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昭和歌謡替え歌77選
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2016年12月
- 書店発売日
- 2016年12月21日
- 登録日
- 2016年11月16日
- 最終更新日
- 2017年1月12日
紹介
77回抱腹まちがいなし!静かなブーム、「昭和歌謡」を「替え歌」にして楽しむ全く新しい視点からの歌謡本。
懐かしの昭和歌謡の的確な論評・豆知識も満載。
新たなジャンルの可能性を拓く。
替え歌一例(加山雄三『君といつまでも』の替え歌「鉄の爪」冒頭部分)
みぎてをー こーめかみにー
きーつくー くーいこませてー
リストをー きーかせーてー
キリキリーと 締め上げーる
本書、替え歌のススメ中、韻をそろえる技術説明より。
目次
【収録元歌】潮来笠/高校三年生/骨まで愛して/また逢う日まで/わたしの城下町/瀬戸の花嫁/遠くへ行きたいよこはま・たそがれ/星娘/星のフラメンコ/経験/有楽町で逢いましょう/矢切の渡し/北酒場/君といつまでも/再会/愛のさざなみ/アンコ椿は恋の花/花はおそかった/あずさ2号/シクラメンのかほり/男と女のお話/およげ!たいやきくん/与作/勝手にしやがれ/ブルー・ライト・ヨコハマ/天城越え/2億4千万の瞳―エキゾチック・ジャパン―/男の子女の子/私鉄沿線/YOUNG MAN17才/ひなげしの花/せんせい/涙の太陽/星降る街角/北国の春/君の瞳は10000ボルト/星影のワルツ/白い蝶のサンバ/いつでも夢を/柔/こまっちゃうナ/あなたのブルース/港町ブルース/心のこり/昔の名前で出ています/兄弟船/お富さん/別れの一本杉/函館の女/二人でお酒を/小指の思い出/恋の季節/喝采/小樽のひとよ/風が泣いている/王将/受験生ブルース/自動車ショー歌/どうにもとまらない/コーヒーショップで/舟唄/UFO/カナダからの手紙/世界の国からこんにちは/コモエスタ赤坂/真赤な太陽/天使の誘惑/わたしの彼は左きき/ひと夏の経験/なみだの操/バス・ストップ/雨/終着駅/うそ/古城/イエスタデー/イマジン/ヘイ・ジュード
前書きなど
はじめに
「替え歌のススメ」
私は今年で六十歳になるけれど、NHK教育テレビ(Eテレ)の子供向けテレビ番組を毎日何時間も見ている。なぜなら長男がまだ四歳の保育園児で、かまってやれないときなどには、面倒くさいのでテレビをつけっぱなしにしているからである。
しかし番組制作者の中には面白いセンスを持った人がいるらしく、大人でも楽しめる歌に出会い、思わずニヤリとすることがある。
最近楽しめたのは、「0655(ゼロロクゴーゴー)」という朝の番組の中で流れている歌謡曲風、それもご当地ソング風の歌で、人気があるらしくシリーズ化もされている。
歌っているのはムードコーラスグループのロス・プリモス(!)。
いかにもムードコーラス風に作られたメロディーと編曲に乗せて、高円寺、豊橋、宝塚などを舞台にした、主人公の失恋と地理・歴史の学習が一体となった、よくこなれた歌詞が展開される。流れる映像もまるでカラオケの再現ドラマ風である。
ロス・プリモスの歌声は夜の盛り場向きで、けっして学校に行く前の子供向きとはいえない。たちまち、カラオケスナックかグランド・キャバレーにでもいるかのような錯覚をおぼえてしまう。
ところがどうだろう。大人たちばかりでなく、保育園児の長男まで画面に見入って楽しんでいるではないか。息子の自慢話をするつもりはないけれど、何回か聞くうちに「ほんとにあるのね…」というサビの部分など、すっかり覚えてしまったほどである。
そんな姿を見て、私は二つのことを考えた。
一つは、昭和の時代に花開いた歌謡曲の持つ「力」である。
子供向け番組にあふれるデジタル音や騒々しい演出とは正反対の、わかりやすい歌詞と抑えた歌声のなんと新鮮に響くことか。新鮮なだけではなく、一瞬にして聞く者の耳と心をとらえる、力強さも持ち合わせているように感じられる。
