本から始める
初めまして。2021年に東京都中野区にて立ち上げました人々舎(ひとびとしゃ)の樋口聡(ひぐち・さとし)と申します。いわゆる「ひとり出版社」の後続として、細々とやってきました。今までに、2冊を刊行(2021年8月に『愛と差別と友情とLGBTQ+ 言葉で闘うアメリカの記録と内在する私たちの正体』著・北丸雄二、2022年5月に『私の顔は誰も知らない』著・インベカヲリ★)してきました。
『愛と差別と友情とLGBTQ+ 言葉で闘うアメリカの記録と内在する私たちの正体』
北丸雄二
『私の顔は誰も知らない』
インベカヲリ★
ふだん原稿やゲラを読む時は、「こんなことはきっと書きたくないだろうな、でもだからこそ書いてほしいな」とか、「この行とこの行の間には、こういうことが書いてないと分からないな」とか、「ここの事実はよく分かるんだけど、その時○○○○さんはどう思ったのか知りたいな」とか、とにかく、疑問が消えるまで何かと注文を付けて書いてもらうので、ゲラが○校にもなります(すみません)。そのくせ、今回この版元日誌の持ち回りが来たことで、はて、何を書こうかとアタフタ・ダラダラし続けて(打診は1カ月半前)、〆切2日前になってやっと手を動かし始めた始末です。自分のことになるとテンでダメなわけで(人々舎の屋号を決めるまでも、ひどく長いグダグタがあり、数名の方々に迷惑をかけ助けていただきました)、改めて、書き手の方々を尊敬いたします。
そこでヒントを探すべく、立ち上げる直前から現在まで(2020年初頭~2022年)の、付けていたメモのような日記と手帳を開いてみたのですが、まあそれはそれは、おぞましい殴り書き、走り書きの集積に直視ができず、そっと閉じたのでした。元々、記憶が定着しずらい(すぐ忘れる)性格な上に、よくやってきたな……という現実的な事情がそこには書いてあったからです。ざっと要点だけ抜き出してみると、
● 2019年末に勤めていた会社を辞めざるを得なくなったこと(当時44歳)
● その会社で自分が立ち上げた企画が、2本連載進行中であったこと
● 1. その企画を持って再就職 2. 外部編集者として、その企画を版元へ持ち込む 3. ひとり出版社として独立する(自分で出版する)、の3パターンの可能性を考えたこと
● 1については、もう「取次搬入売上」を追いかけて身を粉にする気力は残っていないと気づいたこと(そもそも入れない)
● 2については、関わる範囲が限られるから、最後まで責任を持てないな(責任を持ちたい)と思ったこと
● 3については、とにかく独立に当てられる「金」が一銭もないのだということ。そしてもっとも大きいのは、家庭内で大反対を受けたこと(同事業者の義父からも反対された)
● 1~3のすべてが実現できなかった場合には、著者へ原稿をお返しようと思ったこと。そのことを正直に話しようと思ったこと
● 加えて、家庭内で2019年の秋くらいから家を買う(!)騒ぎが起こっており、建物費用を含む更地を東京都中野区で(果てしない)ローンを組んだこと。
● そのため、翌年の2020年4月に子どもが中野区の小学校に入学するので、それまでに当時住んでいた東京都西東京市から、中野区の学区内に引っ越しをしなければならないこと。つまり、家が建つまでの間の仮住まいを探さなければならない
● もし3. の独立をするならば、、(ちょっと書けない)、、と家庭で約束をした(しないわけにはいかなかった)こと
● しかしもう自分は、3. に向かっていくのだろうなと分かっていたこと。金の工面については、まず調べてみてから考えようと思ったこと
● そして正体不明のコロナウイルスの影がじわじわ迫ってきていること
ようするに、職はない、金はない、住むところは未定(子どもと離れることになるかもしれない)、そしてコロナが来ている、暗澹たる未来が(確実に)待っていたわけです。しかしそんな深刻な状況下で私が思っていたこととは……とにかくこの2本の原稿は、絶対に人の手には渡したくはない、人の手に渡すくらいだったら(自主規制)、自分の手でなんとかしたい、ということでした(結局お二人が預けてくれたので、本になったわけですが)。
