を「皇運を扶翼すべし」としたのも元田の手腕です。「恢弘」は教えや事業を広めるという意味の言葉ですが、いまでは一部の宗教くらいでしか使われません。「扶翼」となると、臣民自身がその皇運に向かう国体の一部になるという語感があります。
 そして簡素な「す」を、力強い「すべし」に変えました。ここは、教育勅語に唯一ある命令部分です。

「独り朕が善良の臣民」を「善良」を「忠良」に変えています。上の注記にあるとおり、3行目の「臣民亦克く忠に」と照応させる工夫がされています。

 結びの文の「朕爾衆庶とともに遵由遵由じゅんゆうして失わざらむことを庶幾こいねがう」を「朕爾臣民と倶に拳々服膺して終始れ一ならむことを庶幾う」としています。「遵由して失わざらむ」というのは、よく守って忘れないようにというような意味ですが、元田は「道を進まんと欲する精神に欠く」と不満です。たしかに、「忘れ物をしないようにしようね」は、やや後ろ向きな注意で、締めにはちょっと不向きかもしれません。

——–
聖訓報告の「語句釈義」に、「(略)拳々服膺とは、両手で物を大切に持つて胸に着けるやうに遵守するをいふ。 」とあります。いずれにせよ、身体の一部になるほどの状態ですから、しっかりと体得するという意味で理解できます。
『くわしすぎる教育勅語』93-94ページ
——–

 たしかに、「拳々服膺する」のほうがふさわしそうです。

 さらに重要な改稿がこの「惟れ一ならむ」です。最終稿では「其の徳をいつにせん」となりますが、この「一に」は、冒頭の「億兆心をいつにして」と照応することを企図しています。

 こうして文章構造を整理するとともに、自らの望む方向へ文意を徐々に誘導していく元田の筆には迫力があります。この改稿と教育勅語普及の制度実現に精魂をかたむけた元田は、その後2か月足らずで世を去ります。
 実学重視の井上の意にかならずしも沿わない部分もありますが、文の出来があきらかによくなる以上、逆らい難いというところもあったはずです。

▽教育勅語の内容面での強力さ
 こうして出来上がった教育勅語の文言は、ごくシンプルなものになりました。
 井上毅は中村正直の草案を批判して「君主の訓戒は汪々おうおうとして大海の水の如く」なるべきであり、悪を戒めたり愚行をなおしたりという言葉は使うべきでないとしています。
 その方針にしたがい、教育勅語は「〜しなさい」「〜することを望む」と書いてあるだけで、強圧的な禁止事項は明示されていません。比較してみると、キリスト教の十戒はその名のとおり、「べからず」しか書かれていませんし、他の多くの宗教的戒律も、他の四大詔勅も具体的な禁止事項を含んでいます。

 教育勅語にある命令は唯一「爾臣民、皇運を扶翼すべし」のみです。第一文はその由来、第二文の他の徳目は「皇運扶翼」のための手段の例示。それ以降の文は、その命令を守ることの意義を説いているだけです。教育勅語の文面の強さは、この単純さにあります。わずかに残った「失わざらむことを」という消極的文言も、元田の朱筆によって消えました。

 禁止がないということは、受け入れやすい面を持ちますが道徳律としては欠陥でもあります。教育勅語には「盗むな」「殺すな」というような一般的な道徳の基本原則が書かれていません。
 こんなものを道徳律にしたから、大日本帝国臣民は、他を侵し盗み殺すことに躊躇しなかったというのは言い過ぎでしょうか。

 長谷川亮一『教育勅語の戦後』は、そのタイトルに反して戦前の出来事も興味深い内容がたくさん書かれている本ですが、第5章にこんなエピソードが紹介されています。1918年に大規模な汚職事件があり、取材を受けた新渡戸稲造が、「国民の道徳教育に欠陥があるからではあるまいか」と主張しているのです。

