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いつまでやるの? 子どもをつぶす教育
家族とともに過ごした子ども時代の歴史
原書: Kindheit 6.7
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2024年12月20日
- 書店発売日
- 2024年12月20日
- 登録日
- 2024年11月27日
- 最終更新日
- 2025年1月6日
紹介
子ども時代とは、そもそも何か?
幼い子どもにとって、本当に必要なものは何か?
自由で自立した家族を取りもどすことは、できるのか?
子どもの魂の成長にとって、公共教育は必要か?
本書は、「家族とともに過ごした子ども時代」の歴史であると同時に、現代文明批判でもある。子どもたちが再び人間らしく「人間という種にふさわしい」方法で成長すること、家族の中で社会化することを再評価すること、教育の完全な自由を求める切なる願いを綴ったマニフェストである。初版以来、英語版とともに、ベストセラーとなり、子ども研究の基本的文献としても高く評価されている。
目次
プロローグ
日本語版へのまえがき
第九版へのまえがき
第一部
二一世紀初頭の子どもと家庭─問われることのなかった問い
第一章 後編=無言の悲鳴 私たちは、いつまで見て見ぬふりをするのか?
第二章 前編=家族・学校政策 あるいは子どもへの裏切り
第三章 核心=子どもと家族の無価値化と疎外
第二部 子どもと家庭の歴史を辿る
第四章 ナイチンゲール、線虫、あるいは家族の中で進化するヒト
第五章 「教えること」から指導へ
第六章 「善い人」、そのロールモデルと子どもの「現実の人生」における社会化
第七章 「子ども時代」の発見について
第八章 真の子ども時代の喪失―近代における学校教育小史
第九章 家族が壊れるとき―あるいは失われた幸福を求めて
第十章 人類という種にふさわしい子ども時代と家族の消滅
第十一章 教育の「全体主義化」に反対する
第十二章 子育てと学校制度の急拡大
第十三章 (無言の大きな)叫びとアルベルト・シュヴァイツァーの言葉
第十四章 中心を失うことは、人間性を失うこと
第十五章 不妊、人口過剰、そして未来の赤ちゃん
第三部 幸せな子ども時代、ロケット、愛、ヴィジョン
第十六章 自由な家庭と幸せの回復
インテルメッツォ 少年時代のレオナルドとダヴィンチ・コード
第十七章 家族、ブレイクスルー・イノベーション、そして「車輪の上のコンピューター」
エピローグ
エンドロール
脚注
参考文献
特別寄稿 新しい学び様式? アーサー・ビナード
前書きなど
プロローグ
こんにちの子どもたちは、子どもらしく、年齢に応じて成長することができなくなった。これは以前から、心理学者、教育学者、一部の社会学者、神経生物学者のほぼ一致した見解である。「そろそろ、子どもたちが、『子どもらしく』育っていくような環境を作るべきだ」と訴える識者も少なからずいる。現代の子どもたちは、まるでバタリーケージで工業製品のように飼育されるニワトリと同じように育てられている。いつの間にこのようなことになってしまったのだろう? 「幸せな環境で育ったニワトリ」の卵を欲しがる人は年々ふえているというのに、なぜ人間の子どもは、子どもらしくのびのびと成長することができないのか?
ドイツとオーストリアでは(そしてほかの国々でも)、一〇代の子どもたちの五〇%に、年齢に不相応な異常や障害が見られる。身体的問題(肥満や拒食症)、社会的能力(社会性の欠如、不登校、人間関係の欠如)、そして運動や認知の能力不足などだ。さらに、(注意欠陥多動性障害)、幼少期におけるアルコールと薬物の常用、そして最後に、(時に深刻な)暴力と犯罪が、それも一二~一三歳の子どもたちによって引き起こされる。これらはすべて、一四歳以下の子どもたちに多く見られ、確認されていることだ。間違いなく、きわめて憂慮すべきことである。
しかし、心理学者の・ヴィンターホフがその著書『子どもの心』で主張しているように、学校の教師を心理学者として養成すればすべての問題を解決したり緩和したりできると考えるのは、大きな間違いだと、私は思う。多くの見放された子どもたちの精神と魂が、教師の助けや介入によって「成熟」できるとは、とても思えない。それは教師や学校の仕事ではない。それは、豊かな西洋社会で未熟なまま収穫され、船やトラックで何千キロも離れたところへ輸送され、その間に(人工的に)熟成させられた多くの果物や野菜のことを想起させる。美味しさにおいては、なんといっても、自然に熟成したものに勝るものはないのだ。
デンマークの教育学者、ホームセラピスト、国際紛争アドバイザーであるイェスパー・ユールは、次のように述べている。「一五年以上前にドイツで仕事をはじめたとき、教育の圧力という言葉をよく耳にしたが、これにはどうしても馴染めなかった。しかし、多くの親や子どもや若者たちと接するうちに、ますますこの圧力を我が身に感じるようになった。デンマークをはじめ、北欧の国々では、同様の現象を経験したことがない。いまでは私は、ドイツ語圏全体(ドイツ、オーストリア、スイス)の教育に大きな圧力がかかっていることは認めざるを得ない。このような状態が、長期的にみれば耐え難いものであることは、誰の目にも明らかだ。圧力には反圧力が生まれ、物理的にも精神的にも抵抗感が強まり、やがてはかり知れないものになるだろう。」
学校は、遅くとも二〇〇〇年以降(ますます多くの国々で)、子どもの成長と発達についての「関心の的」になっている。しかしそれより大切なことは、もっと子どもの視点や要求を知ることであり、子どもが実際に何を感じているかに目を向けることではないだろうか。学校は、人生のすべてではないことを知ってほしい!