ここ10年くらい、とくに4、5年ほど、ひとり出版社や小規模の出版社、独立系書店と呼ばれる、大手チェーンではない小規模な書店が増えてきました。それは、個性的な本の敢行、取り扱いをはじめ、雑誌での特集やwebメディアでも取り上げられつつあり、私は少しずつ情報を集めていました。『あしたから出版社』『増補版 本屋、始めました』(「だから個人として生きる活路は、誰にでもできない技術を高め、世間一般のシステムからは、外に抜け出すことにある。それには自らの本質に根差した仕事を研ぎ澄ませるしかなく、それを徹底することで、一度消費されて終わりではない、息が長い仕事を続けていけるのだと思う」P241-242←付箋を貼って何度も唱えました)『ぼくは本屋のおやじさん』『”ひとり出版社”という働き方』『本の雑誌 特集:出版社を作ろう!』『わたしの小さな古本屋』『猫はしっぽでしゃべる』『まっ直ぐに本を売る』『善き書店員』などの本や、ほか、ワークショップやトークイベントへの参加、インタビュー記事など、目に付くものは片っ端から読んでスクラップしていきました。
そこでふと気づいたのは、これらに共通していることは、みんな「本」が好きなのだという(当たり前の)ことでした。というより、もはや愛している。何を先置いても、まずは本から始めている(ような気がしました)。
私は社会に出る時期が(一般的に)遅くて(27歳までフラフラしていました)、そこからの社会人経験になるのですが、いくつかの会社で働かせてもらってきました。そこで知ったこと/会社の基本原則は、利益を出して、利益を出して、利益を出しまくることです(あってますよね?)。本に関わる会社も当然で、利益を出さないことには、オハナシになりません。ただ……「みんな本当に本が好きなのかな」と思う場面に出くわすことは、よくありました。「それ、本に関係ある?」という会議、判断、隠蔽、忖度、癒着、保身……まあ、認知が歪んだ、私の穿った見方がそうさせただけなのですが、「それ、本から始まってるの? そこに愛はあるの?」と、いつも思っていたわけです。しまいには、一体、何のために仕事をしているのか、誰に向かって仕事をしているのか、仕事って何なのか、と自問する日々が続き、酒量が増え、エナジードリンクをガブ飲みし、不眠、眩暈、瞼の痙攣、腹痛、妄想、などが常態化し、脳が耐えられなかったのでしょう、会議中に寝てしまう(シャットダウン)事態に陥りました。
(時勢が行ったり来たりでややこしいですが)そんななか、一人の作家さんの本を、前の会社で担当することになるのですが、その作家さんが、本好きから絶大な信用がある方なのでした。1カ月かけて書いたお手紙を郵送し、お会いし(あまりの緊張で初対面の時間を間違えて、なんと時間をズラしてもらった)、という大変な失礼から関係性が始まり、連載を開始し、一度も原稿を落とさず脱稿し、会議にまみれ、本になり、販促を重ねました。この時、私は初めて「本を作ったのだ」と実感を持てたのです。原稿に向き合い、この作家さんが書きたいこと、これだけは言いたいこと、を、どう表現したら形になるのか、どうしたら読者に伝わるのか、を、私なりに完遂することができたのです。この本に関わってくれた方たち(デザイナー、校正者、営業、メディア、書店、ほか)は、(当然)みんな本が好きなのでした。
3. の独立が頭をかすめたとき、この体験を参考に、何よりも先に「本から始める」ことで、残りの人生を生きることはできないだろうか、と、ためしに考えてみることにしました。もしそれが可能だったら……どんな毎日なんだろう、どんな景色なんだろう、どんな気持ちになるだろう。年齢的にも体力的にも(社会人的には遅すぎる)、これが最後のジャンプになるだろうことは、さすがに予想がつきました。でも考えてみたところで、もう私には、これ以外の道が残されていないようにも思えました。いろんなことをやってきたけど、何一つ大成することがなかった、自暴自棄かつ退廃的なロスジェネ人生……。でも、本には何度も助けられた。もう「こっち側」には戻ってこれないだろうと、動けなくなったあの時も、本に助けられた……。などとツラツラ考えていくうちに、お二人が原稿を預けてくれたのだ、とにかく、金のことをなんとかしよう、「本が好きなんです」と馬鹿みたいに言おう、そうやってやってみて、ダメだったらすっぱり諦めよう、と何とか自分を鼓舞することにしたのです。