そもそも「歌謡曲」とは何なのだろう。
私なりに定義づけてみるとすれば、それは「16ビートの気ぜわしいリズムではなく、8ビートまたは4ビートのリズムを基調としたメロディーに、省略の効いた歌詞を乗せた大衆音楽」ということになる。
歌詞について補足するなら、日本語で歌詞をつくる場合、外国語に比べて不利とされる入れられる文字数の少なさや、五つだけの単純な母音は、歌謡曲にとっては長所でもあり、武器にもなりうる。簡潔で力強い歌謡曲の歌詞は、パチンコ屋の店内でも雑踏の中でも耳に突きささり、それこそ四歳の幼児の記憶にも残るのである。
二つ目に考えたのは、そのロス・プリモスが歌う歌の作法が、こちらが続けてきた替え歌の作法にわりと近いのではないかということだ。
パロディーという言葉が適切かどうかわからないけれども、少なくともその歌を制作した人たちは、「可笑(※ルビ・おか)しさ」というものを十分意識していたはずである。
昭和四十年代に流行したムードコーラス風のメロディーと編曲に乗せて、主人公の失恋という歌謡曲的な要素だけでなく、地理や歴史の学習という全く違う要素を盛り込み、朝の番組としては異質なロス・プリモスに普段どおりに歌ってもらう。そこで生まれる可笑しさこそ、この歌の目的だったと考えるのがむしろ自然だろう。
筆者が試みてきた替え歌の作法も似たようなもので、ヒット曲の秀逸なメロディーを拝借し、元歌の歌詞を「きっかけ」にして、あとは自由気ままに詞を乗せていく。重要なのは、それによって可笑しさを醸し出すことができるかどうかだった。
替え歌を作り始めたそもそもの動機は、趣味で続けている作詞のトレーニングのためであった。替え歌とはいえ、完成させるまでの過程は通常の作詞と同じだから、韻を踏んだり、一番から三番までの展開を考えたり、格好のトレーニングになるわけである。
しかしいくつか作るうちに、それとは別に心の中であることを思うようになっていった。何かといえば、替え歌というものに表現の手段、表現のツールとしての可能性を感じ始めたのである。
ナンセンスな駄ジャレを楽しむもよし、日常生活の機微を描くもよし、若き日を回想するもよし。またときには、世の中で起きている様々な出来事に対して意見を述べたり、庶民の立場から苦言を呈してみるのも面白い。何に近いかといえば、やはり「川柳」だろうか。
加えて替え歌の面白さは、その気になれば自分で歌うこともできるし(笑い)、人に聞かせることもできるという点にある。
替え歌といえども、一番だけならまだしも二番三番まで作るには根気がいるし、テクニックも必要になってくる。しかしそれだからこそ、完成した時の喜びや満足感は格別といえる。なお、替え歌イコール春歌というイメージを払拭するためにも、エロがかったテーマや品のないテーマはできるだけ避けたいものである。そのうえで、スタンダードとして長く愛されるような替え歌が生まれたらと思う──。
さて、ここからは替え歌の作り方についてである。通常の作詞と共通する部分が多く、いくらか専門的になってしまうかもしれないけれども、少しでも参考になれば幸いである。
まず言えるのは、失敗をおそれるなということだろうか。一行でも一語でも、手掛かりになるような言葉が浮かんだら、すぐに作り始めるといい。作り始めたところで「これはあまりにもひどい、稚拙だ、情けない…」などと感じても、やめずに最後まで、とにかく作り切ってしまうことが肝心である。それも時間をかけずに一気に作ってしまったほうがいい。
とにもかくにも、最初の一作目を完成させることが大事である。一つできてしまえば、二つ、三つ…と、あとはいくらでもできてしまうものなのだ。
次はテクニックについて。まずは最も重要な、「韻」についてである。いわゆる「韻を踏む」とは、具体的に何を指すのだろう。
さきほども少し触れたように、日本語には五つの母音がある。
すなわち「あ」「い」「う」「え」「お」の五つである。
