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母の力 ーすべての創造の根源からの教え
- 出版社在庫情報
- 不明
- 初版年月日
- 2022年9月20日
- 書店発売日
- 2022年9月20日
- 登録日
- 2022年8月8日
- 最終更新日
- 2022年8月20日
紹介
「男性であろうと、女性であろうと、目覚めるために必要となるのは、自分の中に眠る女神という女性性への目覚めからなのです。内なる女神の存在に気づき、畏敬の念を抱くならば、『母』は間違いなく祝福を与えてくれます。女性性を蔑ろにして、人間の目覚めは起らないのです」(本文より)
この世のすべてを絶妙なバランスの上に成り立たせる、万物の創り主である宇宙の母(マザー)直伝の教えとは――?
前作『恩寵の力』で鮮烈な印象を与えた著者の続編となる本書は、今まで語られることの少なかった、万物を創った大本の存在である「宇宙の母」に焦点があてられており、次に発行が予定されている『目覚めの力』(仮題)を補完する役割を果たしている。
この世のすべてを創造し、絶妙なバランスの上で生み育む「母」は、マハー・マーヤという別名の通り、真実を覆い隠す「マーヤ」というヴェールで探求者を翻弄する力でもあり、それを取り去る智慧を与えてくれるものである。
また本書では、同じく「母」の創造物である、ブッダやキリストすら翻弄された「魔境」と、それをどのように看破したらよいのかについての導きも丁寧になされている。
インド・チベットで修行ののちに「母」を直接感得することになった著者独特の「マザーの世界観」を味わい、「母」の恩寵の内に目覚めを経験するために必要な言葉を超えた経験を喚起する一冊になっている。
前半は著者の「母」にまつわる経験から来る多角的な解説、後半は前半の理解を補うための講話と問答集になっており、三部作の最終章となる『目覚めの力――死と悟りが教える人生の目的』(仮題)の刊行も予定されている。
*目次*
【第一部 創造の根源からの教え】
Ⅰ「母」の導き
Ⅱ「母」とは
Ⅲ マーヤ
Ⅳ 障害と魔境
Ⅴ タントラ
Ⅵ 実践編
【第二部 講話と問答】
Ⅰ 母
Ⅱ マーヤと魔――「母」の創造物
Ⅲ 相対世界と神
目次
はじめに
【第一部 創造の根源からの教え】
Ⅰ「母」の導き
Ⅱ「母」とは
1「父」と「母」 2創造 3宇宙を支配するバランス
4プログラムされている「母への思い」5マザーアタック-「母」の叱責
Ⅲ マーヤ
1世界の誤認 2自己の誤認 3宗教や思想の中にあるマーヤ
4家庭内のマーヤ 5自分とマーヤ
Ⅳ 障害と魔境
Ⅴ タントラ
1タントリスト 2 ダーキニー
Ⅵ 実践編
1実践方法 2「母」の恩寵の働き
【第二部 講話と問答】
Ⅰ 母
Ⅱ マーヤと魔――「母」の創造物
Ⅲ 相対世界と神
おわりに
前書きなど
はじめに
人類が地球上に誕生してから長い年月が流れ、いくつもの時代の中で数えきれないほどの魂が誕生し、見事なまでの人類史を創り上げてきました。この歴史の一つひとつを創り上げてきたのは、一人ひとりの命です。無数の命が関わり合いながら、壮大なる絵巻物を織り上げていく。それは、人類が他の動物と異なった生命体であることの証です。
この我々一人ひとりを生かす命。その命の源は愛であり、今日も我々一人ひとりを包み込んでいます。それが、原初の母であり、我々を生かす力の源なのです。人生という誕生から死までの物語は、愛によって始まり、愛によって結実します。
本作は、『恩寵の力―必然性に導かれた人生の答え』(蓮華舎刊)に続く二作目として、宇宙の母なる存在と、その創造についてお話ししていきたいと思います。
これから明らかにされていく「母」とは、皆さんがよく知る一般的な表現としての女神のことではなく、宇宙を創造した根源的な母のことです。
宇宙の母というと、聞き慣れない言葉のように感じられるかもしれません。確かに、今まで宇宙の母について語られることはあまりありませんでした。過去に「母」についてあまり述べられてこなかったのは、単純に時代性の問題です。男性性が優位な時代においては、女神については語られていても、その大元となる母なる神という存在を前提としてはいなかったため、母なる神についてあまり語られてこなかったのだと考えられます。
今回取り上げるこの「母」の教えは、こうした時代性の影響もあり、世間にあまり流布しているものではありません。女神を信仰するような形態はあったとしても、宇宙の母の存在とその教えに関しては、私が知る限りではほとんどないと思います。
