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孤独について 小林 えみ(著/文) - よはく舎
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孤独について (コドクニツイテ)

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発行:よはく舎
四六判
108ページ
価格 1,400円+税
ISBN
978-4-910327-18-1   COPY
ISBN 13
9784910327181   COPY
ISBN 10h
4-910327-18-5   COPY
ISBN 10
4910327185   COPY
出版者記号
910327   COPY
Cコード
C0095  
0:一般 0:単行本 95:日本文学、評論、随筆、その他
出版社在庫情報
在庫あり
書店発売日
登録日
2024年6月11日
最終更新日
2024年8月30日
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紹介

「ぼっちでいい」は強がりではない。つながりや絆の重要性が強調される昨今、「孤独」が良くないことのようになっている。尊重された個人・孤独が連帯できる社会こそが豊かではないか。SNSで「繋がりすぎる」今だからこそ重要な「孤独」についてのエッセイ。


企画「戦争と人間、孤独」集 全3冊
こんにちは世界。
私たちはひとりで生まれてひとりで死ぬ。
ひとりは寂しい。
それでも私は孤独を肯定する。
一、坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』
二、三木 清『人生論ノート』
三、小林えみ『孤独について』

目次

はじめに
沢村貞子 生活の孤独
青鬼の褌を洗う女 生きる孤独
エミリ・ディキンスン 隠棲の孤独
サン=テグジュペリ 仲間と孤独
三木清 死と孤独
おわりに

前書きなど

はじめに

 その寂しさは本当に孤独だろうか。そして寂しさとは孤独なのだろうか。私は孤独を肯定する。それは人間にとって必要なものだ。
 社会的孤立は、孤独とは違う。虐待、いじめ、貧困、差別。それらは無くすべきものだ。なるべく多くの時間を一人でいたくない、という人もいる。そうした人たちに「孤独は良いものだ」と強制するものではない。孤独は他者に寄らず、一人の魂でそこに在ること。その一人で在ることそのものと寂しさ、時には惨めさと表現されることは、即結ばれるものでも、必ず結ばれるものでもない。
 この「孤独について」は、誰かに頼まれたものではなく、書かねばならない、それも今、という思いが湧き上がって書いた。また、この稿を補完するものとしてシリーズ「戦争と人間、孤独」集とし、坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』、三木清『人生論ノート』を刊行した。2024年現在、日本は直接的な参戦をしていないかもしれないが、ウクライナやガザ、また世界各地で争いがあり、武器が使用され、人々が殺される状況に、私たちが「無関係である」とは思えない。地球規模で見れば、いまは「戦時下」であり、私たちは戦争に関わっている。残酷さを生む戦争を止めたい。そのための活動は、一人ではたかが知れており、多くの人たち、また顔を合わせることのない世界中の戦争反対者と連帯が必要だ。
 ただ、そうした繋がり、連帯の重要性を意識する一方で、私たちはまずそれぞれ一人の人間である、という想いも強まった。日本国憲法の第十三条は「すべて国民は、個人として尊重される」とある。民主主義の根幹はまず「個人として尊重される」ことであるはずだ。繋がることがすなわち全体主義ということではないが、私たちは「繋がること」の良さを受け取るために、その前の「個人として尊重される」こと、「孤独であること」の重要性をないがしろにしていないだろうか。
 戦争は、人を部品として規格化し、消耗する。「同じ」であるほうが、都合がよい。「尊重された個人」であることは、戦争に立ち向かう第一歩だ。
 三木清は『人生論ノート』の「孤独について」で「孤独が恐ろしいのは、孤独そのもののためでなく、むしろ孤独の条件によってである。」「孤独というのは独居のことではない。独居は孤独の一つの条件に過ぎず、しかもその外的な条件である。」と書いた。私たちが孤独を恐れるとき、それは「一人でいること」そのものだろうか。例えば、一人だと経済的に不具合がある、一人でいると学校生活の中でうまく立ち回れない、など「外的な条件」を恐れていないだろうか。そして、人を集団であるようにしようとするものは、たいていそうした「外的な条件」を巧みに孤独の問題へすり替え、さも孤独が悪いもののように仕立て上げ、なるべく都合のよい集団に押し込めたり帰属するようにしむけ、時には孤独をスケープゴートにする。「ほら、孤独は寂くてみじめなものですよ」と。みじめなのは、孤独に付された外的条件であり、孤独そのものではない。
 一人でいることが、一切の苦さを含まず、甘美なものであるとは思わない。孤独を愛していても、寂しさや虚しさを感じることはあるだろう。また、一切の社会との関わりを断つような極北だけを孤独と呼ぶのではない。現在、ネガティブに語られすぎている孤独をまず肯定することによって、「個人として尊重する」と「望ましくない孤立」をわかち、そこから「個人同士の連帯」を肯定して、戦争に立ち向かう。安心して、一人で在れる世界であるために。私は私の繊細さを失わないまま、生きていきたい。

