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近頃なぜか岡本喜八
反戦の技法、娯楽の思想
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2020年9月30日
- 書店発売日
- 2020年9月25日
- 登録日
- 2020年8月4日
- 最終更新日
- 2020年9月30日
書評掲載情報
2021-01-17 | 読売新聞 朝刊 |
2021-01-17 | 読売新聞 朝刊 |
2021-01-01 |
キネマ旬報
評者: 野村正昭 |
2021-01-01 |
図書新聞
評者: 羽鳥隆英 |
2020-12-13 |
北海道新聞
評者: 菅原和博 |
2020-11-29 | 沖縄タイムス 朝刊 |
2020-10-31 | 信濃毎日新聞 朝刊 |
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紹介
なぜいま、岡本喜八なのか。
痛烈な戦争体験を抱え、フマジメな余計者として「カッコイイ戦争」に抗い続けた岡本喜八。
喜八は誰ととともに何と戦ったのか。
その遺伝子はどこに受け継がれているのか。
不穏さを増す近頃、「人と人の争い」を描き続けた岡本喜八の表現が再び光を放つ。
目次
はじめに
第1章 映画監督・岡本喜八の誕生――「カッコイイ戦争」のインパクトとその背景 山本昭宏
第2章 「フマジメ」な抗い――喜劇へのこだわりと「正しさ」への違和感 福間良明
第3章 「余計者」にとっての「明治」と「民衆」――時代劇から問う近代日本 佐藤彰宣
第4章 誰とともに何と戦う?――「内戦」を描く岡本喜八 野上 元
第5章 キハチの遺伝子――喜八映画の影響関係と戦争体験 塚田修一
終 章 青い血とコロナウイルス――軍事とメディアによるスペクタクル 山本昭宏
あとがき
前書きなど
「はじめに」
山本昭宏
◆岡本喜八が気になって
なぜいま、岡本喜八なのか。
そもそも、岡本喜八(一九二四~二〇〇五年)の映画を観たことがないという人は、多いのかもしれない。岡本喜八は、黒澤明や小津安二郎に比べると、言及される機会は少ないし、テレビの再放送の機会も少ない。書店の映画関係の棚で、岡本喜八の名前を見るのは稀である。しかし、岡本喜八を知らない人でも、実は間接的に岡本喜八に触れている、という可能性は大いにある。
たとえば、『日本のいちばん長い日』という映画作品があることは知られているだろう。近年は、原田眞人監督の『日本のいちばん長い日』(松竹、二〇一五年)が「豪華キャスト」で公開された。ポツダム宣言受諾を決めて玉音放送を流すまでの過程を緻密に描いた大作映画だ。ただし、原田版はいわばリメイクであり、もともとは、岡本喜八監督による『日本のいちばん長い日』(東宝、一九六七年)があった。日本の戦争映画のなかでも、ビックタイトルのひとつである。
あるいは、庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』(東宝、二〇一六年)を観た人は、みな岡本喜八に出会っている。映画のなかで、ゴジラの謎を握る「牧悟郎博士」は失踪中だが、観客は牧博士の顔写真を見ることになる。その顔写真の人物は、岡本喜八その人である。こうした直接的な出会いとは別に、『シン・ゴジラ』の演出も、岡本喜八流だ。よく知られているように、庵野秀明監督は、岡本喜八の映画を熱心に研究することで、自身のアニメーションを作り上げた。庵野秀明の演出が観る者に与える心地よさは、岡本喜八に多くを負っている。その意味では、エヴァンゲリオンのファンたちは、岡本喜八の「孫」に当ると言っていいだろう。
ふたつの例を挙げたが、現代日本文化の底に流れるいくつかの河のひとつとして、岡本喜八を挙げたとしても、さほど大袈裟な評価だとは思えない。しかしながら、黒澤や小津などの「巨匠」や、大島渚や吉田喜重らの思想的・前衛的な映画と比べたとき、岡本喜八に対する評論や研究は、決して多いとは言えないのである。
もっとも、本書のなかで言及するように、山根貞男や長部日出雄ら評論家による優れた岡本喜八論は存在するし、関係者の証言など貴重な資料が収録されたデータブック(『Kihachiフォービートのアルチザン――岡本喜八全作品集』東宝出版事業室、一九九二年)もあれば、書誌研究とでも言うべき、寺島正芳編『岡本喜八全仕事データ事典』(二〇一四年)もある。さらに、小林淳『岡本喜八の全映画』(アルファベータブックス、二〇一五年)のように、岡本作品を網羅して論じた著作が上梓されたことで、再評価はいっそう進むと思われる。
そうだとしても、なぜいま、岡本喜八なのか。
