版元××日記
×月×日 版元G社のNさんから『日記』シリーズのうち1点の重版連絡が届く。いつものように、奥付の日付と刷り数を修正して送信。出版不況とはいいながら、売れている本は売れている。こちらも編集プロダクションとしてスタートして20年、こんなに奥付更新を繰り返した本はほかにない。
×月×日 版元※※社の社長から電話。「年末に作って欲しいと言ったスリップの件だけれど、やはりスリップは作らなくていいや。君の言うように、いまはスリップなしで見本を出しても、取次は何も言わないのだね」「いえ、まだ作っていません」「え? まだ作ってないの? そう、気を利かせてくれたんだ」「いいえいえ、※※さん、気を利かせたんじゃありません。年末に、これだけの額を振り込むといって、それきりじゃないですか。振込を待っていたんですよ。ぼくは気なんて利きませんから」「ああ、そうだねえ、悪かったね。確かに、振り込むって言ったね」。脳梗塞で倒れてこのかた、頭の働きが悪くなって……と、ひとしきり言い訳を聞く。スリップの版下作成は不要になったが、振込はない。
×月×日 3月刊行予定の『アルトナの幽閉者』念校を訳者に送付。
×月×日 『竹内芳郎著作集 第3巻』の件でA印刷所の営業から電話。用紙から製本まで任せているが「本文用紙紙がないんですよ、他の用紙では……」ナニ?「いや、ダメダメ。著作集なんだから、3巻目から本文用紙が変わるなんて、みっともなくて、できない。出来上がり日がズレてもかまわないから、紙を調達してほしい」。若くて半人前の営業。たぶん発注を忘れたのだろう。これまで第1巻、第2巻と刊行済みの著作集で、仕様はまったく同じ。11月から入稿を始めて、12月初旬には付き物の本紙校正を終えている。本文も12月のうちに入稿、白焼き確認を終えて下版ズミ。年が明けて、もう刷版が出来上がっている頃だ。今になって、いきなり「紙がない」はあまりにひどい。
×月×日 『竹内芳郎著作集』のA印刷所営業から電話。「用紙、見つかりました!」。スゴイでしょう、と言わんばかり。キミ、何か勘違いしている。とりあえず日程はそのまま進める。
×月×日 Nさんから『日記』シリーズと、『M氏連作』シリーズの重版連絡が届く。どんどん売れている。
×月×日 政策金融公庫の担当者が来社。借り換えの書類はすべて渡したハズ。「担当が変わって初めてなので、一度うかがわないといけないことになっていまして」。雑談から駒込・巣鴨界隈の話に。「城北信金にいたんですよ、あの辺り、懐かしいなあ」。地元話や昔話を金融機関担当者とよくするのは、ほんのわずかでも与信の印象がアップするというこちらの思惑。創業時にいくつかの銀行で口座を開こうとして断られたが、三菱(のような大銀行)では10分待つだけで開設できた。そのときは、小学生のころからお年玉を貯金し、成人してからは公共料金の支払いほか30年以上使い続けた三菱の個人口座が与信にものを言ったのだった。
×月×日 『アルトナの幽閉者』訳者から、戻しの日程連絡。これで入稿日が決められる。B印刷所や、紙問屋等に手配を開始。帯に縞目用紙を使おうと、神保町の竹尾に行って見本を見比べる。ピケが廃番なので、NTストライプに。紙問屋のDさんに相談すると、「縞目なら、Y(品名失念)だといくらか安いですが、縞目をはっきり出したいのでしたらNTストライプのほうがベター」との回答。いつも頼りになる営業さん。それに決める。
×月×日 ※※社長から電話。「いま振り込むからね、次の組版をなんとか頼むよ。これじゃ足りないだろうけど……財団から発行が遅い、遅いと言われるから」「年度末に向けてこちらも組版が混んでいますし、いますぐにといっても、出来上がりはもう3月末は間に合わないかもしれません」。入金を確認。「これじゃ足りない」とはいっても、某財団の発行物で※※社長にも収入源だから、止めるわけにもいかない。とにかくスタッフに組版指示を出す。
×月×日 Nさんの事務所に『M氏連作』シリーズの最終巻(M氏逝去による)の初校ゲラを届ける。朝日新聞の朝刊、2~3面の見開きに両全5段を打っているのを見たが(それぞれ『日記』シリーズと『M氏連作』シリーズ)、「ああ、あの広告は3面の半5をとっていたところ、たまたま2面が空いていて、Mさんも亡くなったので。偶然に」とのこと。広告に踊る「総計」刷り部数は、シリーズそれぞれ70万ずつ。140万部かあ。Nさんは創業時から、何万部売れても何も変わらない。一人出版社で、狭い事務所で時に裸足、什器や備品が増えるでもなく、社名の入った封筒一つ作らない。質素で真面目。創業当時なら珍しくないが、140万部売れても変わらないのはあっぱれ。