ドイツ語圏でも、心理学、神経生物学、教育学の著名な学者達は次のような見解では一致している。すなわち、精神と魂が年齢相応に最適な形で成熟し、すべての子どもに生まれつきそなわっている人間の脳のすばらしい潜在能力が発達し、社会的にも、人間関係においても、生涯にわたって学習する意欲が健全に育つためには、子どもはこの世に生を受けたときから、母親の愛、父親の愛、つまり両親や祖父母の深い愛情を必要としている。単純に言えば家庭の愛。なぜ、(ドイツ語圏にかぎらず)子どもの成長についての社会や学界での言説は、ほとんど学校(保育園・託児所)だけに集中し、家庭には目を向けないのだろうか。
経済とイデオロギーのために、ヨーロッパの中心部、アメリカ、そして多くの「西洋」諸国では、子どもにたいする直感的なアプローチが犠牲にされただけでなく、核家族にたいする直感的で穏やかな支援と励ましと賞賛も葬り去られた。持続可能で発展的かつバランスのとれた社会の核となるはずもものが犠牲となった。時代が二一世紀になっても、子どもにとってもっとも必要なのは、まず第一に両親であることに変わりはない。とくに政治上の議論において、子どもの成長にとっての家庭は、長い間、顧みられることなく軽んじられてきた。政治家たち、いや多くの指導的地位にある大人たちは、経済とイデオロギーの祭壇の前に立って、家族(家庭)は「廃れたモデル」だと言ったものだ! 同じ人間たちが、一方では、出生率の低迷や減少をくりかえし嘆いてみせるのだ。
国連人権条約第一六条は次のように謳っている。「家族は、社会の自然な基礎単位であって、社会国家による保護を受ける権利を有する」。
私たち西洋の世界では、果たして自立した家族というものがまだあるのだろうか? ドイツやオーストリア(そして「西洋」だけでなくますます多くの国々)の家族は、自由な家族であり続けることができるのだろうか? そもそも家族というものはどのようにとらえられているのだろうか? 政治的、社会的、科学的言説において、どのように認識されているのだろうか? こんにちの子ども時代とは何であり、またどういったものなのか?
本書の読者の皆さんを、「家族」のタイムトリップに招待しようと思う。そのさい、家族と幼年期がかつてどのようなものであったかについて知るだけでなく、私たちの社会が進むべき未来についても考えを巡らしていこうと思う。この旅は子どもと家族の現在の在り方から出発して、「狩猟採集民族」という生活様式へ遡り、さまざまな大陸を巡ることになるだろう。何世紀も前の文献からの引用にとどまらず、人類学、考古学、(神経)生物学などの研究成果にも触れることになるだろう。
本書は、幼年期の歴史でもあるが、時代を追って書かれてはいない。多くの映画がそうであるように、この時間の旅にはしばしば「カットやリープ」があり、過去から現在へ、あるいはその逆へと移動することに気づくはずだ。しかし、読者が読み、体験するのは、なかには信じない人もいるかもしれないが、人間によって書かれたノンフィクションであり、人間が形造った現実なのだ。だから、巻末に載せる詳細な出典リストは、疑り深い読者のためだけではない。
本書のもう一つの目論見は、残念なことに長い間多くの場所で行きづまり、しばしば敵対的に行われてきた学校改革の議論に、現在はほとんど問われることのない問いを投げかけることである。すなわち、幼年期に関して学校と教育はどのような姿勢で取り組んでいるのか、という問いだ。学校には人間的な基盤がないのではないかと問うのは、イェスパー・ユールだけではない。アメリカの学校教育評論家で元教師のジョン・テイラー・ガットはさらに踏み込んで、「制度としての集団的学校教育は、子どもと家庭を破壊する!」と言っている。
本書は、ドイツ語圏にかぎらず、こと細かく分離されがちな二つのものを繋げるために、時代の痕跡を探索する旅でもある。二つのものとは、学校(教育)と家庭、および幼年期と家庭のことである。社会全体にとって深刻かつ持続的な悪影響をもたらすこの分離は、いつの時代でも存在したわけではない。本書は、こんにちにおける幼年期というテーマについて社会での広い議論を喚起するためのものであるだけでなく、両親について論じたものでもある。私の妻ガブリエル・ペンツェナウアーは、おもに妊娠、出産、自由学習の分野での私の共著者である。ほとんどすべての分野において、彼女は刺激的な会話と議論を通じて、「複合的な事柄」の核心に迫るために、すばらしいパートナーとなってくれた。個人の直感や経験が重視されなくなり、なにごとも理論的、科学的に根拠づけることが求められる時代に、長年かけてかなりの量の文献を渉猟し共有することができた。
