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ためらいの看護 西川 勝(著) - ハザ
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ためらいの看護 (タメライノカンゴ) 増補

哲学・宗教
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発行:ハザ
四六判
縦188mm 横130mm 厚さ19mm
304ページ
並製
定価 2,600円+税
ISBN
978-4-910751-00-9   COPY
ISBN 13
9784910751009   COPY
ISBN 10h
4-910751-00-9   COPY
ISBN 10
4910751009   COPY
出版者記号
910751   COPY
Cコード
C0010  
0:一般 0:単行本 10:哲学
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2022年12月14日
書店発売日
登録日
2022年12月3日
最終更新日
2023年8月24日
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書評掲載情報

2023-06-03 図書新聞  
評者: 森村修
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紹介

◎森村修さん書評(「図書新聞」2023.6.3)
《西川が看護師として特異なのは、看護・介護を生業としながら哲学に興味を持ち続けていたこと…西川は、九鬼の主著『偶然性の問題』(1935年)に導かれて、独自の九鬼哲学解釈を展開している》

「不自由な手で、ようやくスプーンを口元まで運んだ人が、好物のゼリーに目を丸めてぼくに喜びを伝える。ハラハラして見ていたぼくにも嬉しさがこみ上げる。相手の喜びを理解したからというのではない。ただ見ているだけ、というぼく自身の弱さから救われた喜びである。そのぼくを見て、相手の目がさらに輝く。……生きている限り心臓が弾み続けいのちを支えるかのように、ケアの弾性は人と人の間にいのちをもたらす」(本書より)

介護・看護の現場から生まれた臨床哲学の名著の増補版。巻末に九鬼周造『偶然性の問題』をテーマにした著者の修士論文を新たに収録。

目次

【病棟から】
夜空のラーメン
コーヒー牛乳の日差し
聖地の吐息
唇の赤い花
ガラスを包む
青い瞳

Ⅰ 病の意味を見いだす

第1章 「信なき理解」から「ためらいの看護」へ
 1 〝ためらい〞が病を治療する⁉
 2 「わからない」と言ってはいけない看護教育
 3 昏迷から醒めて
 4 頼りない足取りを覚えていてくれた
 5 ためらいに震えつづけたい
第2章 食と生きざま
第3章 生きる技術・生かす技術
 はじめに
 1 どうして、こんな目に
 2 死の準備
 3 ケアに根拠はない
 4 味噌汁の意味
 5 生への自由 
 おわりに 生かされる技術

【病棟から】
覚えのない傷

空き缶
うら声
耳喰い

乾いたパン

Ⅱ パッチングケアの方へ

第4章 臨床看護の現場から
 はじめに
 1 精神病院での経験 
 2 透析医療の現場から
 3 看護をめぐって
 4 臨床哲学と看護
第5章 ケアの弾性――認知症老人ケアの視点
 1 途方に暮れるとき
 2 パッシングケア  
 3 普通のケア  
 4 パッチングケア
 5 ケアの弾性

【病棟から】
暴れん坊将軍
食い逃げ松ちゃん
月夜の点す紅
セブンティーン
貨車いっぱいの金塊

Ⅲ 人に寄り添うということ

第6章 臨床テツガク講座
 1 理解不可能性から出発する
 2 看護を離れ、看護の常識を疑う
 3 中途半端な位置から
 4 もう一つのことがらに気づく
 5 切ない……
 6 ヒ、ミ、ツ……
第7章 隠すプライバシーで露わとなること
第8章 鬱の攻撃性
 1 鬱に出遭う 
 2 憐れみと苦悶
  鬱は励ましてはならない 「憐れみ」はとっておきの餌食
 3 鬱の罠
  自我の弱さを印象づける罠 鬱は自己を攻撃して他者の反撃を許さない
 4 自殺させるな
 5 繊細に
第9章 「認知症」の衝撃

あとがき



補遺 ケアの弾性

序説
第1章 ケアの偶然性
 第1節 無根拠
 第2節 驚き
 第3節 邂逅
第2章 死活の契機
 第1節 欲望
 第2節 賭け
 第3節 遊戯  
第3章 ケアの弾性
 第1節 回復力  
 第2節 試行  
 第3節 自由  
結論

