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イエスは戦争について何を教えたか ロナルド・J・サイダー(著) - あおぞら書房
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イエスは戦争について何を教えたか (イエスワセンソウニツイテナニヲオシエタカ) 暴力の時代に敵を愛するということ (ボウリョクノジダイニテキヲアイスルトイウコト)
原書: IF JESUS IS LORD: Loving Our Enemies in an Age of Violence

哲学・宗教
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四六判
縦188mm 横130mm 厚さ27mm
重さ 440g
402ページ
並製
定価 2,600円+税
ISBN
978-4-909040-04-6   COPY
ISBN 13
9784909040046   COPY
ISBN 10h
4-909040-04-8   COPY
ISBN 10
4909040048   COPY
出版者記号
909040   COPY
Cコード
C0016  
0:一般 0:単行本 16:キリスト教
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2021年5月15日
書店発売日
登録日
2020年9月19日
最終更新日
2022年7月7日
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紹介

暴力に満ちた世界で、「敵を愛せ」というイエスの教えに従って正義と平和をめざすのは非現実的に思える。隣人が苦しめられているのを黙って見ているのは不道徳であり、それこそ愛のない行為ではないのか。平和主義にはそんな批判が突きつけられる。だが、それはイエスが説いた平和主義なのだろうか。

人間はなぜ殺しあうのか? 宗教こそが戦争の原因ではないのか? キリスト教は戦争をどう考えているのか? 国家に従えと教えているのか? 平和主義で国が守れるのか? 犯罪は防げるのか? 本書はこうした問いに正面から挑む。

キリスト教と戦争の問題を考える上ではずせない論点を、本書は幅広くカバーしている。律法と預言者、残酷な旧約の神、ユダヤの軍事的メシア待望と暴力的抵抗、最初期の教会の実践、教父たちの主張、ローマ軍とクリスチャン兵士、黙示録、宗教改革者たちの思想、教会と国家、キリスト教と戦争の歴史、平和主義と正戦論……そしてそれらすべてを読み解く鍵としてのイエスの生と死。

行動する福音派神学者ロナルド・J・サイダーが、正義と平和を追求した人生の集大成として著した一冊。IF JESUS IS LORD: Loving Our Enemies in an Age of Violenceの全訳。

[目次]
序章 イエスは殺してはならないと教えたのか
第1章 イエスが告げた「良き知らせ」とは
第2章 イエスの行動が教えていること
第3章 山上の説教でイエスが語ったこと
第4章 暴力を拒否したイエス
第5章 最初期の教会におけるキリストの平和
第6章 聖書は暴力を肯定しているのか
第7章 平和主義の神学的基礎
第8章 平和主義に対する批判
第9章 正戦論に対する批判
第10章 旧約聖書の神とイエス
第11章 平和主義で戦争と犯罪を防げるか
第12章 キリストの死と非暴力
第13章 教会と戦争の歴史
終章 イエスを主とするなら
解説 キリスト教と戦争について
事項・人名・聖書箇所・ギリシャ語さくいん

目次

序章 イエスは殺してはならないと教えたのか
第1章 イエスが告げた「良き知らせ」とは
第2章 イエスの行動が教えていること
第3章 山上の説教でイエスが語ったこと
第4章 暴力を拒否したイエス
第5章 最初期の教会におけるキリストの平和
第6章 聖書は暴力を肯定しているのか
第7章 平和主義の神学的基礎
第8章 平和主義に対する批判
第9章 正戦論に対する批判
第10章 旧約聖書の神とイエス
第11章 平和主義で戦争と犯罪を防げるか
第12章 キリストの死と非暴力
第13章 教会と戦争の歴史
終章 イエスを主とするなら
解説 キリスト教と戦争について
事項・人名・聖書箇所・ギリシャ語さくいん