 ビートルズの著名な曲「エリナー・リグビー」は、彼ら、特に作曲者であるポール・マッカートニーが思い描く孤独が表現されている。楽器のみの前奏はなく、軍靴の行進を思わせるようなスタッカートの効いた弦楽器によるマイナー音をベースに、あの孤独な人々を見よ、と繰り返される。そうして一人の老婆、エリナー・リグビーの描写が続く。私は幼い頃、この曲が怖かった。英語の全体はわからなかったが「ロンリー」という言葉は知っていた。家族で外出をした帰り道、父が運転する車は日の暮れた栗駒山曲がりくねった山道を走っていた。前後に他の車両はなく、うとうと半ば閉じた意識に車が動く音と、カセットテープの音が聞こえていた。ビートルズは父が好んで聴いていた。アルバム「リボルバー」では少しファニーな「タックスマン」に続いて「エリナーリグビー」が流れる。他の車の気配は相変わらずなく、私はこのまま曲がりくねった道の次のカーブで車は墜落し、私たちは家に帰れず、地獄に落ちる、と想像した。短い曲のほんのわずかの間に、私はすっかりこの曲に込められた陰鬱さに支配された。ポール・マッカトニーには、他にとても素敵な曲がたくさんある。なぜこの曲はこんなにも怖いのか、子供心にも疑問だった。
 長じてから改めて歌詞を見ると、これは社会の側からの視点であることに気づいた。「見よ」と老婆エリナー・リグビーを、マッケンジー神父を描写する。老婆や神父に「孤独だ」「寂しい」とは語らせていない。マッカートニーがどのくらいその差異に意識的であったかはわからないが、誰もいない、ということを確認はするが、「救われなかった」と断言するのは一箇所のみで、彼らがどこから来てどこに居場所が在るのか、を問う。素朴な、外側から見た「一人でいるひと」の視点を描写している。
 ライスシャワーを拾う、靴下を繕う、これらが貧困をあらわしているのであれば、それは社会的孤立のひとつだ。それらを社会の視点が恐れとして描くことは正しい。その恐れるものを人に与えてはいけないし、社会全体でなくしていくべきものだ。そして彼らが一人でいることを望んでいないのであれば、その状態を勝手に良きものと呼んではいけない。
 しかし、もし彼女たちがその生活に充足していたとしたら?誰のためにでもなく化粧をすること。靴下を繕って、暖かく快適に過ごすこと。それは満ち足りた孤独だ。

 いま、世界では「一人でいること」、孤独が肯定されていない。イギリスでは2028年に孤独問題担当国務大臣が設立され(2021年廃止)、日本でも2021年孤独・孤立対策担当室が設置される(2024年廃止)。社会的な孤立は政治的な課題とされた。すでに先述しているように、社会的な孤立は起こりうるべきではないと私も考えている。しかし、その恐れが「一人でいること」そのものに向かうことは好ましくない。
 例えば、孤独死と言われるもの。主に一人住まいの人が、誰にも看取られずに死ぬことを指す。本人が望まない要因によってその状態に置かれている場合は、避けられるべきものだろう。しかし、一人でいることを望み、さらに一人で死ぬことも予期して望んでいる場合には、その一人で死ぬことの権利を奪ってはならない。死者と双方向的な意思疎通はできない。一人で死ぬことを願っていた人でも死へ向かう苦しみの中で「誰かに助けてほしい、そばにいて欲しかった」と願うかもしれない。それでも、その過程がまだ推量の域を出ないのであれば、長期的な過程として、一人で死にたいという意志を持ちつづけた箇所を尊重して良いのではないか。私たちは、極端な隠遁をしていない限り、基本的にはインフラを共有する社会の中で生きている。その中で、一人で死ぬことで、残っている生者にコストを負わせることがあるかもしれない。それは、そのコストをどのように最小限にとどめ、負担を分かち合っていくかは設計が可能なはずだ。
 大体、そうした個人が社会へ与えるコストは一人で死ぬことだけなく生涯にわたって社会へ生じるものであり、負担できる者たちでそうしたコストを共同で担うことによって一人あたりの負担を軽くしているのが私たちの社会だ。
 一人でいることは、社会としては確かに負荷は大きい。ひたすら社会を合理的にするのであれば、全ての人々は寮のような場所で共同生活をし、決まった時間に同じ食事を食べ、決まった時間には町中で消灯すれば、経済的で、環境負荷も低く、衛生的でもあるだろう。それは極端な発想かもしれないが、そうであるならば、どこが標準であるのかを決めるのは社会の都合でしかない。家族や親族という単位は歴史的な推移の上で今の社会である程度機能していたり、馴染みがあるに過ぎない。人間という生き物であるということが、私と他者を区別する個の認識、その多様性を尊重した上で共同社会を営むものであれば、一人でいる、ということはもっと尊重されるべきだ。まして、都合の良くない時には自己責任が持ち出される今の社会においては、一人という単位が恣意的にダブルスタンダードで使われている。一人でいること、家族でいること、多数でいること、それぞれの望みに応じて対応できる柔軟な制度設計は可能だ。様々な技術、デジタルツール、私たちはこんなに高度な文明や知能に支えられているのに、その制度設計だけが無理、というほど複雑なことではないはずだ。それが実施されないのは、せいぜい怠惰か、誰かにとってはその方が都合が良い、ということだ。


 同じように孤独を愛する人たちへ伝えたい。

 私は孤独を肯定する。

著者プロフィール

小林 えみ  (コバヤシ エミ)  (著/文

1978年生まれ。よはく舎・マルジナリア書店代表。著書に『かみさまののみもの』。

上記内容は本書刊行時のものです。