 その根拠として、小学校に「一番好い事と一番悪いと思う事はなにか」というアンケート調査の結果を挙げ、回答が「版で押したように一番好い事が忠、一番悪い事が不忠という答ばかりで、『正直が一番いい』というような答えは一つもなかった」というのです。新渡戸は「日本人の頭脳には平常は少々怠けても不正直でも国家に一旦緩急ある場合に異常な功を樹てさえすればれで国民として立派なものだという考えが潜んでいる」という辛辣なコメントを残しています。

 井上と元田らが苦心してシンプルな道徳原理を体系化した教育勅語は、多種多様だった「臣民」をひとつの価値観に束ねることに、成功しすぎるほど成功したといえるでしょう。天皇への「忠」がなにより大事というわかりやすい価値観は、悪質な流感のように即座に国中に広まりました。

 硬直化した国粋主義の高まりといえば、1935年の天皇機関説事件に端を発する国体明徴運動が有名です。しかし、教育勅語が世に出されて半年あまりのうちに物神化した「御真影」や「勅語謄本」への非礼を糾弾する「不敬事件」が頻発しています。この混乱に苦慮して、学校儀式の方式を変更する対策がとられたのですが、その詳細は『くわしすぎる教育勅語』第二部6章をご覧ください。

 ともあれ、教育勅語がつくりだしたシンプルな価値観は、ひろめた当事者たちをも攻撃対象とする、制御不能な怪物へと育っていきました。

▽教育勅語は死んだのか
 この「天皇への忠」ひとつにすべての道徳を集約するという教育は、戦後に否定されました。しかし、その心構えとして説かれ、井上と元田の合作の名文が植えつけた「億兆心を一にして」「其の徳を一にせん」は、いまも日本の学校教育に、ひいては社会に残っているようにおもえてなりません。

 みなさんは、学校で「心をひとつにして」と言われませんでしたか? ひとつにする対象は、はっきりしている場合もありますが、どうも「ひとつになること」自体が目的となっている場面が多々あります。
 先生たちはなぜか、「クラスの・学年の・学校の一体感」を出すことが大好きです。たまさか居合わせたクラス、学年、学校、街、県、国で、種々のバックグラウンドをもつ構成員が「心をひとつにする」ことは、そんなに大事なことでしょうか。

 8年前の震災では、こんなポスターがあちこちに貼られました。

 One for all, All for Japan(ひとりはみんなのために、みんなは日本のために。)
 このフレーズの元ネタは One for all, All for one(一人はみんなのため、みんなは一人のため)です。17世紀からヨーロッパに各言語で使われていた言葉で、私はデュマの小説「三銃士」で最初に知りました。

 近年の日本では、本当の意味は「一人はみんなのため、みんなは勝利のため」であって、前段と後段では One の意味が違うという解釈が、スポーツ界隈を中心に広まっています。大デュマの文章や近世の用例とは意味が合いませんが、そちらのほうが気持ちよく受けいれられる人も多いのでしょう。
 スポーツの試合なら、勝利という目的は明確なので、この解釈でいいかもしれません。それでも、勝利のためにどこまで他事を犠牲にできるかという個々人の多様性は集団性のなかで捨象されがちで、それはそれで問題です。

 この One を企業だの国家だのに適用するのは意味がわかりません。企業や国家というのは構成する個々人の幸福のために使用される手段であって、目的ではないはずです。
「天壌無窮の皇運」という虚言にすべての道徳を従属させた教育勅語の、無反省で暴走しやすい道徳原理は、「天皇」を「みんな」に変えたうえで、私たちの周囲にまだまだ生きているようにおもいます。

 ですから、「いまさら教育勅語」ではなく、「いまだからこそ教育勅語」なのです。そのシンプルすぎる文言が何をもたらしたかをいま知ることには意味があるのではないでしょうか。
くわしすぎる教育勅語』を、どうぞお読みください。

太郎次郎社エディタスの本の一覧

このエントリーをはてなブックマークに>追加