前書きなど

序章 イエスは「殺すな」と教えたのか

知識においても心情においても、私は正戦論(just war theory)の良き伝統を理解し、価値を認めている。
歴史をふり返れば、何百万何千万もの罪なき人びとを悲惨な境遇に追いやった暴虐の徒や、冷酷な独裁者は枚挙にいとまがない――たとえばヒトラー、スターリン、ポルポト、ISIS[いわゆるイスラム国]などの名前が思い浮かぶ。残虐や破壊を目の当たりにして、思慮深く情けもあるクリスチャンが(もちろんクリスチャンに限らないが)、そんな暴虐をやめさせる現実的手段は武力で彼らを抹殺するしかない、という決断を繰り返してきた。その立場からは、巨悪を前にしながら、「イエスに従う者は敵を愛し、殺してはならない」と説く平和主義(pacifism)は愚かで単純で非現実的に見える。
それどころか、根本的に不道徳とさえ思える。隣人を愛すると言いながら、隣人を危害から守るという基本的な道徳的責任を放棄しているように見える。隣人が殺されようとしているのに、何もせず黙って見ているのは、無責任であり不道徳ではないのか。
C・S・ルイスがその点を明瞭に述べている。「殺人鬼がだれかを殺そうとしているのを、あなたが目撃したとしよう。脇に身を隠して殺人が終わるまで手出しせずにいなさい、とイエスが言っているなどと考える人がいるだろうか」。正戦を擁護するクリスチャンは、平和主義者には迫害されている隣人への愛がないと告発している。平和主義者は歴史の責任を負おうとしない、という非難も聞こえてくる。正義より独裁者の側に立っているとさえ言わんばかりだ。
隣人を守るためにできることが、殺すか、何もせず黙って見ているか、二つに一つしかないのなら、正戦を支持するクリスチャンの主張は正しいと私も考える。もしそうなら、忠実なクリスチャンは敵を殺してでも隣人を救うべきだし、ルイスも間違いなく正しい―イエスは、私たちが隣人を見捨て、残虐な行為の犠牲になるのを黙って見ていることなど望まないだろう。

だが、平和主義を批判する議論には問題がある。選択肢は決して二つだけではないのだ。いつどんな場合でも、殺すのでもなく、黙認するのでもない、第三の選択肢がある。抑圧者に非暴力の手段で抵抗し、暴虐を食い止めるという選択肢である。非暴力で悪に抵抗することは、夢物語でもなければ、実効性のない無駄な行動でもない。
過去100年(特にここ50年)、不正や圧政、残忍な独裁に対する非暴力の抵抗は、何度もめざましい成功を収めている。ガンジーの非暴力行動は大英帝国を屈服させた。キング牧師の市民権運動は米国の歴史を変えた。ポーランドでは「連帯」の非暴力の抵抗が共産主義独裁を打倒した。フィリピンでは、100万人の非暴力デモが凶悪な独裁者フェルディナンド・マルコス大統領に勝利した。
1900年から2006年にかけて発生した主要な反乱(知られている範囲で323件)――武装反乱と非武装反乱の両方を含む――を調べた結果、驚くべき事実が判明した。「非暴力抵抗は、暴力的抵抗の2倍の確率で、完全または部分的な成功を収めている」という事実である。
独裁や残虐行為に直面したとき、選択肢が二つしかない――殺すか黙認か――というのは歴史の事実に反する。安全な場所に逃げ込んで悪に抵抗せずにいるのは臆病で、無責任で、不道徳であって、隣人を愛せというイエスの命令に反する、という主張に私は同意する。しかし、常に第三の選択肢があることを歴史が証明している。積極的な非暴力抵抗という選択肢だ。しかも、それは成功する確率が高い。暴力的手段による抵抗より高い確率で成功を収めることが、すでに判明しているのである。
もちろん、常に成功するわけではない。ときには――少なくとも短期的には――非暴力行動は失敗することがある。では、そのときクリスチャンはどう行動すればよいのか? それがこの本の中心的な問いだ。イエスは弟子たちに、悪に抵抗し平和と正義を促進するためなら敵を殺せ、と望んだのだろうか? 敵を愛せというイエスの命令は、殺してはならないという意味だったのだろうか?