増補版あとがき
初出一覧

前書きなど

 闇の中で目覚めた、もう眠るわけにはいかない。そんな切迫した思いで、この論文をはじめる。どこかへ向けて動き始めるのだが、その出発点が自分にはわからない。
 自分が生きていること、さまざまな人との間で、喜びや悲しみ、怒りや嫉妬、親しみと憎しみを味わい生きていること。たとえ明暗はあっても、この世界に自分は生きている、生きていてもいいのだ、と思うのは、平凡すぎるほど確かなことであった。 
 しかし、自分が生きていることも含めてすべての存在に、その根拠へ問いを差し向けると、まどろむ夢は破られた。すべての存在は、あることもないこともできる偶然性によっているのだ、という考えに覚醒させられたのである。
 考えれば考えるほど、ぼくは生まれなくてもよかったし、今も生きていなくてもいいのだ。ぼくが、どうしてもこの世にいなければならなかった理由など見つかりはしない。ただ事実として、ぼくが生きているというだけのことなのだ。ぼくが愛しているものすべても、憎むものすべても、あることもできたし、ないこともできたのだ。こうして、偶然性はこの世界を底なしの闇にしてしまった。ぼくが安心して根付くことのできる大地は失われた。何が闇なのか、自分の位置を知ることができないのが闇である。必死に動き回っても何一つ現れのないところでは、自分がどこへ向かっているのか、遠ざかっているのかさえわからない。目を見開いたとき、闇に襲われてどうするべきか。
 今まで、ぼくは何かのために生きていると思い込んでいた。いつだって、何かをしようとしていたし、何かになろうとしていた。何かをやめることも、何かから逃げることも同じだ。あやふやな生に形を求めるために、いつも何かが必要だった。看護を自分の職業としてからは、人をケアすることの意味を考え続けてきた。病や傷に苦しむ人に対して、自分ができることが、ほんの僅かばかりであることを幾たびも知らされながら、できないことの意味も求め続けていた。うまく説明はできなくても、何かを諦めることで開かれる関係があると感じさせられることがしばしばあった。意図を超えた思いがけないことが生じてくるのが、ぼくにとってケアの不思議であり魅力であった。だから、ケアする側にもケアされる側にも還元できないケアの関係そのものを疑うことはなかった。
 しかし、意図を超えたケアを考えると、どうしても偶然性の問題が浮かび上がってくる。偶然と思われることにも、その背後にいまだ知られることのない理由があるとも考えられるが、どうしても知ることのできないことがある、と知ることは一種の矛盾である。こうして、ケアすることの根拠どころか、すべてが闇の中にあるのではないかと疑りはじめた。眠りの中よりも目覚めてから見た闇のほうが深いのだ。夢の中では、さざめくようにぼくを包んでいた声も聞こえない。あれは、ぼくの自分自身への呟きだったのか。醒めたぼくに必要なのは、何ひとつ確かな座標軸のないところで漂いながら耳を澄まし、この暗黒のカオスに裂け目をいれる光を探すことだ。光、それ自身は目に見えない。さまざまな恒星からの光で満ちているはずの宇宙空間は暗黒なのだ。輝く太陽とそれに照らされる地球の間は闇に満ちている。光は何かに遭遇してはじめて目に見える輝きを放つ。光を受け止め跳ね返すものがない限り、光と闇を区別する術はない。しかし、見えぬ光があるということは、闇の中に目覚めたとしても絶望するには早すぎることを教えてくれる。
 臨床哲学の論文としてケアの問題を考える際に、特に努力しようとすることは次の二点である。まず、自分の具体的な体験から出発するということ。そして、できうる限り論理的に問題を考え抜こうとする姿勢である。つまりは、自分にしか書けないことを誰にでもわかるように書くという作業を成し遂げたいのである。
 ケアにおける偶然性の問題を考えるにあたっては、主として九鬼周造の著作を思索の相手として選んだ。その理由は、九鬼が『偶然性の問題』において、偶然性に関する概念規定を極めて精緻な論理で追い詰めようとしたという点と、彼が偶然性の考察を締めくくる最後に残した「遇うて空しく過ぐる勿れ」ということばに、ひどく感ずるものがあってのことである。九鬼の言は、偶然性の実存的解釈になる。たまたま遇うということを無意味にしてしまわない。むしろ、偶然性の概念を実践場面では一転翻して、人と生きることの課題へと意味付け、実存のあり方に一致させている。九鬼の哲学に活路が見出せるのではないかという期待は大きい。しかし、ぼくは九鬼周造の哲学を論じるつもりはない。「師を見るのではなく、師と同じものを見る」構えでいく。ケアをわかりやすい因果の法則や目的論で語るのではなく、一歩踏み外せば虚無に落ち込む偶然性の出来事として捉え、しかも自由なケアが活きる契機を見出すことが、この論文の狙いである。
 哲学を愛智の運動として捉え、既成の学問とは一線を画する考えがある。自分の思索を抜きにして誰かの哲学内容を解釈するだけの研究を哲学学として、本来の哲学と区別するものである。しかし、哲学がことばという共同体の産物で織り上げられる限り、全くの個人のオリジナルというのは無理な話である。加えて、哲学は積み重ねることが不可能な知に満ちている。古代ギリシア以来、同じテーマが繰り返し、繰り返し考えられ論じられているが、どれひとつとして解決済みの問題はない。哲学においては問いの立て方そのものにまで反省を加えるのだから、同じ主題を扱ったとしても、問題探求の道のり自体が異なる。この論文で考える偶然性の問題にしても同じことが言える。九鬼が『偶然性の問題』などで明らかにしたことが、すぐに我々の出発点になるわけではない。九鬼の論を熟読した上で、やはり一から始めなければならない。しかし、ことばの意味を丁寧に確認しながら論を進めることで、自分独自の思考の跡が浮かび上がってくるのではないか、と期待しているのだ。 
 もう一度確認する。ぼくがこれから書くのは哲学の論文である。ぼくの職業が看護師であり、論ずる内容がケアであっても、この論文は、たんなる看護論でもケア論でもなく、ぼくの哲学である。この論文では、ケアは世界を眺めるための窓になる。
 哲学は考える自分を棚上げにせず、また自分に関わるすべてのことがら、例えば世界を抜きにしては考えられない営みである。この世界を、このぼくが考え、自分以外の者と語り合おうとするのが哲学なのだ。人に開かれたことばに乗らない思索を哲学とは呼ばない。