「あ」の母音のグループには「あ」「か」「さ」「た」「な」「は」「ま」「や」「ら」「わ」の各文字が属しており、同じように「い」の母音のグループには「い」「き」「し」「ち」「に」「ひ」「み」「り」の文字が属している。同様に「う」「え」「お」の母音のグループにも、それそれに属する文字がある。
韻には言葉の最初の音を意識する「頭韻」や、語尾を意識する「脚韻」などがあるが、日本語の場合、外国語とは違い基本的に頭韻だけ意識すればいい。
いちばん簡単なのは、言葉の最初の音を同じ母音で揃えてしまうことである。
例をあげてみよう。加山雄三が歌った『君といつまでも』を替え歌にした、「鉄の爪」というプロレスをテーマとする替え歌である。ともあれ冒頭の四行を読んでいただきたい。
右手を こめかみに
きつく 食い込ませて
リストを 利かせて
キリキリと 締め上げる
「右手」「きつく」「リスト」「利かせて」「キリキリ」「締め上げる」が、いずれも「い」の母音で始まることがわかると思う。言ってみれば、音韻的には、い行を意識した「い行の歌」である。ちなみに『君といつまでも』の冒頭四行には、「二人」「夕闇」「包む」「すばらしい」「くるだろう」と、「う」の母音で始まる言葉が多く使われている。
なんだその程度のことか、と拍子抜けされてしまいそうだけれど、実際のところ「韻を踏む」とは、この程度のことなのである。
もっとも「鉄の爪」は極端な例であって、ここまで執念深く母音を揃える必要は全くない。同じ母音で始まる言葉を二つ続けるだけでもいい。とにかく「母音を意識して言葉を選べ」ということである。同じ母音がくりかえされることによってリズムが生まれてくるものだし、韻にこだわればこだわるほど「昭和歌謡」っぽくなってくるのが面白い。
母音を意識するということは、それだけ使える言葉が少なくなり、限定されてくるということでもある。そしてそれは意外にも、詞を作るうえでプラスにはたらいてくれる。なぜなら、無限にある言葉の中から、次に必要な一語を選び出すきっかけになってくれるからである。
プロの作詞家が膨大な数の作品を難なくこなし、形にできるのは、こうして母音を意識しながら仕事をしているから、と私は考えている。
もっともプロになるような作詞家の方々だったら、韻が踏まれている上にリズムのいい言葉を無意識のうちに選び出す能力を備えているはずで、それが「才能」という得体の知れないものの正体のような気もするのだが、悲観する必要はない。なぜなら努力と積み重ねでなんとかなることは、こちらがすでに試験済み、体験済みだからである。
ストーリー展開についても、定石といえるテクニックがあるので、おせっかいついでに少しだけ触れてみよう。
もちろん人それぞれ全く自由でかまわないが、ひとつアドバイスするとすれば、たとえば一番から三番まで作る場合、一番ではこれから始まる歌がどのような内容の話なのか、状況を大まかに示すことを心がけるといい。そして二番はより大胆に、三番では「まとめ」を意識する。
いつもいつも縛られる必要はないけれども、意識することによってひとりよがりな、アマチュア的な詞になってしまうのを避ける効果がある。そういう目でヒット曲の歌詞をながめてみると、どんなに個性的な作品であっても、案外この原則が守られていることに気付かされるものだ。
最後に──。
この本がきっかけとなって替え歌作りを楽しむ人が増えていき、サラリーマン川柳やシルバー川柳がそうだったように、大きなうねりになっていったら面白い。
もちろん読んで楽しんでいただくだけでも結構だし、カラオケボックスに本書を持ち込み、替え歌の「可笑しさ」を仲間の皆様と分かち合えていただけたら、それはそれで私にとって本望である。
平成二十八年十一月 木村 聡
版元から一言
今までにない昭和歌謡の楽しみ方を提案する画期的な本。とにかく笑えます。(帰宅途中ゲラを読んだ編集者は吹きすぎて、途中で読むのを諦めました)歌謡史、サブカル本としてお楽しみください。
上記内容は本書刊行時のものです。