文化や科学の分野におけるこれまでの偉大な発展と進歩と成果─それは膨大なものだが─は、しばしば子どもや若者によるものであり、おもに家族の支えによって、自らの直感と才能を発揮する機会を得た彼らに負うところが大きい。託児所や、幼稚園や、学校の圧力を受けずに育った者たちだ。過去数世紀のヨーロッパ(にかぎらず)で、文化、科学、社会に顕著な貢献をした人物たちの約八〇%は、まず第一に、長期間家族のなかで育ち、社会性を身につけていったのである。
すべての先進諸国において私たちは、子どもたちの能力を見失い、現在約五〇%の子どもが病気であり、多くの若者が文字通り精神に異常をきたすような世の中を作り出してきた。
世界的に、そしておもに「先進国」において私たちは、子どもの本当の自然な要求と本質を完全に見失ってしまっている。それは、文化、経済、社会、そして個人に深刻な結果をもたらした。
読者諸氏がこれから知ることは、すべて三次元で起こっていることだ。もっともそのために3D―メガネを用意する必要はない。ストーリーや発言を完全に理解するためには、「イデオロギーのメガネを外すことが極めて有効だ。
なにより、これから家庭を築こうとする読者、すでに家庭を営んでいる読者には、直感を信じ、愛情に満ちた信頼関係を築き、親としての能力を信じて子育てできることを応援したいと思う。たとえ、こんにち多くの子どもたちが一人ぼっちにされていても。エキサイティングなタイムトリップをお楽しみいただきたい。
版元から一言
本書は、「子ども時代」の歴史であると同時に、現代文明批判でもあります。子どもたちが再び人間らしく「人間という種にふさわしい」方法で成長すること、家族の中で社会化することを再評価すること、教育の完全な自由を求める切なる願いを綴ったマニフェストです。初版以来、英語版とともに、ベストセラーとなり、子ども研究の基本的文献としても高く評価されています。
特別寄稿を書いてくださった詩人アーサー・ビナードは「寺子屋復活」を自らの実践を通じて提唱されています。
「学校は、勘違いのベルトコンベヤーとして最初から立派に組み立てられて公認され、見栄えがして崇められている、人生の高度な袋小路。今の僕らは大きく惑わされ、命の基本までわからなくなっている。今こそ寺子屋を復活させよう!」 (アーサー・ビナード特別寄稿より)
カバー絵を描いてくださった画家のねっこかなこさんは、次のように言っておられます。
「この本が出版されたら、島根の地元の小学校の先生方へ、早速に本をプレゼントしに行きたいです。
8歳と10歳のこどもふたりも、「小学校つまらん」と行くのをやめ、松江市で今年4月からはじまったフリースクール(例によって寺子屋のような)へ、毎日楽しんで通わせてもらっています。最初は4人だったこどもたちが、2学期からは8人に増え、今後もきっと必要とするこどもたちが続々と通ってくることでしょう。(お隣の鳥取県でもこの頃に2校が開校。)親だけでなく子どもたち自身が、デジタル化を推し進め、知識だけを詰め込まれる場所に違和感を感じており、生きる智恵を体感で捉えさせてくれる学びの場に居心地の良さを覚えるのは、本能的なことだと感じます。
そんな「まとも」な学びの場が、どの子にも注がれるものであってほしいと願ってやみません。
アーサーさんの解説の文中にもあったように、『寺子屋復活』の動きが求められていますし、既に実行にうつしてくださっている方々がいらっしゃいます。
そんな動きを後押しするような、この本にかかわらせていただけること、わたしも本当に嬉しく感じています。」
特に、幼い子どもを持つ両親、学校の先生たち、地方、中央の文部行政に携わる人たち、代議士たちに読んでもらいたい本です。
追記
ISBN:978-4-9909696
サイト:https://nichiyosha.tokyo
上記内容は本書刊行時のものです。