版元から一言

本書は2007年に岩波書店から刊行された『ためらいの看護――臨床日誌から』の増補版です。「論理的に可能なことが、人を納得させる理屈にはならないのが、生き難さの根本でもある」という本書の一文が、鷲田清一さん「折々のことば」(「朝日新聞」2018.4.30)で紹介されるなど反響を呼び、看護師や介護士をはじめとする多くの読者から支持されたケア論のロングセラー。元看護師の臨床哲学者である著者のみずみずしい初期論考を追加し、復刊します。医療福祉の関係者のみならず、「人が人とともにあることの意味」を考えるすべての人におすすめしたい1冊です。

著者プロフィール

西川 勝  (ニシカワ マサル)  (

1957年、大阪生まれ。専門は、看護と臨床哲学。元大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任教授。現在はNPOココペリ121理事。高校卒業後、精神科・透析治療・老人介護の現場で看護師や介護士として働く。一方で関西大学の2部で哲学を学び、後に大阪大学大学院文学研究科博士前期課程修了。現在は「認知症コミュニケーション」の研究を行いつつ、哲学カフェやダンスワークショップなどの活動にも取り組む。著書に『ためらいの看護』(岩波書店)、『となりの認知症』(ぷねうま舎)、『「一人」のうらに』(サウダージ・ブックス)など。共著に『ケアってなんだろう』(小澤勲編、医学書院)など。

旧版ISBN
9784000237697

上記内容は本書刊行時のものです。