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なぜ紙の書籍が売れなくなったか――中国の書籍販売事情

 昨年、私事で中国上海に一時帰国した。用事をすべて済ませてから、学生時代によく通っていた「上海書城」へ行ってみようと思った。「上海書城」は中国でも最大級の書店であり、本屋がいっぱい並んでいて文化的雰囲気が濃いということで「文化一条街」とも呼ばれる「福州路」にある。

 場所は二十年前と変わらずすぐに見つかったが、入ってみるとまず驚いたのは天井の高さだった。いつの間にかリニューアルされたのか、目視で5メートル以上もあるのではないか。しかしそれ以上驚かされたのは、床から天井まで目いっぱいに取り付けられている書棚だ。書棚には本が詰めるだけ詰めてあるため、大人でも半分以上の本を取り出すことができないわけだ。そんな壮絶な光景を眺めながら、感心というよりそれがおかしいと思った。もうただの展示会のようなところになってしまい、書店としての機能は失われかけているのではないか、と。
 そして、中国では実書店で本を買う人が非常に少ないということも、この日自分の目で確認できた。平日ということもあったが、店内はがらがらで、レジカウンターの前で購入者の姿を見ることは一度もなかった。
 正直、この世界のどこでも実書店の衰退が進行しているのが分かっているので、ある程度予想できたのだが、学生時代に一番好きだった場所なだけに、悲しくてならなかった。実はほかの国よりもひどいと思われるこの衰退ぶりは、背後に中国独自の事情がある。
 まず、価格の問題だ。日本では「再販売価格維持制度」というものがあり、どの地域や書店(ネット書店も含めて)でも本が定価で販売されることになっている。しかし中国にそのような制度はないというか、正確に言うと、ネット通販の場合は本を定価より安く販売することが許されている。現に、新刊でもネット通販店で1~2割引の値段で購入できるのは、だいぶ前からもう当たり前な「常識」になった。それだけでなく、「200元以上お買い上げの場合、さらに50元OFF」といった販促キャンペーンが毎日のように行われている。
 よく知られているように、中国の通販サービスとキャッシュレス決済は非常に発達しており、それが激安の運賃(送料無料の場合も多い)で全国の隅々まで商品を届けられる強大な物流システムと相まって、ネットで買い物する消費者を爆発的に増やし続けている。そのため、当然ながらネット通販店のほうが立場が強くなり、「新刊でも割引で販売するよ」「仕入価格をもっと安くしてくれ」「どんどん販促キャンペーンを実施しよう」といった条件を、出版社に吞み込ませることができるわけだ。その結果、ネットで本を買う読者がますます増えていく。読者にとって、ネット通販を利用すれば安く買えるし、パソコンやスマホで簡単に注文できるのでわざわざ書店へ足を運ぶことはない……まあ、人々が実書店へ行かなくなったのは当然の結果だろう。
 次に、電子書籍の問題だ。紙の書籍と電子書籍とどちらのほうがよいかという議論は、恐らく永遠に続けられていくだろうが、私も含めて多くの人はだんだん電子書籍に軍配を上げるようになってきた。自宅に本を置ける場所がもうないのだという現実問題は大きな理由の一つだが、ほかに、電子書籍サービスの進化やスマホ・タブレットの普及で電子書籍の購入と閲覧が便利になったことと、紙の書籍より安くて割引やポイント還元などのキャンペーンが多いことも、理由として挙げられるだろう。中国の場合はむしろ後者のほうが大きい。全国民がスマホを持っていると言われる時代で、それが読書習慣にも影響を及ぼすことは言うまでもないし、それよりもびっくりするほどの廉価が読者に迷わず電子書籍を選ばせている。アマゾンがまだ中国から撤退していなかったころ、私は紙の書籍だと30元ほどの推理小説を、アマゾンで1.99元で電子書籍版を購入した経験がある。しかもこの本だけでなく、対象書籍はほかにもいっぱいあるのだ。日本では電子書籍の定価を紙の書籍の9割くらいに設定するのがほとんどかと思う。半額セールやポイント50%還元などもよく見かけるが、十五分の一の価格で販売するのはさすがにないはずだ。あまりにも安い値段は多くの読者を「紙」から「電子」へ方向転換させたに違いない。
