「平成」に負けた「修文」にまつわる話〜『北平日記』と目加田誠博士〜
この文章が掲載される頃は新元号の話題で持ち切りだと思います。さて、どんな元号がどんな演出で発表されることでしょう?
三十年前、新元号「平成」が発表される場面は今年になって何度も何度も目にしました。今ではその舞台裏も明らかになっています。最終的に三案に絞られ、「修文」「正化」が退けられ、「平成」を採用。アルファベットの頭文字が決め手になったようです。
その「修文」を考案されたのが九州大学名誉教授の目加田誠博士(1904-1994)でした。そして、「修文」に至るまでには二十個の別案があり、推敲の過程がわかる手書きメモが発見されました。このメモは、博士ゆかりの大野城市の「心のふるさと館」で5月26日まで公開されています。
大野城市の「心のふるさと館」には、博士の中国留学時の日記、『北平日記』も所蔵されています。縁有って小社から刊行することになりました。
「北平」とは今の北京、1928年から中華人民共和国建国までの間、北京は首都ではなくなっていますので、「北平」に改称されていました。九州帝国大学法文学部に赴任したばかりの若き目加田博士は、1933年10月から1935年3月まで北平留学します。その間ほぼ毎日日記をつけていました。それが『北平日記』です。これを活字に起こし、九州大学の学生たちによって詳細な注釈が加えられました。さらに、博士のアルバム等から当時の写真や絵葉書を配しました。
五・一五事件が1932年、二・二六事件が1936年であることを考えると、どういう時代であったかは自ずとわかるというもの。例えばジャーナリストの日記であれば、キナ臭い空気を感じ取っていたのでしょうが、博士の日記には表面上そんな記述はあまり見当たりません。学問・研究を通しての交流に限られていると言ってもいいでしょう。そうして親しくつき合った中国の学者たちが、戦後「漢奸」として糾弾されるのを知り、どれだけ心を痛めたことか想像するに余りあります。
平和の大切さを身にしみて感じ、その思いが「修文」という元号案に込められていたのだと思います。「文学部不要論」が大手を振ってまかり通る昨今ですが、時流に乗った研究にのみ金を出すような政策は、実はかなり危ういことではないでしょうか。「文」を疎かにしてはいけないよ、そんな博士の声が聞こえてきそうです。