(だんだん何を書いているのか分からなくなってきたので省略)
結果的に、2020年1月10日に西東京市創業支援センターに相談に行ってから、7カ月後(失業手当やら創業手当やらヤフオクやらで凌いだ)の8月7日(とんでもなく暑かった)に貸出決定の電話があり、金を借りることができました。西東京市の中小企業診断士との面談が3回、中野区の中小企業診断士とは10回、銀行が4回(2回は自宅に訪問)、保証協会が1回。面談時には机に本を積み上げて、大長編のプレゼン資料(中小企業診断士と作った事業計画書と、主観多めの独自資料)をめくりながら、でかい声でまくし立てました(本当は音楽をかけながら、まくしたてたかった)。気迫に押されたのか、貸さないと帰らないと思ったのか、とにかく借りられました。
でも、金を借りたら終わりではありません。出版社を立ち上げるには、やることがたくさんあるのです(信じられないくらいに)。流通はどうするのか、ISBNはどうやって取るのか、在庫はどこに置くのか、書店との関係はどうすればいいのか、サーバーはどうする、ホームページは、メールアドレスは、固定電話は、FAXは……。さらに私は脱サラリーマンが初めてでしたので、開業届の出し方、税務管理はどうする、パソコンを買わなければ、FAX付きの複合プリンターが必要、Adobeのソフトも必要、事業用のクレジットカードも……。
金を借りるだけでここまで書いてきてしまったので、このコラムタイトルは「金を借りる」でもよかったですね。でも、「本から始める」ことは、今でもって大切にしていることの一つなので、これでいいのです。最後に、2020年1月の日記(抜粋)に感慨を交えて終わります(ホームページができたら、本コラムに書ききれなかったことなどを書こうかなと思います。たぶん)。
1月6日(月)
西東京市創業支援相談窓口へ初めて電話する。自己資金ゼロ(自己資金ゼロに傍点)と伝える。当然門前払いに。なんとか食い下がりアポを取る。
10日(金)
西東京市創業支援課にて、中小企業診断士の先生に初めてお会いする。よく会ってくれたなと。金の話はせずに、出版の話、夢の話、出そうとしている本の話などをしたような。先生は(何も知らないので)いけそうだという感触だった。
13日(月)
夕方。先輩出版社krakenの鈴木さんが主催する出版社講座へ参加。2000円くらいだったか。流通、安い印刷所など、惜しげもなく教えてもらう。
17日(金)
トランスビュー工藤さんに相談。流通のこと。当初はトランスビューにお願いしようと思っていた。
20日(月)
北丸雄二さんに四ツ谷で会う。この時に会社を辞めること、連載原稿を預からせてほしい(他版元へ持ち込む。独立する。返す)ことを伝えたか。後に北丸さんに確認すると何も覚えていなかった。
21日(火)
デザイナーのセプテンバーカウボーイ・吉岡さんと会う。独立することの可能性を伝えると応援してくれた。涙。代々木のカレー屋・ライオンシェアに連れていってくれて、ご馳走してくれた。ゆで卵をトッピングするとおいしいよ、と勧めてくれた。この時のことは、ずっと覚えている。独立の可能性をほとんどの人に話をしていなかったなかで、初期の数少ない応援者。人々舎のロゴデザインは吉岡さん。『私の顔は誰も知らない』のおかしなデザインも吉岡さん(たぶんというか絶対に読んでないと思うけれど、請求書をください。メールも何回もしましたよ。金があるうちに払わないとなくなりますよ)。
23日(木)
夏葉社・島田さんの事務所へ。相談の時間をもらう。最初の一言は「本当にやるんですか?」。後日ノートを見返すと「自分の中の大切なことがわかっている」「はっきりしている。トンガっている」「インディーズである」「数字に強い。営業、人に強い」「群れない、つるまない」「間違えないように気をつけている」とメモがあった。
24日(金)
朝。西東京市の中小企業診断士の先生と2回目の面談。出版業界の支払いサイトを説明すると絶句していた(敢行翌月支払い、半年後売れた分だけ入金)。コイツは本当にやる気なのか。昼過ぎに新宿の喫茶店ピースでインベカヲリ★さんと会う。もろもろ説明。頷いてもらったような。夜。中野区の創業支援センターの中小企業診断士の先生と初面談。ここから半年の付き合いとなる。