「飛び込み」著者・第一号 武井知さん 『北斗は冴えて山河遙し-サハリン物語』出版の話
四国は愛媛県松山市の一隅で夫婦二人での小さな出版社を立ち上げ、40年が過ぎました(現在は、夫の妹と娘が加わり4人体制)。
気がつくと40年・・・という気分であまり実感はないのですが、振り返ってみると、やはり山あり谷ありの40年。思い出されるエピソードには事欠きません。
とりわけ、ウチから本を出版した著者達との出会いには、一人一人についての物語がありました。
実は、わが創風社出版、営業がなによりの苦手(それがために、40年経っても自営業のまま)。あまりこちらから積極的に営業に出向くことはありませんでした。
では、どうやって著者に巡り会うのか?
まずは、友人・知人から。私たちは喫茶店から転職し、出版社を始めたのですが、それを待っていたかのように、喫茶店時代の客たる友人達が貴重な原稿を託してくれました。彼らと彼らから広がった著者達は、今も小社の大切なラインのひとつです。
そうして、もう一つ、今、懐かしく思い起こされるのが、「飛び込み」のラインです。
私たちが開業した当初、愛媛県は出版の低調な地域だったと思います。地元新聞社の愛媛新聞社や行政が文化資料的な出版を担い、学校関係の研究書等を含む自費出版は印刷会社が担い、全国的に本を「売る」出版社はありませんでした。愛媛の研究者・著述者にとって、書店で売りたい本を出版しようと思えば中央の出版社にもちこむしかなく、大変ハードルの高いものでした。それでも、何とか本を出したい・・・そんな人が「松山でやっているところがあるよ」と噂を聞きつけて、ウチを訪れてくれるのです。
そんな飛び込み著者の第一番目が、武井知さんでした。
彼が訪れてきたときの光景は、今も目にやきついています。
ある夏の日、事務所のドアを叩く人がいて、それが武井さんでした。
ドアを開けばワンフロアの作業場の様相の我が事務所。その入り口に立った初対面のその人は、半信半疑の面持ちで、本を作りたいのだが、ここでそうしたことはできるのか、と訊ねます。胸にしっかりと抱えているのは、原稿の袋でした。応対した私が原稿を見せて貰おうと手を伸ばすと、その人はしっかりと原稿を抱きしめて、社長さんに・・・と言います。受付の女性(私=たまたま入り口近くにいた)にポンとは渡せない、大切な原稿なのでしょう。奧から社長(夫=正式には社長ではない)が出て来ました。Tシャツに半ズボン姿の夫を見て、想い描いていた「出版社」には、ほど遠い姿だったのでしょう、彼はひどく落胆した顔になりました。
それでも、彼がその場で回れ右してしまわなかったのは、抱えていた原稿を本にする、ということが、退職後の彼の人生でなにより大切なことであり、藁をも掴まざるをえない彼にとって、私たちは、まさに「藁」だったのでした。
手書きできちんと、かつ、びっしりと書かれていたのは、武井さんの青春の記録でした。
17歳の闘病・初恋に始まる10年近くの人生のもっとも美しい日々。ただし、それは、武井さんのもっとも辛く厳しい日々でもありました 武井さんは樺太(現サハリン)生まれの樺太育ち。もともとは松山の人である父親が教師として樺太に赴任、そこで生を受けました。大正11年の生まれ(私たちの親の世代にあたります。私たちは、さぞ頼りなくみえたことでしょう)。すなわち、まさに戦争に青春を奪われた戦中派の人なのでした。
さて、病を克服した武井さんは樺太師範学校を卒業、名寄村の教師になります。そして敗戦を迎え、当地に抑留。教師として、日本人生徒達すべての引き揚げ帰国を見届け、昭和23年9月、ようやく自身も引き揚げを許され、家族の待つ松山に帰り着いたのでした。
樺太での引き上げまでの10年近くを綴った青春記。それは武井さんにとってなんとしてもまとめておきたいものですが、もう一つの目的を持っていました。
武井さんたち、敗戦により故郷を追われた名寄村の人々は、戦後の混乱期を乗り越えたのち、連絡を取り合い、昭和46年、「樺太名寄会」を発足させました。その会が20周年を迎えます。武井さんの本は、その20周年を記念して企てられたもので、是非とも当時の苦難を共にした会の人たちに届けたい。会の人たちも、楽しみに待ってくれている・・・
つまり、「締切」があったのです。
武井さん、腹をくくったようです。不安そうな面持ちのまま、原稿を置いて帰りました。
出版を始めてまだ5年、戦時中の用語などの知識に乏しい私たちに、戦時体験の手書きの原稿、締切付き。当時の私たちに、不安はなかったのだろうか、と振り返ってみますが、そうした記憶はありません。むしろ、遺すべき貴重な記録の本の出版、と意気に燃えていたように思います。武井さんは、さすが元教師、何度か繰り返された校正に、丁寧に取り組んでくれました。
そして、期日を前に、無事、刊行!
記念すべき飛び込み著者による出版第一号『北斗は冴えて山河遙けし-サハリン物語-』は、こうして出来上がりました。

出来上がった本は、樺太名寄会の人々に喜ばれ、武井さんは目的を達しました。
また、おそらく、サハリン抑留に縁ある人たちでしょう、ウチへの注文や問合せも多く、本は、いつしか在庫の山を低くしやがて絶版。武井さんも不帰の人となりました。
今なら、電子図書化しただろうにと思うと、残念です。
しかし、著者の必要を満たし、国会図書館や地元の各図書館にも蔵書されました。今後、この本を読みたいと思う人が現れたときには応じることができる、一応、出版の役割は果たせたのではないかと思います。
ちなみに、武井さんは、どうやって創風社出版を知ったのか?
なんと、近所の新聞配達取次所に相談に行ってウチを教えて貰ったのだそうです。「どちらも同じ印刷物だから」と武井さんは言いますが、その新聞配達取次所の人がウチを知っていたのは、全くの偶然。幸運な偶然に感謝するほかありません。
さて、武井さんは本書の「おわりに」に、こう記しています。
--戦後四十年、北方領土問題は未だに解決されていない。例えソ連国内の改革(ペレストロイカ)が浸透していっても、解決は至難の業であろう。-中略-
戦争は再び繰り返してはならない。それは戦争を経験した多くの人々の悲願である。愛と真心をもって身近な家庭より社会へ、社会より国家へ、そして世界へと平和への祈りと行動の輪を広げていきたいものである。--
戦後80年を経た今、武井さんの言葉が、片付かない宿題のように胸に刺さります。