×月×日 『竹内芳郎著作集 第3巻』のA印刷所の営業が来社。いつものようにおしゃべりする雰囲気なので、「あれね、あなた、紙はいつ発注したの?」と訊ねる。返答は曖昧。ダメだこりゃと、「この著作集、初めてじゃないでしょう? もう3巻目で、校了したのは12月じゃないですか」。そこまで聞いてさすがに気づいたのか、初めて「スミマセン」の言葉。
×月×日 大連の外注業者が春節休みに。旧正月は例年2月初旬だが、今年は暦の関係で1月月末にかかってしまってピンチ。年度末にむけての書籍進行と雑誌6誌の締切が重なり、猫の手も借りたい。
×月×日 ※※社長から電話。「まだ初校はできないかなあ」「混んでいて、すぐには」「それは前に聞いたよ」「ですからまだしばらく」「今朝もね、事務所に来てもさあ、何もすることがないんだよ! 暇だからさあ、ゲラ、出ないかなあと思ってね」。パチンコにでも行ってください。
×月×日 文化産業信用組合の営業が定積集金に来社、いつもの世間話。さすがに商売柄、秀和システムズを買収してフナイにちょっかいを出した某の名前は、今回の件よりも前に耳に届いていたという。
×月×日 ◉社(独立する前の勤務先)に顔を出す。◉社長と雑談。体調や社の今後のことなど。「今年はもう84になるからな」。足が痛くてゆっくりとしか歩けず、水道橋の交差点を渡るのが恐いという。
×月×日 雑誌『AA』が校了。月末から数日の出張校正で一気に片づける、いつものパターン。今回は編集助手に学生がいた。編集長はじめみな若く、元気いっぱい。一方で編集長から某紙の廃刊の噂を聞く。「年内いっぱいじゃないかっていう話です」。
×月×日 ※※社長にゲラを届に行くが、事務所は留守。来てもすることがないのだろう。扉前に置き配。
×月×日 Nさんから『M氏連作』の2点の重版連絡が届く。1点は31刷、いま1点は20刷。以前は重版連絡のメールのやりとりに、その都度ひとことご愛敬を書いていた。「スタートダッシュですね」だとか「伸びますね」といったように。しかしもう、ここまでくると使う言葉がない。ただ売れ続け、ただ奥付を送り続ける。
×月×日 『アルトナの幽閉者』の見積りが出揃い、部数を確定。翻訳契約に電子が含まれていないので、紙の本のみで長く売ろうと考えると、多めかなと思いながら1000部にする。
×月×日 広告代理店から電話。「読書人」に鈴木道彦さんの追悼記事が載る予定。澤田直さんが鵜飼哲氏と対談する。スペースは半5段だという。「そりゃ広いなあ……」と躊躇すると、代理店は「そうですねえ、ほら、書影を入れたりとか、ほかの本も……あるじゃないですか、罫線を入れて……云々」。とにかく出稿は決める。レイアウトはまた考えなくては。
×月×日 ◉社長から電話。足の具合も話さずにすぐ「▼が辞めるんだよ」と切羽詰まった声。▼氏はただ一人の社員で、今月いっぱいと言う。「オレがいい加減なことをしてきたのだから、愛想をつかされた」。とにかく日常の業務を引き継げる人を探さないといけない。旧知の◉社OB氏の電話番号を教える。
×月×日 『竹内芳郎著作集 第3巻』の見本が届く。函から出して、開いてみる。投げ込みの「栞」がない。と思ったら、函に入っていた。A印刷所の営業氏に電話。「投げ込み、と言って頼んだ栞だけど、投げ込まれていない。まだ製本工程が終わっていないのなら、書籍の中への投げ込みに変えて欲しい。函に直接入れていると、見逃す人もいて、本を入れ直すときにクチャクチャになるかもしれないから」「もう製本はすべて終わっています。これから梱包を開いて、こちらで投げ込み直しましょうか?」「……いや、もうそのままでいい」。
×月×日 『アルトナの幽閉者』素読み。調べ物をするうちに、サルトルが初演後に刊本を受け取って「これが大事なんだ」と言ったことを知る。舞台の一回性より書物の永続性に恃むところがあったということか。
