荒波に身をまかせる
これまで遅疑逡巡を繰り返してきた人生なので、出版の大海原に「灯光舎の船出」を決めたことは、僕のなかで思いがけない選択でした。版元日誌の依頼をいただいて、何を書こうか考えあぐねた結果、灯光舎をはじめるきっかけでもさらっとまとめてみるかと考えて、思い浮んだのが「それにしても、思い切ったことしたな」ということ。当時を思い出しても自分でした選択を他人事のように感じてしまうわけです。自覚がないというか、情けないというか、不思議です。
でも、まあ、そんなもんじゃないでしょうか。掘り下げても意味はないですが、「こうすれば良かった」という後悔がひとつ生れなかったことはちょっと救いのような気がします。
「灯光舎の船出」の萌芽は、以前に勤めていた出版社の当時の社長と編集長との何気ない会話の積み重ねだった気がします。「昔はね、こういうビル(会社の)と違ってね、僕の自宅の1階でやってたんですよ」――そんなたわいもない会話の中に時折まじる創立当初のことや「歴史」が僕にとってはとくに刺激的だったのです。次第に、仕事(出版社)を「0」から始めるとはどんな気持ちだろう、どんな体験だろうと思うようになり、時々そのことがふっと頭に浮かんでは消えていくのでした。
学会の出張販売で一緒になった編集長からは、その会社のベストセラーとなっていた書籍や新刊の誕生したきっかけを聞き、まさに企画の種ができあがる瞬間に立ち会ったこと(勝手に横にいただけ)はいまも忘れられません。そして、販売のブースに来る見ず知らずの研究者にどんどん話しかけていく姿がもっとも印象的でした。
編集部の古参が退職されるとき、その方が最後の挨拶のなかで「出版の世界にいて何が一番良かったかって、それは、いろんな人に会えることです」と言っておられたのを覚えています。そういった大先輩たちの言葉から、本が生まれる背景は、シンプルに人との出会いが始まりだったりするんやなと自分なりに感じとっていました。
僕の好きな本のひとつに、小山書店の創業者・小山久二郎氏が書いた『ひとつの時代-小山書店私史』(六興出版 1982年)があります。小山書店は昭和8年に創業し、永井荷風や佐藤春夫、志賀直哉など多くの文豪たちと関わり合いながら出版業界にその名を残しました。この本を読んでいてもさまざまな本の誕生の裏側で、それだけ多くの出会いと別れがあるのだということを切に感じます。
これは何も出版の業界に限ったことではないでしょう。灯光舎から昨年刊行した『送別の餃子 ― 中国・都市と農村肖像画』には、中国をフィールドに長年中国の音楽や芸能の研究を続けてきた井口淳子さんが描いた人々の出会いと別れがあります。それらの人々がいなければ、現地での研究は続けられなかったと述べておられます。
さて、この時点では、まだひとり立ちを決意したわけではなかったのですが、いろいろなことを経験するなかで「もし裸一貫で出版社を始めるとしたら……」と勝手な想像をしはじめます。何をしたいか、何を準備しないといけないのか。とはいえ、僕の浅い経験値では想像できる範囲はごくわずか。気軽に話せる同業者もほとんどいない。そこで、小舟をつくってこの出版という海にひとり飛び出した先達たちが、果たして幾人いらっしゃるのか……と独立された出版人や本屋さんが執筆した書籍、最近立ち上げられた出版社のウェブサイトなどを耽読しました。
そこに記された各々の方の経験を、今の自分の経済的な状況や人脈、環境などに置き換えて考えるようになりました。思いついたことを1冊のノートに箇条書きでメモしていきます――企画を相談できる人、装幀どうすんの、印刷や製本をどこに頼むか、流通や、流通や! という具合に、とにかく書き記す。
今思えば、とにかく飽きない想像でした。そして、参考にした書籍やウェブサイトの設立趣旨から、出版に対する姿勢や本づくりへの向き合い方について影響を受けたことは言うまでもありません。
先ほど紹介した『ひとつの時代-小山書店私史』(前掲書)の中に、小山氏が岩波書店を退職して独立しようかと悩むさなかに、岩波書店の同僚だった小林勇が新出版社を立ち上げたときの回想があり「小林勇が岩波からとび出して鉄塔書院をはじめた。私は目を覚まされたような気持(ち)がして彼の直進する姿がうらやましかった」という一節に似た気持ちが、僕にもありました。
不安も含めた想像をひとしきり楽しんだ結果、後は「それらを行動に起こすのか」という自問自答の時期に入りました。「やんのか、やらへんのか」。この業界に足を踏み入れてちょうど10年が経っていました。
最終的な決め手になったのは「後悔はしたくないな」という気持ちです。自分の性格を顧みて「ここで独立せえへんかったら、10年後ぐらいに『あんとき独立しとくべきやったなあ』と文句タラタラ言うてるんやろな」と思うと、自分自身にちょっとした恐怖を感じました。こんな具合で、何かに追い詰められる感もありながら、灯光舎という小舟を拵えて、えいやと船出に至ったわけであります。
灯光舎の船出の挨拶のなかで、「人びとのアイディアや思いを大切にする・共感したことを丁寧に表現し、本というカタチにしてゆく・読者へ届けることに尽力する、これらを誠実かつ忠実に遂行していきたいと思います」と記しています。本づくりの基本といっていいと思うのですが、それを忠実に行うことを目標にしたわけです。あとは行き当たりばったり、あと数ヶ月で灯光舎は丸3年になります。
もうひとつ心に留めておきたいことは、本は多くの方々の手を経てできあがるということです。著者や出版社、校正者、装幀家、印刷屋、製本屋など関わる人の技術と想いをもってして本は完成します。印刷・製本の現場に行けば、機械がガンガン回っていることがほとんどです。しかし、細かな調整や仕上がりの判断など、やっぱり人の「手」が入ってくるわけです。本屋に「本が並ぶこと」も同様です。「人」を感じ「手」が見える仕事に関わっていきたい。灯光舎は皆さまの「手」をお借りして、本を作っていけているのです。
これは後々になってからの話ですが、時折顔を出す古書店の店主と話をしていたときに、出版社を京都で始めたことを打ち明けると、「ほう、そうか。いやあ、最近は新しい本屋や版元がけっこうできて盛り上ってるよなあ。めっちゃいい傾向やなと思うねんな。昔は小出版社っていうのがけっこうあって、ぎょうさん良書だしてたんやで」と教えてもらいました。その言葉がトリガーとなって古本熱にさらなる拍車がかかることになったのです。
『SUMUS 12――特集 小出版社の冒険』(2004年)という雑誌のなかで林哲夫さんの「そもそも小出版社の歴史というものは、ごくまれにオアシスのようなものが見つかるとしても、荒涼たる風景の連続である。そのまるで屍で埋まった原野へ乗り出してゆくに等しい旅、それを支える自信過剰の楽観と意気込み、それらが何にも代え難い魅力を、触れれば今にもパラパラと崩れそうな書物群に与えているような気がするのである」という文章に、僕は心奮える思いがします。売れる本をつくりたい(つくらねば……)という想いもありますが、やはり「心にのこる」「手もとにのこる」「世の中にのこる」ような「のこる本」をつくることができれば幸いと思い、もうひとりの漕ぎ手である妻ともども日々悩み、学びつつ、無理はせずに励んでいます。