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教育の起源を探る
進化と文化の視点から
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2023年2月28日
- 書店発売日
- 2023年3月24日
- 登録日
- 2023年1月16日
- 最終更新日
- 2023年3月23日
紹介
なぜヒトは「教える/教わる」のか?
教育の起源を進化と文化の両視点から解きほぐし,ヒトとは何かという根源的な問いに迫る。
執筆:亀井伸孝,小田亮,園田浩司,橋彌和秀,中尾央,安藤寿康,中田星矢・竹澤正哲,明和政子,高田明,長谷川眞理子
目次
第1章 「教育は進化か文化か」を問う際の基本認識――ヒトにおける能力の「転用」の歴史を見据えて
第2章 ニッチ構築としての教育
第3章 狩猟採集民は教えているか――「教示の不在」という観点から
第4章 「教える」と「教わる」のあいだ――その進化的/発達的起源
第5章 教育の進化――ナチュラル・ペダゴジー理論の検討を中心に
第6章 教育はヒトの生物学的生存戦略である
第7章 教育と累積的文化進化――計算論モデルによるマイクロ―マクロ・ダイナミクスの検討
第8章 脳と心の発達と教育――母子関係から見るヒトの教育の本質とその生物学的基盤
第9章 教育・学習の基盤としての進化と文化
第10章 教育の進化を考える
前書きなど
本書は教育という営みのそもそもの由来を、進化生物学と文化人類学から科学的に問い直そうとする試みである。
これはもともと二〇一八年に慶應義塾大学で開催された第六〇回日本教育心理学会総会で企画された「教育の生物学的基盤―進化か文化か」と題するシンポジウムをもとに、当日の企画・司会者(安藤寿康)、話題提供者(亀井伸孝、橋彌和秀、中尾央、明和政子)、指定討論者(高田明、長谷川眞理子)の寄稿に加え、さらにそのシンポジウムにはお声がけできなかったが、このテーマを深めるうえで重要な話題を提供する研究者(園田浩司、中田星矢・竹澤正哲、小田亮:各氏敬称略)からの寄稿三章を追加して構成されたものである。
そのシンポジウムは、もともとは教育には進化的な根拠があると強く考えていた企画者が、その仮想敵として、教育は西欧化され(Western)、教育の行き届いた(Educated)、高度に産業化され(Industrialized)、豊かで(Rich)、民主的な(Democratic)、人類史的に見れば「おかしな(WEIRD)」社会の産物だと主張する文化人類学の見解と、直接、論争を交えてみたいと考え、企画したものであった。
教育の生物学的基盤を考えるとはいったい何のためなのか? 教育といったら舞台はまず学校である。学校は人間が歴史を通じて蓄積した文化的知識を次世代の子どもたちに伝え、一人ひとりの個性を発揮し自己実現させながら、社会で一人前に生きていけるように、そして社会を発展させられるように、学習をさせるところという建前のもとで、テストでいい点をとり、よい成績をあげ、いい学校に進学することのために頑張るところ、あるいは部活やボランティアなど家ではできないようないろいろなことをさせてくれるところ、友情や恋愛の芽生えるところ、そしてその隙間にスクールカースト、いじめ、不登校、校内暴力のような深い闇が生まれるところ、などなど、である。これほど複雑な文化的営みのどこに、生物学的に考えることのできそうな出来事があるというのか。
いや、教育が学校を中心とした営みであることが自明視され、かくのごとく複雑であるからこそ、なぜ教育がこのような問題のある場所になってしまったのか、そのそもそもの由来を考える必要が出てくる。そのために教育学はこれまでもさまざまな思想や理論を考案してきた。そしてそれは教育がますます複雑で難解な問題の巣窟であることを皮肉にも露呈させることに手を貸すことになった。
その混迷を整理するために、教育の生物学的な由来と人類史的な由来まで遡って問う切り口を、進化生物学と文化人類学に求めることになった。もとはといえば「進化か文化か」という単純な二項対立でこの問題に挑んでいた企画者の目論見が、やはり軽率にすぎず、その両面から検討する必要のあることが、第1章の亀井氏の論考から早くも指摘される。亀井氏は企画者の安藤が教育の進化的起源を求めたとき、アフリカの狩猟採集民バカ・ピグミーの文化へといざなってくれたお先達であり、教育という長い歴史的文化の蓄積に由来する営みを単純に進化的還元することに警鐘を鳴らしている。
