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被災物 モノ語りは増殖する
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2024年2月28日
- 書店発売日
- 2024年2月26日
- 登録日
- 2024年1月4日
- 最終更新日
- 2025年2月28日
書評掲載情報
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2024-06-30 |
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評者: 松村由利子 |
2024-06-08 | 美術手帖 7月号 |
2024-05-22 |
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2024-05-10 |
週刊金曜日
5月10日号 評者: 五所純子 |
2024-05-05 |
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2024-05-04 |
長崎新聞
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2024-04-06 |
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2024-04-06 |
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2024-04-05 |
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2024-03-25 |
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2024-03-10 | 北海道新聞 朝刊 日曜版 |
2024-03-10 | 読売新聞 朝刊 |
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重版情報
2刷 | 出来予定日: 2024-07-30 |
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全国各地で、静かに確実に動いています。 |
紹介
気仙沼のリアス・アーク美術館には、東日本大震災の「被災物」が展示されている。
2019年、この展示に出会った姜信子は、「被災物」に応答すべく、
大阪で「被災物」をモノ語るワークショップを始めた。
傷ついたモノを前に、人は思わず記憶の底の声を語りだす。
モノに宿された記憶は、語りなおしを通して、命をつなぐ。
路傍の地蔵や道祖神の謂れのように。
亡き娘のぬいぐるみ、携帯電話の声、山の供養塔、寄り物と漁師の思想、
第五福竜丸事件、東京電力福島第一原発事故による汚染処理水の海洋投棄……
本書は、「復興」の物語からはみだす、小さな〈モノ語り〉の記録であり、
他者の記憶の継承という問いに対する、真摯な応答の記録である。
当事者/非当事者の境界を越えて、命の記憶を語りつぐために。
カラー32頁。志賀理江子の撮り下ろし新作未発表写真16頁を付す。
目次
Ⅰ 終わりと始まり
「被災物に応答せよ」「第三者による記憶の継承」という問い 姜信子
モノ語り集Ⅰ
祠/郵便受け/漁船/シュガーポット
記憶の器としての被災物 山内宏泰
Ⅱ 「モノ」語りは増殖する
「被災物」は記憶を解き放つ 記憶のケアとしての「モノ語り」 姜信子
モノ語り集Ⅱ
ぬいぐるみ/トランペット/電柱/足踏みミシン/ドラム缶/携帯電話
呼び鈴/トタン板/床板/児童文学全集/椅子/洗濯機/香炉/受話器
座談会1 これは、きっと、新しい神話の増殖が始まっているんだ
「被災物ワークショップ」参加者
Ⅲ 氾物語-躊躇なく触る
リアス・アーク美術館に眠るもの
案内する人 山内宏泰
写真 志賀理江子
土の時間、水の時間 東琢磨
Ⅳ 恵比寿の到来
ナニカが海からやってくる 姜信子
えべっさま、ようきてくれましたな 武地秀実
目覚めよ、ヒルコ 岡本マサヒロ
座談会2 気仙沼リアス・アーク美術館「被災物」の企み
山内明美×山内宏泰×ワークショップ参加者×姜信子
Ⅴ 新しい祭りへ
南三陸集会+気仙沼への旅 姜信子
エビスが語りて命をつなぐ 川島秀一
前書きなど
「被災物に応答せよ」
「記録自体が伝えるのではなく、伝えるために記録をとる」
「リアス・アーク美術館常設展示図録 東日本大震災の記録と津波の災害史」より
かなり驚いたんです。友人の山内明美に連れられて、2019年冬に初めて気仙沼のリアス・アーク美術館を訪れて。
地階のフロアに「被災物」が所狭しと展示されている。これ、一般的には地震や津波による瓦礫と呼ばれているものです。震災直後から二年間にわたって拾い集められてきた。そのほとんどが人々の日常の暮らしの中にあったモノで、その一点一点に、それにまつわる記憶が記されたハガキが添えられている。たとえば、「携帯電話」だったら、こんなふうに。
2012.4.10 南三陸町志津川平磯(収集年月日日と場所)
地震の後でね、携帯がたまたまつながったのね。それで、すごかったねぇなんて話してたの。そしたら、アッ!津波来た!って言って、電話切れたのね……それっきりになってしまったの……電話で話なんかしてないで、すぐに逃げればよかったんだよね・・・
もちろん、拾ってきた被災物の元の所有者はわからないわけです。
とすれば、それは、いったい、誰の記憶?