私がこの教えを授かったのは二〇〇〇年でしたので、まさにこれからの時代の幕開けを予感させられました。それから既に二十年以上の月日が流れましたが、人類の意識の進歩は遅く、「母」の時代に突入したとはいえ、いまだ無知なままです。
我々と「母」の繋がりは、より現実的です。魂の源が神であるならば、「母」は命の源です。
我々は母親から産まれてきます。出産とは、生きている母から産まれ出ることであり、産まれたときに既に父は死んでいたというケースはあっても、死んだ母から産まれてくるということはまずあり得ません。出産というのは命のリレーです。生きている母親から命を引き継ぐということです。そして、母親も祖母から引き継ぎ、祖母は曽祖母から引き継ぎ、これは原初の生命まで繋がっています。原初の命から今の私まで、命は途切れることなく繋がっているのです。
こうして遡っていくと、我々は宇宙の母に辿り着きます。宇宙の母が宇宙を創造したその瞬間から今に至るまで、「母」との繋がりは途切れたことがないのです。まさに、自分が今生きていることが、すべての先祖であり、原初の母なのです。そこに連綿と繋がる母の愛というのは、原初の母から途切れることはありません。命に感謝すること、命を大切にすることは、祖先や、ひいては「母」を大切にすることに繋がるのです。
私もかつて、神は男性であると勝手に思い込んでいました。ですので、自らの経験にお
いて、最初に現れた神は性別を超越していましたが、次に現れたのが「母」だったことに
大変驚きました。
そして、「母」から見た世界を開示されたときに、この地上を支配している力のほとんどが母性であることを観て驚きました。人間だけが取って付けたような男性支配のハリボテの世界なのです。しかし、ただそのように見えるだけで、結局子どもを産むのは女性であり、本質は異なっているのです。人間界のそれに対して、自然界は完全に母性が支配する世界です。私自身、この「母」の視点から世界を見たときに、そこに現れている力と愛に衝撃を受けました。
この「母」から来る愛はすべての人に等しく注がれています。しかし、人類はこのかくも単純で明解な答えを、難しく考えることでわからなくしているだけなのです。ただ胸に手を当て、自分の鼓動を感じ、「母」との繋がりを理解すれば良いだけです。
我々の人生は神の計画に完璧に則っており、「母」によって導かれているのです。
「母」の教えはどちらかというと、我々にとっての悟りの障害となるものが何であるかという部分に特化されています。神の教えは真理のみに焦点が合っていますが、「母」の教えは我々が抱えるさまざまなマーヤという障害を、どのように理解するかがポイントになります。よって、教えそのものがパラドキシカルな部分が多々ありますので、好ましく思わない人もいるかもしれません。マーヤはこの宇宙のようにぐるぐると回る性質を孕んでおり、教えそのものによって「マーヤ酔い」してしまうこともしばしばです。
しかし、この「母」の教えを理解することで、我々が深刻に捉えていたさまざまなマーヤをマーヤとして理解できるならば、雲が晴れるように意識は晴れ渡り、神という絶対的な真理が顕わになります。
マーヤを知らなければ、神そのものをも理解することはできません。相反する教えが存在してこその我々の世界です。
この理解は、マーヤを雲に捉えるとわかりやすいかもしれません。雲が発生して雨が降ります。現代ではその仕組みが科学的に理解されているので、日照りが続いても雨が降り続いても、我々はその理由を理解しています。しかし、かつての時代は、これを神々の障りと捉え、祈祷をしました。
正しい理解は不安や迷妄を取り除くのに役立ちます。マーヤという雲を取り払うことで、真理が明らかになるのです。
今まで、「母」の教えやマーヤに対する理解が一般的でなかったがゆえに、真理とは彼方のものであったのです。「母」やマーヤを理解すれば、それは未知のものではなくなります。
神または自己を探究していくために、この相反するマーヤについての教えは不可欠であると私は考えています。
現代では、かつての時代のような性別の差という壁は崩れてきています。男性と女性、ジェンダーレスという考え方も一般的になってきました。この時代にあって、神が父であるというような考え方も古いものになって当然です。性を問わないという現代の考え方は、本来の神という性別を超越した存在にさらに一歩近づいた考え方とも言えるのです。
しかし、人類は性別を持っています。ゆえに、人間にとって性別をどう捉えるかということは重要な課題です。相対した世界では、バランスを取ることが大切になってきます。人口の割合をみても、不思議と男女のバランスは取れています。これは、自然界の能力であると共に、絶対者の必然性から来るものなのです。