それでは教育に進化的起源を求めることは荒唐無稽な試みなのか。それに対して第2章において、比較行動学の小田氏は、教育が利他行動でありニッチ構築のためのストラテジーと位置づけることで、教育のもつ重要な生物学的機能に焦点を当てる。一方、教育が我々WEIRDな社会で慣れ親しんだ学校的営みになる以前の、教育とすら意識されない狩猟採集民の大人と子どもの自然なコミュニケーションの姿に教育の起源を描く第3章の園田氏の綿密なフィールド調査研究に、まさに文化と進化の接点を垣間見させてくれる。
ここで浮かび上がってくるのは教育において自明とされる「教える/教わる」という関係がそもそもどのように個体発生(発達)の中で発現してくるかという問題であり、それは第4章で橋彌氏によって紹介される幼児の実験的研究によって、進化的起源まで射程に入れて論考される。この問題がとくに際立って議論の的になるのは、この章でも紹介されるハンガリーのゲルゲリー・チブラとジョルジ・ゲルゲリーのナチュラル・ペダゴジー(Natural Pedagogy)である。チブラらはまだ一歳にも満たない乳児が、大人が明示的に自分に向けられた独特の視線や表情のシグナルを手がかりに、普遍性のある知識を学ぶこと、つまり「他者から教わる」能力があることを巧妙な実験によって実証し、それをナチュラル・ペダゴジーと呼んだ。ナチュラル・ペダゴジー理論は、同じく教育の発生を含む乳幼児の利他行動に関して一連の優れた実証研究からヒトの心的活動の特性を進化的な視点から鋭く描き、本書でもたびたび言及されるマイケル・トマセロとともに、本書のテーマを考えるうえで重要な考察材料を提供してくれている。
なおこのナチュラル・ペダゴジーは「天賦の教育」「生得的教育学」などの訳語があてられることもあるが、本書では原則として「ナチュラル・ペダゴジー」とした。この「ナチュラル・ペダゴジー」理論の妥当性に関して、明示的シグナルが必ずしも子どもの学習のための必要条件とはいえないとする詳細な反証を行うのが第5章の中尾氏の論考である。その妥当性の評価は読者自身が、本書を通じてみずから検討してほしい。
教育の起源は進化的なものか文化的なものかという素朴な二項対立の図式は、このようにその背後にたんに教育の起源への問いだけでなく、そもそも人間(ヒト)とは何かという根源的な問いに迫る手がかりとなる。それがそのシンポジウムを企画し、本書を編むことになった企画者として感じることのできる知的醍醐味である。ここでヒトをヒトたらしめる本質の一つにまさに教育があるとして、「ヒトは教育的動物である」という仮説(ホモ・エデュカンス仮説)を唱える第6章の企画者・安藤の論考を紹介する。
教育に対する生物学的な視点からの新たなアプローチとして、これを累積的文化進化の視点から数理モデルによって説明する第7章の中田・竹澤氏の論考は、教育は進化か文化かという二項対立を乗り越える具体的で明確な理論的ビジョンを提供している。また第8章で明和氏は、チンパンジーとの比較においてヒトが生得的に他者から学ぼうとする存在であること、また他者に教えたがる存在であることの脳神経学的基盤に関する近年の目覚しい発展から得られた知見を踏まえた豊かな考察を与えている。
本書の最後の二章は、シンポジウム当日に文化と進化のそれぞれの視点から指定討論を依頼した二氏の包括的総論、すなわち第9章の高田氏による文化人類学からの論考と第10章の長谷川氏の進化生物学からの論考を紹介する。
このように本書は「教育の起源は進化か文化か」という企画者の稚拙な問題提起に対して、教育と、教育を行う人間・ヒトの本質に迫るきわめて科学的・実証的な論考を、それぞれの分野で日本を代表する碩学諸氏から提供していただくことができ、心から感謝している。これはとりもなおさず、教育というヒトの営みが、学校の中で繰り広げられている、ありきたりな、悲喜こもごもの日常的光景の背後に、人間そのものを問い直す学際的なテーマがあることを意味している。そしてそれはたんに学術的・知的な興味にとどまらず、ともすればよい成績のために教師も生徒もともにあくせくし、その閉塞的な状況の中で生ずるさまざまな問題に翻弄されがちな教育現場で日々奮闘せねばならない我々すべてにとって、その近視眼的視点を一度脇において、そもそも我々はなぜ教育を営むのか、教育をしなければならないのかに立ち返って考え直すきっかけを与えてくれるに違いない。
版元から一言
「教育」と聞くと、学校での教育を想像するかもしれません。本書では、なぜヒトは「教える/教わる」のか、といった教育のそもそもの由来を科学的に問うことを目的としています。教育の起源を進化と文化の両視点から解きほぐし、ヒトとは何かという根源的な問いに迫ります。
上記内容は本書刊行時のものです。