Uターン転職で手痛い経験が転機!? 改めて「自分は本が、そして人が好き」
◆一部上場IT企業にUターン転職も
私は2015年6月まで神奈川県で新聞記者をして何不自由ない生活を送っていた。家庭の事情から地元の名古屋で転職先を探していた。36歳で転職した先は、名古屋に本社を構える一部上場のIT企業。全国的にも地名度が高い会社だ。この転職がとにかく“大失敗”だった。
面接の仕事内容とは違い、配属はコールセンターのテレアポ部門。初めての仕事だった。正社員で入社したものの、いきなりアルバイトの高校生たちと同列に競争させられた。テレアポ受注数の成績は、女子高校生に圧倒された。電話だけで仕事が完結するのだから、応対技術はあるにせよ、「声」が良ければ、あぐらをかいて仕事をしても、漢字が書けなくても、首相の名前を知らなくても問題は、ない。手もとにあるトークマニュアルを順番に愛想よく読めばいいわけだ。
夏は毎年40度近くになる猛暑の名古屋。超高層ビルのオフィスで効きすぎた冷房にブルブル震え上着を着込み、私より年下の上司とアルバイトの高校生たちにビクビク怯えながらトイレを我慢し一日中架電する毎日。朝7時には会社に着き、帰りは自腹でタクシー。人生でドン底、結局1か月半しかもたず、失意の中にいた。人生の中で絶対戻りたくない時間となってしまった。今でこそ話せるが、この経験が大きな転機となったのかもしれない。
◆創業から丸3年
IT企業に辞表を提出した日に、名古屋駅西のビッグカメラでなけなしの貯金をはたいてMacBookを買った。その後ジュンク堂書店に立ち寄り、たまたま手にとった一冊の本は、名古屋が舞台だった。学生時代、あれだけ好きだった名古屋がこわい。まずは自分なりの名古屋を取り戻したいと思った。
IT企業を退職した翌月、2015年9月に、周りの反対を押し切り、地元の名古屋市瑞穂区で桜山社(さくらやましゃ)という名前の出版社を創業した。社の由来は桜山という地名から。仕事場は、徒歩3歩の自宅兼職場。机とパソコンとスマホしかない。関東に長い期間いたため、地元の出版関係の人脈、ツテがほとんどない。相棒はMacBookと飼っている犬のミニチュアダックスだけだった。
創業するのは簡単だが、一年は本を一冊も出せず、紹介してもらった他の出版社の仕事を業務委託でやっていた。ここでとんだハプニングが……。2か月間、奈良県を取材する仕事だったが、その出発前日に右足を骨折してしまったのだ。初めての仕事だ。今さら骨折してできませんとは絶対に言えなかった。いや、ここまで来たら失うものは何もない。足の一本や二本どうってことはないと開き直った。出張先で特殊ギブスを作ってもらい乗り切ったが、骨折した足は今もチクチク痛む。散々な船出となり、自分にとっては激動の2015年だった。
◆地元の書き手を大切に
書店営業は大苦戦。まだ自社刊行物がないのに地元の書店に挨拶に行ったら、「はぁ……」と相手にされない。でも不思議とそこには、IT企業にはなかった「人」の温もりが確かにあった。本の匂いが心地よかった。それは今でもはっきりと覚えている。言葉にはうまく言い表せないが、妙にワクワクしたものだった。それだけ対面して人と話すことが恋しかったのかもしれない。飢えていたのだろう。
退職してから1年3か月後、自社から初めて世に送り出す本が完成した。タイトルは『幸せを声にのせて』。
私が学生時代にテレビ局のアルバイトでお世話になった小堀勝啓さんの本だ。その後は、伝説の中日対巨人戦「10・8」決戦をテレビ実況した吉村功さんの『アナウンサーは足で喋る』。
芥川賞候補に二度選ばれた作家の広小路尚祈さんの『いつか来る季節』。
大阪のアートフェアで日本人初のグランプリを受賞し、世界を飛び回る気鋭の絵描き河野ルルさんの『絵を描くことに恋をして』
など地元の書き手の思いがたっぷり詰まった本が続々形になった。ありがたいことに、マスコミでも数多く取り上げていただいた。返って来た読書カードを食い入るように読んでは泣いた。
9月に出す2冊の本のタイトルは、元名古屋市博物館の学芸員だった出川広さんの『天平の律令官人とくらし』
と東海ラジオパーソナリティ・深谷里奈さんの『エコヂカラ』。
ジャンルはばらばらだが、名古屋から発信する情報や地元の書き手を大切にしたいという思いはずっと変わらない。一冊の本を売るのは本当に難しい。販促も営業もなかなか一人でこなせず、著者には申し訳ないと落ち込む日もある。ただ、「孤独」を感じることは少ない。流通をお願いしているトランスビューに行ったときは、少し元気を分けてもらえる。先輩版元の皆さんがこぞって声をかけてくれるからだ。一人でやっていても、先輩方の元気で酔っ払っている姿?が見えるだけでありがたいもの。そこには生身の「人」が汗を流し、協業して頑張っている姿があった。「捨てる神あれば拾う神あり」。そんなことを実感する毎日を送っている。