長い歴史によって蓄積された性差別を取り除くのは、なかなか難しいことです。しかし、今の時代のさまざまなアプローチは、こういった性差別を取り除くと共に、社会全体に変化をもたらしています。
時代は徐々に変化してきています。これを私は「母」の時代の到来と理解しています。現在の世の中のさまざまな問題は、変化するための産みの苦しみであると私は解釈しています。
「母」の時代がやってくると、かつてないほど時代は穏やかになると私は考えます。なぜならば、「母」の存在の基となるのは愛だからです。世界が愛に満たされるなら、我々は分かち合いと平等を経験することになります。
この地球上で母を持たない生命は存在していません。そして、それらのすべての母は我が子に対して無償の愛を注ぎます。
すべての母は子どもに幸福になってもらいたいと願っており、その愛のすべてを子どもに与えるものです。
なぜ、かくも母とは愛であるのか。
それは、宇宙の母が愛以外の何者でもないからです。宇宙の母は、自らの被造物すべてに、持てるすべての愛を注いでいます。この摂理を理解すれば、我々の誰もが宇宙の母の愛の恩寵を受けていると理解することができるはずです。
しかし、人間界は難しくできています。もちろん進化の頂点に存在しているわけですから、仕方のないことです。この愛という普遍的な心は試練として利用され、意識の進化の過程において、避けては通れない学びとなります。
よって、我々は愛し方や愛され方がわからず、自分は愛とは無縁だと感じてしまうこともしばしばです。しかし、これらは単に試練として起こっているだけなのです。
我々人類のすべてが宇宙の母に愛されており、成長を求められているのです。「母」は目に涙を浮かべながら、我々に試練を与えているのです。
人生とは愛の学びのための場です。
ないからこそ求めるのです。探究して辿り着いた先に、宇宙を包括するほどの大きな愛があります。これが「母」が私たちに示したかったことであり、これが究極の目的だったのだと悟ります。その愛に触れて、我々は自分が何者で、何のためにここに存在しているのかを悟るのです。人類のためにも、そして地球のためにも、我々は変わっていかなければなりません。
ここに説明した「母」の教えも、皆さんからすると観念になってしまいます。前作『恩寵の力』の内容にも共通しますが、これらは観念で捉えることではなく、実際の体験を必要とします。
そして、これらの恩寵をもたらすのは修行の結果ではありません。向こうからやってくるものなのです。それを受け取るために必要なのは、愛です。愛であることによって、これらの恩寵は自動的にやってくるのです。
自己において客観的であり、常に愛に満たされていれば、それは必ずやってきます。ですから、必要な努力があるとすれば、ただひたすら愛であることです。水が水を呼び込むように、気流が空気を呼び込むように、愛が愛を呼び込みます。我々が愛であれば、恩寵は必然的にやってきます。
この『母の力』を通して、「母」の力に目覚め、究極の愛の状態を、たくさんの人たちが経験することが私の願いです。まだまだ時間はかかるかもしれませんが、縁あって、皆さんが本書を手にする「みこころ」があるならば、それは既に皆さんにおいて「母」の恩寵が起こっているということです。
この「母」の教えは単純です。ある意味簡単すぎます。人間は複雑に物事を考えるようにできているので、簡単すぎると、かえってわからなくなってしまうことはしばしばです。難しく考えることはありません。ただシンプルに、「母」の愛に自らを委ねるだけです。
人間はそれぞれ個性があり、その個性というのは神より与えられた必然性によります。この個性は、精神的な教えに興味を持つように仕組まれている人やそうでない人、智慧の道に興味を持つ人、愛の道に興味を持つ人、絶対者のような唯一なる結論を求めたり、「母」のような愛に答えを求めたりと、さまざまな現れ方をします。
これらは、神から来る必然性によって定められています。本書を読んでピンと来なくても、十年後にピンと来るということもあるかも知れません。
「母」の道は、ときには険しくはあるものの、甘美なる道です。この愛の道を歩めることは、奇跡のようなことです。
皆さんがこれを知り、直感することで、「母」は皆さんにおいてリアライズされます。そうなれば、残りの人生は「母」あるのみです。
この単純明解な教えが皆さんの上に結実することを心から願っています。
上記内容は本書刊行時のものです。