 その状況を一層深刻化させたのは、「微信読書」や「番茄小説」といった読み放題サブスクの登場だった。たった200元(約4000円)くらいの年会費を支払えば、そのネット書店で配信されているすべての電子書籍を読むことも、すべてのオーディオブックを聞くこともできる。それはKindle unlimitedよりもはるかにお得なサービスだ。中国の紙の書籍は決して安くもない。平均20元/冊(実はほとんどの紙の書籍の定価が20元を超えている)で週に1冊を買って読むとすれば、年間1040元の出費になる。それをすべて「微信読書」で読むなら、年間840元(約16800円)が節約できる。しかも、近年刊行された本はもとより、今後刊行される本もほぼ網羅されるため、そのサービスを利用しない手はないだろう。「微信読書」を使い始めたら、辞書や図鑑などでないかぎり、今後紙の書籍で中国語の本を買う必要はもうほぼないのだと断言したい。
 それだけではない。「微信読書」を例にしよう。「微信読書」で本を読むと電子書籍の購入に使える「コイン」がもらえる。もちろん、一定の読書時間を超えるという条件があるが、よほど忙しい人でなければ、簡単にクリアできる。週に最大18元に相当するコインをもらえるが、私は毎回満額獲得できている。年間900元も得られるそのコインで20~50冊の本を買えるわけだ。
 さらに「微信読書」では、無条件に毎週ランダムで24冊の本を無料でもらえる。それに加えて本のリンクを友人にシェアすれば18冊、開いて5分読めばさらに18冊、つまり、週に52冊もの本を無料でもらえるのだ。しかも、退会しても読める。
 そんな空前のお得なサービスを目の前にしたら、実書店に行って定価で紙の書籍を買う人がどのくらい残るだろうか。
 日本で小さな出版社を経営している身として、もし日本にもそのような読み放題サブスクがあればと考えるとぞっとする。会社はつぶれるに違いないからだ。しかし「微信読書」のようなサービスを、私は批判ばかりしたいわけでもない。貧しい家の出で、学生時代にただでさえ少ない食費から書籍購入代を捻出していた私は、もしあの時「微信読書」があればと考えたことはなくもない。読書の経済的ハードルが低くなってくれたのは読者にとって、もっと本を読みたい、もっと知識を身に付けたい貧しい人にとって当然良いことなのだ。産業というものは、メーカー側の都合ばかり考えるわけにもいかない。
 問題はバランスだ。私は小売業で5年ほど働いたことがある。安く多く売ろうというのが小売業の基本スタンスだ。あの時の社長が自身の理念を述べるために挙げた以下の例が、一番印象に残っている。

 消費者のAさんは毎日100円のコーラを1本飲んでいるが、実は2本飲みたい。しかし、コーラの購入には100円しか捻出できないため、2本目は買わない。もしうちのスーパーはそのコーラを50円に値下げしたら、Aさんは同じ100円で2本買えるし、スーパーは依然として100円の売上が確保できる。それで社会全体の幸福度が上がるわけだ。
 
 その理念は私も素晴らしいと思って肯定しているが、「粗利率は大丈夫なの?」「コーラ1本の生産・流通コストが50円を超えた場合、どうするの?」など、突っ込みどころも多いだろう。それはまさにバランスというものだ。どの品目の商品をどれくらい値下げしたら、売れ数がどれくらい増える……というふうにシミュレーションしたり、実績データを分析したうえで軌道修正したりする必要がある。中国書籍市場の詳細は把握しておらず、「微信読書」を運営している会社は現行のビジネスモデルを採用するにあたって厳密な調査やデータ収集、シミュレーションを行ったかどうかも知らない。はたして社会全体の幸福度を上げるか、それとも中国の出版業界を破滅の道へ導かせるか、その成り行きを見届けたいと思う。

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