現代のクリスチャンはイエスの教えに縛られる必要はないし、縛られるべきでもない、と主張する多くの議論があり、それについてはあとで詳しく検討する。だが、イエスが真の人であり同時に真の神であるなら、イエスが私たちの罪のために死に、私たちを生かすために人となられたのなら、イエスが自らをメシア[救世主]だと主張したのなら、イエスの福音[よき知らせ]の中心が赦しと平和が支配するメシアの国が弟子たちの共同体において歴史的事実となったという知らせにあるのなら、復活の主と聖霊の力によって弟子たちがイエスの王国の規範に従って生きることができるようになったのであれば、そして、これらが新約聖書の教えであるのなら(そうであることを本書で論じる)、人を殺すことについてのイエスの教えを無視するのは神学的に重大な錯誤である。
イエスとはだれかについて、歴史的正統性のある教えを受け入れるクリスチャンにとって、本書のテーマである「暴力」に関する最も重要な問いは次の問いだ――イエスは弟子たちに、どんなときでも例外なく殺してはならないと教えたのか? この本で私はその問いに答える。

詳細な議論に入る前に、まず、「強制」(coercion)と「暴力」(violence)という言葉を定義しておく必要がある。本書では、他者に何らかの行動を取らせるために影響力を行使することを「強制」と呼ぶことにする。正当な強制は、隣人を愛せというイエスの呼びかけに反することなく他者に影響を与える行為である(あとで論じるが、殺すことはこれに含まれない)。一方、「暴力」とは、相手に危害を加えることを目的とするあらゆる行為のことで、それには殺すことも含まれる。
人間は社会的存在なので、なにがしかの強制は避けられない。子を愛する親のしつけには心理的強制がともなう。愛をもって信者を指導する教会の行為にも、生徒に宿題の締め切りを守らせようとする教師の行為にも、何らかの強制がともなう。人間がコミュニティを形成して生きる社会的存在である以上、心理的強制は避けることができない。「強制は社会生活の本質的な一要素である」。強制は他者に対する力の行使を常にともなう。デュエイン・フリーセンは、そうした力の行使が道徳的な強制であるか不道徳な暴力であるかを判定するのに役立ついくつかの問いを列挙している。「人間関係において、まったく強制のない状態を理想とする」ことは間違っている。
経済制裁やボイコットは強制である。走る車の前に飛びだしかけた子どもを押しとどめるのも、高い橋の上から身投げしようとしている取り乱した人を思いとどまらせるのも強制だ。そのような強制は、相手にとっての最善を求める行為であり、将来別の選択をする自由を残すものであり、他者を愛するという教えに何ら抵触しない。だが殺すことは、愛に基づく行為ではなく、相手を守る行為でもなく、別の選択をうながす身体的拘束とも根本的に異なる。殺してしまえばその人が良い方向に変わる可能性は金輪際なくなってしまうからである。
暴力には、心理的な暴力、命までは奪わないが身体的な暴力、そして命を奪う暴力がある。人の尊厳や自尊心を傷つける行為、そしてそれを意図した行為は暴力である。身体や財産を傷つける行為や、それを意図した行為も暴力だ。精神を病んだ人を一時的に拘束したり、不公正な企業に対して不買運動を行うことは、身体や財産に損害を与えるとしても暴力ではない。だれも殺さないし、状況の改善を目的としているからである。

人になんらかの危害や損害を与えた行為が、道徳に反さない強制なのか不道徳な暴力なのかを判断するうえで、動機が重要な鍵を握っている。相手に対する愛と幸福を願う気持ちから出た行為であって、将来もっと良い別の選択をする自由を残すものであれば、強制は暴力ではない。
だが、身体的危害や経済的損失がわずかであっても、相手の幸福を促進するのが目的ではなく、危害や損失を加えることそのもののために行われるなら、それは暴力である(経済制裁やボイコットの場合は、対象とする個人や企業や国に対する影響だけでなく、それらに抑圧されている多数の人びとに及ぶ間接的影響も含めて道徳性を判断しなくてはならない)。
強制は、心理的・身体的・経済的のいずれであっても、すべての人の境遇改善を意図したものであって、結果としても改善を促し、だれも殺さないのであれば、道徳的に適切な行為と言える。他方、暴力は、心理的・身体的・経済的のいずれであっても、間違った行為である。なぜなら、愛から出た行為ではなく、相手の状況を良くするものでもないからだ。人を殺すことは例外なく暴力である。