現代文化の源流という以外にも、岡本に注目したい理由がある。それは、戦中派の再評価に関わっている。戦中派とは、大正末期から昭和初期に生まれ、思春期から青年期にアジア・太平洋戦争を経験した世代を指す。二〇二〇年代の現代日本において、戦中派が、政治状況、論壇状況、文化状況に直接関わることはほとんどなくなった。思想信条を問わず、戦争体験に裏打ちされた思想や行動の存在感が薄れて久しい。それは、ときに韜晦や屈折を含んではいたが、戦争への批判を生み出す豊かな源泉だった。岡本喜八の場合は、末端の兵士や民衆を擁護し、戦争指導者たちを批判し続けながらも、人を惹きつける戦場の危険な魅力を描いた。
◆戦中派として
岡本喜八が描いた戦中派の心情については、本書の各章で検討していくが、ひとつの例を挙げてみたい。『にっぽん三銃士――博多帯しめ一本どっこの巻』(一九七三年)という作品がある。製品化されていないためか、ほとんど言及されない岡本作品のひとつである。元陸軍中尉の主人公を、小林桂樹が演じている。
映画の最終盤、事件が片付いて大団円という場面で、車の後部座席に座った主人公が、突然、歌い始める。「どこまで続く泥濘の」と始まるこの歌は、戦時歌謡・軍歌の「討匪行」である。
「討匪行」は、一九三三年にビクターから発売された流行歌だ。関東軍参謀部による作詞と表記されたが、実際に作詞を担当したのは八木沼丈夫である。八木沼は、日本軍が一九三二年に創設した宣撫班の班長を務めた人物だった。南満州鉄道に勤務していた八木沼は、満州や中国の風土を愛したことで知られる。抗日ゲリラの掃討作戦に従事する日本兵の姿を描いた「討匪行」の詩は、勇ましさとは無縁であり、前線の兵士に寄り添うような歌詞を特徴とする。
作曲者は声楽家の藤原義江で、レコード版の歌唱も彼が担当した。後拍に付点を置く独特のリズムは、広く愛唱された。しかし、太平洋戦争が始まると、敵の死体を手厚く葬るという歌詞が問題視され、歌唱が禁止されたという(矢沢寛『戦争と流行歌』社会思想社、一九九五年、六四~六五頁)。
さて、映画に戻ろう。主人公が歌い始めた「討匪行」について、戦無世代の若い男女が反応する。まず女性が、「いかすじゃないそのブルース」と声をかけると、小林は「雨降りしぶく、鉄かぶと」と続きを歌う。すると今度は岡田裕介演じる男が「シンコペーションがあって面白い歌ですね、ジャズや黒人のブルースの特徴なんです」と声をかける。男女の反応を受けて、主人公が答える。「これは軍歌だ。ジャズなんかじゃない、悲しい悲しい兵隊の歌なんだ」。主人公は言葉では「ジャズなんかじゃない」と頑固に否定するが、車内の雰囲気は和やかだ。
この場面の演出には、戦時歌謡・軍歌とジャズをつなぐ戦無派青年たちの軽やかな感性と、それを表面的には拒もうとする戦中派の情感とが同居している。そして、両者はおそらく、岡本喜八自身のなかにも同居していたはずだ。たとえばこうした一場面にも、戦中派・岡本喜八の個性が顔を出している。
本書では、エンターテイメント性や戦中派世代の心情などを、戦争という問題領域のなかに岡本喜八の映画を配置して、分析していく。たとえば、『独立愚連隊』(一九五九年)とそのシリーズでは、戦争責任論や軍隊への批判とはほとんど無縁のようにみえる痛快な戦争娯楽が話題となった。他方で、『肉弾』(一九六八年)では、戦中派である岡本自身の体験を反芻することで戦争と個人、戦争と死者の関係を問い直し、比類のない「戦争映画」を成功させた。さらに、『激動の昭和史 沖縄決戦』(一九七一年)では、エンターテイメントとしての戦争映画の撮り方を更新している。こうした作品を念頭に、アジア・太平洋戦争を描いた映画と岡本の体験とを考察していくことになるだろう。
もっとも、岡本の映画が注目した戦争は、アジア・太平洋戦争にとどまらない。岡本は、日本の軍隊の非合理的な権威主義の源流に、天皇をいただく明治新政府の存在を感じ取っていた。したがって、岡本は戊辰戦争にまで遡って、近代日本の戦争を問い直そうとしたとも理解できるのだ。
なお、本書の執筆者五名は、これまで、文化史や思想史、歴史社会学、メディア論に基づいて戦争と社会との関係を研究してきた。したがって、映画研究として岡本喜八を論じるわけではない。戦後社会における戦中派の思想と行動や、岡本喜八が好んだアウトサイダー表象の思想史的意義、群衆の描かれ方、カットの切り替わりへのこだわりに代表される編集術などが論点になるだろう。
◆本書の構成
本書の構成は以下の通りである。
第一章の山本昭宏「映画監督・岡本喜八の誕生」は、岡本喜八の初期作品に焦点を絞っている。岡本喜八の監督昇任までの来歴を辿ったうえで、「新人監督」だった岡本が、監督としての個性を磨こうと試みていた初期作品を分析する。とりわけ、岡本自身が脚本を手がけた『独立愚連隊』シリーズに注目し、一九六〇年前後の日本社会において「戦争」と「映画」との関係がいかに理解されていたのか、その理解はどのように変わりつつあったのか、を論じている。