×月×日 ◉社の社員▼氏が来社、話があるというので「あれだな」と思い、伴って喫茶店に。「◉社を今月いっぱいで退職します」と、挨拶。ここ数カ月の様子や◉社長の具合、ファイナンス状況などを話す。自費出版の順番待ちが「9人いるんです」と心配顔。「9人くらい、なんとかなるだろう」とこちらから、以前発売元を引き受けていたX版元の話をする。「何年前だったかな、突然税務署から人がきてね、差し押さえだと言うのよ。X版元の売掛先(債権)があるのは唯一、発売元のウチだけだから。それでX社への次の支払分を税務署に払う書面にサインさせられた。行政執行だからね。日付だけじゃなく時刻も記載して。それですぐにX社の社長を呼び出して訊ねると、ほかに債務はないと言う。印刷所はもう現金じゃないと仕事してくれないと(支払が溜まればどこも同じだ)。債務らしい債務は……自費出版の順番待ちの6人だけだと。それから1年くらい経ったかな、このX社の社長、心臓発作で急逝しただろう、それでこちらにジャンジャン電話が来た。借金取りだ。印刷所、倉庫、販売代行、広告代理店……みんな、金返せ、だよ」「返したんですか」「返さないよ。こっちだって取次から返品がどんどん来て、あっという間に向こうへの赤算、債権者の仲間入りだからね。で、その借金取りの中にね、お金を出したのに本が出ていないという著者がいて、30人弱だったかな。まあ、小零細の出版って、そんなものだよ」。▼氏は顔を引きつらせていたが、たぶん笑おうとしたのだろう。これからの就職先の話などをしながら、こちらから「食べていかなくちゃいけないんだから、辞めるのに何もうしろめたいことはないよ」と背中を押すと、「そう言われて……よかったです」としんみり。次の仕事にもアテがあるようなので安心したが、昼休み途中らしくソワソワしていて、深く話し合わないうちに喫茶店を後にする。
×月×日 『アルトナの幽閉者』訳者から責了紙が届く。思わぬ見落としあり(いつものことながら)。常々「誤植は書籍の微笑みですから」とウソブイているが、そうは言っても恥ずかしい誤植もある。
×月×日 ◉社に勤務していた時代からの「社友」氏に久しぶりに電話。◉社長とも古くから昵懇の仲。◉社の現状を話すと「▼君が辞めるのは仕方ない。今後は◉社長の考え次第だな。こちらには協力する準備はある」とのこと。話しながら、雑誌『AA』編集長から噂として聞いた、廃刊(するかもしれない)某紙勤務の一人を思い浮かべる。職探しはしているのか。それを「社友」氏に話すと、まんざらでもない返答。
×月×日 「読書人」用の広告原稿を代理店に送信。道彦先生の著作『余白の声』『私の1968年』、監修をされた『鈴木信太郎巴里日記1954』(その「まえがき」は遺稿になってしまった)と『竹内芳郎著作集』を半5段に並べる。書影は入れず、アキを配してすっきりとしたレイアウトに。なんだかちょっと、みすず書房の広告っぽい。
×月×日 電話が鳴る。「本を買いたい」と、年配男性の声。手元には置いていない、倉庫にあるので、書店さんに注文して欲しいと答えるが、引かない。「すぐ近くまで来ているのだから」。書名を確認すると『竹内芳郎著作集 第3巻』。見本分の残りがある。ではどうぞ。「そちらの事務所、何か目印ない?」。とくにないが、そもそもどこにいるのか。「いまどちらに?」「大通りだよ」。しまった、断ればよかった。この手の人は……。「どちらの大通りでしょうか」「大きな交差点がある。何だろう、あ、国道だよ」。いらだつ。「中華料理屋が見える」「交差点に学校の名前がある」「教会? ああ、あれかな」。などなど10分ほど(すぐ近くじゃなかったのか)、何度か電話を切りたくなる衝動を抑えながら道順を案内する。無事に到着して、ドアを開けると、これ見よがしにガラケーをパタンと目の前で閉じる。何かの主張なのだろう。本体6200円の本が売れたのに、不快感だけが残る。
×月×日 『アルトナの幽閉者』校正紙がB印刷所から届く。日程と予算の関係で、付き物は簡易校正にしたが、NTストライプの刷り上がりが気になる。特色のグラデーションを使ったので、かすれてしまわないか。紙問屋のD氏は「NTストライプは表面加工していますから、だいたいだいじょうぶ」とのことだった。一部抜きを待つ。
×月×日 ※※社長が財団本の校正紙を持って来社。「今度また、某氏の自費出版ね。彼は今度の自分の本が5万部売れるって言うんだよねえ。ムリだよ、ムリムリ、せいぜい5000部だよなあ」「いや、500でしょ」「それにしてもさあ、なんで自分の周りにはこんな幻を見ているような人が集まるんだろうねえ」「※※さんがそうだからでしょ」。無言。
×月×日 版元ドットコムの「版元日記」締切に気づき、慌てて書き上げる。このひと月ほどのことで印象に残ったことがらをピックアップ。日々、30~40通のメールと、電話や来訪者に追われ、編プロ稼業の案件を年間150本ほど回し、資金繰りに刻苦呻吟しながら、それでも本を作る。ああ、なんてこった。