「なんとかなるだろう」からの脱却
前回書かせていただいた版元日誌では、会社の売上状況を赤裸々にしながら、会社と自分についての抱負を語った。それが2019年5月末、いまからおよそ2年半前のことである。
その2か月後、大きな転機が訪れた。今回はその出来事から、現在までの旅と思索社の現状と思いを吐露したいと思う。
梅雨が明けたころ、わたしは湯島にある業務受託先の版元でデスクワークの合間の休憩に、ちょっとした現実逃避のつもりで事務所物件探しをネットで楽しんでいた。
ふと、表示されたのはまさにいまここにいるビルの名前だった。「2階空室」の文字に慌てて外へ飛び出すと、レトロなビルの頭上の窓からがらんとした薄暗い部屋が顔をのぞかせていた。
それから数日間、それがずっと心に引っかかっていて、大家さんに声をかけて興味本位で部屋を見せてもらうことになった。
がらんとした部屋に入る。少し狭い気もするが、長方形の部屋は使い勝手がよさそうだ。10人くらいなら人を入れたイベントもできそうである。
四方の壁は塗り直されたばかりの白いコンクリ壁。ピクチャーレールを取り付ければ立派なギャラリーだ。突き当りにある大きな窓はいい風が入ってくる。ここには自分の机を置きたい。間仕切りすれば、バックヤードもうまく作れそうだ――冷やかしのつもりだったはずが、気づけばすっかり想像が膨らんでいた。そんなとき、突然の大家さんの言葉が響く。
「借りますか?」
いやいや! わたしは自分自身にあきらめ諭すつもりで大家に尋ねた。
「事務所貸しですとお店は難しいですね……」
「ああ、飲食店以外なら構いませんよ」
いいのか悪いのか、待っていた答えをすっかり裏切られてしまった。
こうして広さ2階8.2坪、店舗可で家賃は共益費と消費税を含んで64,000円という破格の条件で事務所を取得することとなった。あまりに突然ではあったが、ずっと前から思い描いていた、人が集う場所ができる――そう思うと不安よりも期待の方が大きかった。これまで借りていたシェオフィスの3倍の金額だけれど、なんとかやりくりしようと決めた。
とりあえず机を入れて事務所としての稼働が始まると、具体的な店づくりに思いめぐらせていった。最初思い描いたコンクリ壁を生かしたギャラリーは、作家さんのための気軽な展示の機会と場所を提供しようという思いにつながっていく。
ギャラリーを設けるなら、作家さんも興味を持ってもらえるような絵本を置き、自社の本と、自分自身が関心のあるマイノリティ社会を取り上げた本を売ろう。さまざまなテーマでトークイベントをやりながら、一見つながりのないようなジャンルでそれぞれの興味がある人が思いがけなく出会い、発見することで、新しいことが始まるかもしれない。それが出版にも直結することだろう。自ずと方向性は定まっていった。そして決まったのが「出発点」という店名だった。
時同じくして信用度アップのためと申し込んだ政策金融公庫の融資も実行された。仕入先探しとの口座開設、店づくりの準備、会社の本店所在地や事業内容などの登記変更なども並行して行うと、一人ではかなり時間がかかる。ずいぶん先にはなるけれども、開点(あえて「点」と書く)日を2020年5月のゴールデンウィークに定めた。
しかしその後、ほどなくして世界の人びとが未知のコロナウイルスという脅威に立ち向かうことになると誰が想像しただろうか。
3月以降、この日本もコロナ禍から逃れることができないことがはっきりして、出発点も開点を踏みとどまるしかなかった。それよりも、店の経営自体をするべきなのかどうか逡巡する日々が続いた。
でも、最終的には店を開ける決断をした。新しいことにチャレンジするリスク以上に、コロナの影響を受け始めた既存の売上に対して大きな不安を感じるようになったのが大きな理由だった。
計画していた本の出版は、取材や著者訪問もままならなくなり、なにより著者自身がコロナと向き合わないといけなくなって、先送りになってしまった。業務を受託している版元も、頼りの著者がセミナーや勉強会を開催できなくなり、その余波がわたしにも襲いかかった。出版がらみではないが、大きな仕事を継続的にくれていた総合病院は、意外にもコロナ患者受け入れと同時に一般患者が風評で激減し、パンフレット類の制作が宙に消えた。
一方で、そういった経済状況を踏まえた補助金や緩和された融資条件は旅と思索社にとって救いの手となった。加えて、親身になってアイデアを出してくれる先達や仲間、家族の協力もわたしの背中を押してくれた。
不安な日々が続くなかで、10月にプレオープン、11月にグランドオープンを果たした。
出発点
オープンまではお客さまが来なかったらどうしようかとそればかり心配であったが、イベントが続いて来客数も売り上げも予想以上となり、少しだけ胸をなでおろした。
しかし、そんなに商売は甘くなかった。12月に入りイベントがなくなると売り上げが一気に減少。年が明けて1月は感染者数の増加と続く緊急事態宣言に呼応して売り上げが初月の10分の1ほどになってしまう。
