書店員向け情報 HELP
出版者情報
書店注文情報
在庫ステータス
取引情報
臨床哲学への歩み
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2024年4月30日
- 書店発売日
- 2024年4月22日
- 登録日
- 2024年2月26日
- 最終更新日
- 2025年4月10日
紹介
◎鷲田清一さん書評(「朝日新聞」2024.7.17 & 18)
《世界を理解すべく言葉でそれを切り分けてゆくが、そのことで世界の複雑さを切り詰め、 己の経験を型に嵌める。それに抗って、人は元の混沌から再出発しようとする。看護でも自分は理解以上にためらいを大切にしてきたと》
「『わからない』というところから出発するためには、『わからないこと』に耐えつつ、『わからないこと』を相手と共に悩むような姿勢が必要です。それは自信満々の医療というものではありません」(本書より)
自分が語るのではなく、苦しみのベッドサイドで相手の話を聴く哲学へ――。看護・介護から臨床哲学の道に進み、哲学カフェやダンスワークショップの活動にも取り組む著者の歩み、人々との出会いを語るエッセイ集。解説 天田城介
*『臨床哲学への歩み』初版第一刷の内容に誤りがありました。読者の皆様に心よりお詫びするとともに、以下の通り訂正いたします。
カバーそでの著者紹介
誤 1975年、大阪生まれ
正 1957年、大阪生まれ
171頁 最終行
誤 植島啓治先生
正 植島啓司先生
目次
プロローグ――曖昧
1 臨床哲学への歩み
「感情労働」って言うな!――臨床哲学の立場から
医療に哲学は必要か?
生まれてこなかった子どものために
洛星高校で授業したよなあ――〈老いる〉を哲学する
2 ココルームのこと、とつとつダンスのこと
孤独に応答する孤独
釜ヶ崎の人、ふじやん
ココルームで遊びすぎた
愛のレッスン
認知症と呼ばれる老い人との関係を考え直す
3 出会いから考える
鷲田さん、とのこと
中井久夫は渋い――ナースだった男がしびれたこと
記憶のかけら――陸軍看護婦になった母
動くためにとまる
エピローグ――後知恵
あとがき
解説 「えらい気前のええお天道様やな~」という言葉を紡ぐ哲学の人 天田城介
前書きなど
曖昧とは何か。古い辞書である『言海』(大槻文彦、ちくま学芸文庫)で調べてみる。
あいまい(名)〔曖昧〕(一)薄暗キコト。分明ナラヌコト。(二)事ノハキトセヌコト。定マレル目當ナキコト。
ついでに、ぼくの持っている最大の辞書、『精選版 日本国語大辞典』(小学館)で調べてみると、「曖」も「昧」も暗いという意味の漢字であった。『言海』では言及されていない意味では、「うしろ暗いこと。いかがわしこと。怪しげな、疑わしいさま」が載っていた。曖昧女、曖昧茶屋、曖昧屋、曖昧宿などが、いかがわしい意味に用いられている。と、ここまで辞書をひっくり返してみたが、それで? という気になる。そもそも「曖昧」ということばは、明確な定義を拒むのではないだろうか。曖昧の精神を忘れた語釈に、せせら笑っている曖昧の姿が隠れ見える気がする。
この「気がする」というのも、ずいぶん曖昧な言い方であるが、こうとしか言えない気分というものを人は簡単には脱ぎ捨てることができない。なんでもかんでも、はっきりと言い切ってしまうと、含みのない単純な、面白味のない粗雑な表現になってしまう。誰でも簡単に使えるレトリックとして、「何々のような」という表現がある。試しに、「仏のような人」は仏ではない、「鬼のような人」も鬼ではない。どちらも人であるのだが、人とだけ言ったのでは伝わらないことを伝えようとしている。「人」と言ったところで、どんな人なのかは、まったく不分明なのだ。これらの表現がわからないと「鬼手仏心」などというのは、たんなる怪物になってしまう。
人が人として生きるうえで欠かすことのできない「ことば」の正体は曖昧なものなのだ。世界に満ちあふれている個別具体的なあれこれの物や現象は、決して一様ではなくひとつの言葉で言い切れるようにはできていない。切れ目のない変化と流動が世界のありさまで、だからこそ、人は「ことば」を発明したとも言える。何かを考えるためには、比較考量するための区切りが必要になる。それを可能にするのがことばによる世界の分節化であり、一挙に感受したはずの世界の豊かな複雑さを犠牲にしてしまうことは避けられない。
これに抵抗するのが、曖昧の精神である。目の前にある美しい蝶の標本、その固定された蝶にいのちの息を吹き込み、ふわりふわりと舞い飛ぶ美しさを取り戻すとき、あなたは美を静観する者から、美に揺り動かされる者になる。「ある」と考えられるものと、そうとは考えられない「ない」ものとを溶け合わせて、根っこにある感動に立ち戻る。アートが感動に揺り動かされて生まれ、その感動に巻き込まれていく人々の営みであるとすれば、曖昧の精神こそアートの基幹にあるはずだ。
人はわからないことに長く耐えられない。だから、わかることに頼ってしまう。が、わかってしまうことは退屈であり、その欺瞞に我慢できない人が現れる。そして、既存の理解の枠組みを破壊して混沌のなかから、ふたたび探求を開始する。秩序の隙間に入りこみ、そこに迷路を見つけて遊びだすのがアートのいかがわしさであり、わかりにくさであり、生きる曖昧さを輝かせる力になる。
版元から一言
シリーズ〈ホモ・クーランスの本〉
刊行のことば
「ホモ・クーランス homo curans」は「治癒する人」という意味。人間の本質を「治癒 cure」や「ケア care」の観点から名づけた表現です。シリーズ〈ホモ・クーランスの本〉は、ケアの現場にいる人々や、そのかたわらにいる人々の声を届けます。当事者、支援者、関係者、研究者……。それぞれの現場から聞こえる問いを分かち合い、人と人がともに生きるための知恵を、読者の皆様と探したいと願っています。
上記内容は本書刊行時のものです。