実を言えば、その記憶のすべてを山内宏泰館長が書いているんです。つまり、フィクション。いや、でも、フィクションと言いきれるのか。自身も被災者である学芸員たちが、収集時に収集現場で被災物を前にしてイメージしたことを「被災資料」に書きこんで、それをみなで共有し、最終的に館長がひとつひとつの被災物に宿る記憶の「モノ語り」として書きおこしていったのだというんですから。
いま、私は「物語」ではなく、「モノ語り」と言いましたが、リアス・アーク美術館で「被災物」に囲まれれば、それが単なる瓦礫でも、残骸でも、ましてやゴミなどではないことは、ありありとわかる。「被災物」は「モノ」なんですよ。人々と暮らしを共にし、人々と共に大地震と津波を経験し、人々と記憶を分かち合い、人々と共に生きてきた記憶を孕み、人々と共に生きてゆく祈りを宿す、そのような意味において、魂ある「モノ」なんです。気配をたたえた「モノ」なんです。もしかしたら、すでにモノノケ化している「モノ」かもしれない。見事にそのように展示が企まれていることに、驚いたんです。
何も知らずにリアス・アーク美術館の地階に降りていくでしょう、被災物に囲まれるでしょう、おおっと圧倒されるでしょう、そのとき、ふっと、路傍の名もなき石仏、道祖神、地蔵、観音、大石小石、風土の無数の小さな神々に囲まれているような心持になるんですよ。日常の暮しの中にあった頃の気配を残す被災物/モノたちは、まだまだ生々しい気配を残して、声にならぬ声をあげているようでもあり、それを聴き取るようして添えられた「思い出/モノ語り」は、名もなき神々の謂れをそれぞれにさまざまにそっと語りかけているようでもあり、それはつまり、名もなき民の記憶の声。
ああ、こうして「モノ語り」は生まれ、人々は生きてきた記憶を語りついできたのだろう。公の記録にも、立派な社に鎮座する神々の系譜からも弾き出されているような、風土に生きる「モノ=者=物」たちの記憶。 なるほど、私は、「モノ語り」のはじまりの光景に出会ったのだな。リアス・アーク美術館「被災物」展示では、そんなこともつくづくと思ったのでした。
問題はここからです。
「被災物」の「モノ語り」は、すべて、ハガキに記されている。そこには宛名は書かれてないけれど、それは明確に「モノ語り」を読む者ひとりひとりに宛てられている。
それを読んで、受け取ってしまったなら、応答しないわけにはいかない。
ええ、応答いたしましょう。
できることなら、「被災物/モノ」たちはああやって語りだしているのだから、たくさんの人々に声をかけて、「被災物/モノ」の前に立ってもらって、どんどん応答するようにしましょう。
気仙沼は遠い。いま私が暮らす関西から応答の試みを立ち上げるとするならば、「被災物/モノ」の画像と「モノ語り」の文章をリアス・アーク美術館から提供していただいて、応答の「場」を開きましょう。
あの「モノ語り」は、きっと文字で読んだらあの土地の声で語ってもらわねばならないはず、ならば気仙沼の人(リアス・アーク美術館館長)、南三陸の人(山内明美)にお願いして読んでもらいましょう。
というぐあいに、思いつくままに応答のための準備を重ねていって、ついには趣旨賛同の仲間たちとともに「被災物ワークショップ」なる試みの「場」を大阪で開くに至ったのでありますが、さて、困った。
応答って、どうやってする?
被災者ならぬ私たちは、応答の声を発するどころか、むしろ被災物のモノ語りに声を失って、被災物の向こう側にいる被災者を思い描くほどに、アーウーと唸りながら、無難で相手を傷つけることのない、押しつけがましさも感じさせない労わりや励ましの言葉をついつい探す自分をまずは発見するんですね。でも、ちがう、ちがう、これじゃない。
送られた「モノ語り」を自らの声で語ってみたり、歌ってしてみたりする者もいました。そうやって自分の中に「モノ語り」を響かせてみる、心が震える、試行錯誤の「場」を重ねる、「被災物/モノ」の「モノ語り」がどんどん心に打ち込まれてくる、ますます震える心は突き動かされるようにして、自分自身の「モノ語り」を語りだす。目の前の「被災物/モノ」の写真をじっと見つめながらも、被災地を遠く離れた自分の「モノ語り」をこんなふうに語りだしてもいいのだろうか、これが応答になるのだろうか、自問しながらおずおずと。
応答、というここで言うとき、そこには「記憶の継承」という意味合いもあります。当事者から非当事者への。なのに、自分の「モノ語り」を語りだすって、おかしくないか? そう思いつつも、なかには、自身の中から湧きおこる「モノ語り」が止まらなくなってしまった者もいました。
応答、どうする?
継承、これでいいのか?
渦巻く問いと共に、応答の「場」で語りだされた「モノ語り」のうち、まずは4編をここで紹介いたしましょう。
上記内容は本書刊行時のものです。