第二章は、福間良明による論考「「フマジメ」な抗い――喜劇へのこだわりと「正しさ」への違和感」である。福間は、『日本のいちばん長い日』『肉弾』『血と砂』を取り上げて、戦中派・岡本喜八の思想を浮き彫りにしている。戦争を語る際、戦中ならば「皇国」が、戦後であれば「反戦」が、「正しい」語り方だった。そうした規範をどこまでも相対化していこうとする精神の運動を、福間は岡本喜八の作品に読み込んでいる。
第三章、佐藤彰宣「時代劇に投影された近代日本の歪み――「余計者」にとっての「明治」と「民衆」」は、『赤毛』(一九六九年)や『吶喊』(一九七五年)などの時代劇を論じる。戊辰戦争を背景にしたこれらの作品のなかで、岡本は「民衆のエネルギー」を再発見することになるが、同時代の観客はそこに七〇年安保や過去の六〇年安保の「戦い」を感じ取った。ここには、送り手と受け手が、映画を通して民衆史的な問題意識を練り上げていくという思想の営みがある。
第四章の野上元「誰とともに何と戦う?――「内戦」を描く岡本喜八」は、「内戦」という視点から、岡本喜八のフィルモグラフィーを読み替える試みである。内戦という「戦い」の様態は、時として全体の見通しが立たず、敵と味方の配置が入れ替わってしまう。そうした内戦を、岡本は好んで描いてきた。野上の指摘はそこから一歩進んで、岡本の編集術にも「内戦的」とでも言うべき要素を見いだしている。詳しくは第四章を確認してほしい。
第五章の塚田論文は、「キハチの遺伝子」と題して、岡本喜八の思想と技術が、いかに庵野秀明に受け継がれたのかを論じている。アニメーション監督として出発した庵野秀明が、岡本喜八の映画を観ることで映画を学んだというのは、よく知られている。では、その影響の内実はどのようなものであり、「キハチの遺伝子」はどのように発展しているのか。現代的な関心が強い読者には、まずは第五章から読んでいただきたい。
以上、本書の構成を確認した。
本書はたんに回顧的に岡本喜八の作品を鑑賞するものではない。彼の作品を公開当時の時代に置き直し、その表象と主題、さらには観客たちの受容を分析することで、戦後社会の多様な側面を浮き彫りにすることを目的としている。戦争体験をめぐる精神史や、戦争映画の表象システム、さらにはそれを受け止める社会の動態を、岡本喜八に基づいて理解したい。
今こそ、やはり、岡本喜八なのではないか。
版元から一言
単なる映画評論ではありません。
執筆者は社会学者。
切り口は戦争。
喜八には、『日本でいちばん長い日』『独立愚連隊』『沖縄決戦』『肉弾』などなど、有名な戦争映画が多くあります。
庵野秀明が崇拝していることでも有名で、エヴァの使徒の波長パターン「BLOOD TYPE:BLUE」は、『ブルークリスマス』の英語タイトルからとったものです。
『シン・ゴジラ』に顔写真で登場するのも喜八です。
書名は、喜八の『近頃なぜかチャールストン』からいただきました。
直接的な戦争でなくとも、いまの状況は総力戦の銃後社会にかなり似ているのではないかと思っています。
あるいはこういうときに権力者・指導者がどう振舞うかも、喜八が描き続けてきたことです。
もちろん、戦争はいまこの国で喫緊の問題ではないだけで、世界中で常にそこにある恐怖です。
むしろ、プライオリティが高くないとされるときにこそ、権力者がどさくさ紛れに何をしでかそうとするか、注視する必要があります。
喜八は戦争映画を多く撮りましたが、銃弾の飛び交う戦闘を描く場面は意外と少ないように思います。喜八が描き続けた「戦争状態」とは、もっと日常とシームレスにつながっているようなものでした。
そのような思いを込めての、「近頃なぜか~」です。
サブタイトルは、普通なら「反戦の思想、娯楽の技法」とするかもしれませんが、編者と相談して、あえて逆に組み合わせました。
喜八は戦争中、爆撃を受けた友だちが目の前でバラバラに飛び散って死んだ経験から、すべてを喜劇的にやり過ごす視線を獲得し、その痛切かつシニカルな視点が、のちの映画制作に大きく影響します。
そして喜八は絶対的に戦争反対の立場をとりますが、とはいえ反戦思想であれ何であれ、「思想」が簡単にひっくり返る胡乱なものであることも痛感していました。
そういう喜八の本のタイトルに、「反戦の思想、娯楽の技法」は素直すぎます。
喜八には愚直で生硬な「反戦思想」など面映ゆかったのかもしれません。
心の底で感じている真剣な思いを、どうやったら多くの人に伝えることができるか。
喜八はあえて娯楽を思想として掲げて、徹底的に面白いものを作り、そのなかに反戦を潜り込ませる技術を磨いたような気がしています。
上記内容は本書刊行時のものです。