定義を明確にしておきたい言葉がもう一つある。私は自分の立場を「平和主義」という言葉で表明している。だがそれは、悪と不公正に対して受け身でいることではなく、ましてや無抵抗のことではない。私が支持する聖書の平和主義は、悪に対して非暴力の手段で抵抗することをただ容認するだけでなく、そのような抵抗のために立ち上がれと命じるものである。

版元から一言

日本では「福音派」と聞くと、たとえばトランプ元大統領を支持する人びとのような、信仰も政治も保守的な(しばしば過激な)右派を連想しますが、本書の著者は、保守的な信仰を貫くいているからこそ政治や経済については左派的な主張と行動を続けています。

1973年、30代半ばであった著者は、約40名の福音主義者とともにシカゴに集い、「社会問題を憂慮する福音派キリスト者のシカゴ宣言」を発表します。それが翌年の世界的な「ローザンヌ誓約」へとつながり、キリスト教信仰が個人の道徳世界から社会問題へと踏み出す大きな起点となりました。それ以後、著者は生涯一貫して、社会的責任を担って歩む隊列の最前列を歩み、福音派という枠を超えてキリスト者のネットワークの中心にあり続けています。

本書の訳者の御立氏は、30年ほど前にフィラデルフィアのサイダー家を訪問した際、サイダー博士と息子さん娘さんと一緒に、近所の老人ホームを慰問したことがあります。あえて貧しい人びとが多く住むインナーシティに居を構え、質素な暮らしを実践する一家の姿が印象深かったといいます。本書の内容とは関係ありませんが、『四次元主義の哲学』(春秋社)の著者セオドア・サイダーは著者ロナルド・J・サイダーの息子さんです。老人ホームを一緒に訪問したのが若き日の哲学者だったのか、もう一人の息子さんだったのかは、残念ながら記憶にないそうです。

著者プロフィール

ロナルド・J・サイダー  (ロナルド ジェイ サイダー)  (

[著者]ロナルド・J・サイダー(Ronald J. Sider)
1939年生まれ。神学者。社会活動家。イェール大学で修士号(神学)、博士号(歴史学)を取得。パーマー神学校(旧イースタン・バプテスト神学校)で40年以上にわたり神学、ホリスティック・ミニストリー、公共政策を講じた。
人種差別、軍国主義、経済至上主義、社会的不平等、性差別などの克服を訴えた1973年の「シカゴ宣言」(社会問題を憂慮する福音派キリスト者のシカゴ宣言)では中心的な役割を果たした。以来、社会正義を追求するキリスト者の運動を思想と実践の両面で支え続けている。
著書多数。代表作『聖書の経済学』(Rich Christians in an Age of Hunger)(邦訳あおぞら書房)は、クリスチャニテイ・トゥデイ誌によって「20世紀で最も影響力のあったキリスト教書100選」、「社会正義を説くキリスト教書ベスト5」に選ばれている。
現在、クリスチャニティ・トゥデイ誌客員編集委員。米国フィラデルフィア在住。

後藤 敏夫  (ゴトウ トシオ)  (解説

[解説]後藤敏夫(ごとう・としお)
聖書神学舎卒業。麻溝台キリスト教会、大韓イエス東京福音教会協力牧師、キリスト教朝顔教会牧師などを経て、現在、日本キリスト召団・惠泉四街道教会(千葉県)牧師。著書に『終末を生きる神の民』『神の秘められた計画』(以上、いのちのことば社)、訳書にヘンリ・ナウエン『イエスの御名で』、ハワード・A・スナイダー『神の国を生きよ』(以上、あめんどう)、ジム・ウォリス『よみがえれ、平和よ!』(新教出版、共訳)などがある。

御立 英史  (ミタチ エイジ)  (

[翻訳]御立英史(みたち・えいじ)
翻訳者。編集者。訳書にロナルド・J・サイダー『聖書の経済学』(あおぞら書房)、ヨハン・ガルトゥング『日本人のための平和論』、デイビッド・ローワン『DISRUPTERS 反逆の戦略者』(以上、ダイヤモンド社)などがある。

上記内容は本書刊行時のものです。