今日も売上が0円だった――少し早まったガラガラの終電で自宅に帰り、酒をあおって眠りにつく。夜中にふと、不安で目が覚める。<いちばん厳しい時期を乗り越えられればこの先もなんとかなるさ>自分に言い聞かせるように独り言と、ため息が増えた。
精神的にも追いつめられる日が続くようになったが、貴重な気づきを得たのもこのころだ。
ある日、お母さんと子どもたちがふとお店を訪ねてくれた。はじめて見かけるお客さまだ。すぐ近所のマンションに住んでいるとのこと。小学生の娘にせがまれてきました、とお母さんが言った。
当の小学生はいま、出発点の貴重なお得意さまになってくれた。ときどき、友人たちと遊びに来て、ポストカードを買い、店に置いてあるカラーペンできゃっきゃっと言いながら楽しそうに友達へのバースデーメッセージを書いて、塾に出かけていく。
別の日には、赤ちゃんを抱っこして、小さな子の手を引いたお母さんが、息を切らせながらどんな店かも分からないのに急な22段の階段を上ってきてくれた。のんびりと子どもたちと絵本を読みながら、お気に入りの1冊を買って楽しそうに帰っていった。
いまさらながらそこで気づいたのだった。これまで闊歩していた学生と勤め人は、緊急事態宣言によるリモートの普及などで街から消えた。残されたのはそこに住む人たちなのである。
店のある湯島はここ5、6年で世帯向けのマンションが一気に増えた。近隣に幼稚園や認可保育園も多く、小学校もクラスが増えたと常連の子が言っていた。
やはり商売は地域に根ざさなければならないのだと理解して、絵本の選書を増やしながらより地元へアプローチしようと心がけるようになった。
今秋、「ねこまつり at 湯島」という、地域活性化のスタンプラリーイベントに初参加した。予想外だったのは、そこでつながることができた近隣の店主さんたちが展示のDMやショップカードを置いてくれたり、常連のお客さまに紹介してくれたりするようになったことだった。
店に来てくれるようになった店主さんと街角で出くわす。店や街でのちょっとした出来事を立ち話しながら、今までただ働きに来ているだけの通りすがりの存在だった自分が、街の人びととつながり、その一員になれたような気がした。
「ねこまつり at 湯島」はわたしの予想を超えて、最大50名のお客さまが訪れ、過去最大の売上につながった。スタンプラリーの性質上やむを得ず訪ねてきたお客さまも、2階にこんな店があったのかと初めて知り、その後リピートしてくださるようになった。
それでも、である。まだまだ客足は一向に安定しない。なにが潜むか分からない、薄暗い築50年を超えたレトロビルの2階という立地は、入店までのハードルがとても高い。管理上の理由から建物に看板も付けられず、柱に「ひっつき虫」で取り付けたラミネート看板と、なびかないのぼり旗、膝上サイズの小さな三角看板だけでは気づいてもらえないのだ。
先日もすぐ近所に住む方が「この店は最近できたのかしら?」と言って訪ねてくださった。おかげさまでちょうど1年経ちましたと伝えたら、予想以上に驚かれた。毎日通っていても気づかなかったそうだ。
それくらい、人というものは意識することがなければ、目の前に見えていてもそこに何もなかったかのように通り過ぎてしまうものなのだ――世の中の出来事も、本屋に置かれた自社の本も(そもそもないかもしれない……)、まったくもって同じだけれど。
その自社の本だが、今年7月に書籍『点から線へ トランスジェンダーの〝いま〟を越えて 映画「片袖の魚」より』を刊行した。店づくりに余念がないなか、出版への情熱を再確認することとなった。
著者でもある映画監督の東海林毅さんとは以前から一緒に仕事ができればと漠然とした思いをお互い持っていたのだが、図らずもコロナ禍でそれが実現した。当初制作予定だった映画パンフレットから、本としてその役割をより広げるお手伝いをさせていただいた。
正直わたしはLGBTQに理解が明るいわけではないけれども、社会的マイノリティをテーマにした本づくりを通して、その必要性と意義をあらためて再確認することとなった。
わたしはこれまでずっと何とかなると思って人生を送ってきたのだけれど、コロナの世の中を生きるうちに今回はひょっとしたら何ともならないかもしれない……ふとそんな思いになることが増えた。
もともと落ちこぼれの人生だからたかが知れているが、それでも仲間ができ、家族ができ、読者ができ、常連客ができて、もう簡単にはバンザイできない。
ある著者に、「わたしの本を出版したいのなら、わたしも旅と思索社も絶対に損をしない本を作りましょうよ」といわれて、はっとした。どこか迷いがある自分を見透かされてしまったようで。正直ショックだった。
でも、その言葉が逆にわたしを開き直らせてくれた気がした。ここまで来たら徹底的に好きなようにやらなければ意味がないのだと。
「なんとかなるだろう」ではなく「なんとかしよう」。
今はそんな思いで日々を送っている。