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「織部好み」の謎を解く 小山 亘(著) - 忘羊社
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「織部好み」の謎を解く

発行:忘羊社
四六判
縦194mm 横134mm 厚さ26mm
重さ 300g
264ページ
上製
定価 2,300円+税
ISBN
978-4-907902-03-2
Cコード
C0070
一般 単行本 芸術総記
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2014年9月
書店発売日
登録日
2016年3月20日
最終更新日
2016年3月20日
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紹介

発掘からわかった“ヘウケモノ”の真実。福岡藩祖・黒田官兵衛とその子長政が築いた高取焼の古窯・内ヶ磯窯。未曾有の規模を誇ったこの登窯から、稀代の茶人・古田織部好みの歪んだ茶陶が大量に出土した。朝鮮渡来の技法にないはずの技術、覆される定説…。陶芸史の最高峰に立つ伝説の職人達の姿を浮き彫りにする労作。

目次

序 章 古高取との出会い
 古高取の衝撃
 先達との出逢い
第一章 織部の隠し窯
 高取焼の誕生
 内ヶ磯窯と京三条「せとものや町」
 高取焼研究小史
 覆された通説 
 美濃、唐津、上野の古窯と相似
 「李朝風雑器」の宅間窯、「和風茶陶」の内ヶ磯窯
 楽山先生の遺言
 長時間焼成の窯
 朝鮮陶工と高取の釉薬
 八蔵親子の蟄居と空白期の謎
 高取に下った陶工
第二章 共振する〝至芸〟
 初窯土産
 初窯で焼かれた水指と壺
 古唐津のような古高取
 籾殻痕と窯変
 〝焼き損ない〟の名品
 「唐津もの」
 窯の成り立ちと〝窯糞〟
 美濃、伊賀と内ヶ磯窯
 「破袋」と「からたち」の焼かれた窯 
 特殊な窯詰め
第三章 巨大窯の推進者たち
 古高取の名物茶入
 古高取と大徳寺
 江月と茶入「秋の夜」
 織部好みと秀吉
 如水好みの意匠 
 博多の豪商・神屋宗湛の日記
 唐津藩浪人・五十嵐次左衛門の登用
 美濃茶入と〝同工異曲〟
 「三条之今やき候者共」 
 「ヘウケモノ」登場 
 「ヘウケモノ」の水指と窯印
第四章 謎の陶工・別所吉兵衛
 伊賀焼の指導者
 窯印目利歌
 吉兵衛と茂右衛門 
 吉兵衛の出自
 吉兵衛の窯印
 「二」印茶入と轆轤目
 「二」印の志野茶碗
 陶工の指紋 
 「二」印の〝点と線〟
 「せとものや町」界隈の出土品 
 窯道具は語る
 珍品の船徳利 
第五章 織部六作
 織部六作 
 「丁」印、有来新兵衛
 「○」印は〝耳付〟の宗伯
 京瀬戸の名工、光存 
 〝にせもの上手〟竹屋源十郎
 薄作りの水指
 様々な意匠の釜
 「唐物」上手の万右衛門
 高取に下った茂右衛門 
 「是今の名人」弥之助
第六章 窯大将・弥之助と「織部高取」
 伊部の大窯と内ヶ磯窯
 黄金色の窯変と「王」印
 内ヶ磯窯の窯大将
 茶陶の〝痕跡〟と窯籍
 「瀬戸六作」の名工・加藤宗右衛門
 個性溢れる陶工集団
 遠州茶入が焼かれた窯
 白旗山窯と意匠の変化
 古高取と遠州高取
 黒田藩と織部流
終 章 「王」印の謎を追う
 Ⅰ 「王」印は誰のものか
 Ⅱ 「念八」茶碗の謎
 Ⅲ 「王」印の茶陶とその陶工をめぐって
 Ⅳ 「王」印の割高台茶碗について

前書きなど

 
  古高取の衝撃 


 福岡県直方市は、筑前国焼・高取焼発祥の地である。
 この地にはかつて「筑前焼」と呼ばれた高取焼の初代・宅間窯と、それに続いて築かれた内ヶ磯窯という二つの窯が存在した。この初期の二窯で焼かれた高取焼は「古高取」と呼ばれ、地元愛好者を中心に今も珍重されている。
 筆者が高取焼に魅せられたのは、東京から直方に転居して二年後の平成十一年(一九九九)秋のことであった。
 その日、直方の町では市民文化祭が催され、各所で様々なイベントが開かれていた。たまたま近くの公民館に立ち寄った筆者は、館内の郷土資料室に展示されていた内ヶ磯窯跡の出土品に目が釘付けとなった。その出土品がまるで釉薬掛けをした備前焼のように見えたからである。長年無施釉陶器である備前焼に魅せられていた筆者は、施釉の高取焼を全く違う種類の焼きものと考えていた。だが、展示されていた出土品は筆者の固定観念を根底から覆すものだった。これが、高取焼と本格的に関わる発端となった最初の〝事件〟である。
 若いころから備前を中心とした全国の窯場を巡り歩き、作陶にも挑戦してきた筆者にとって、備前焼と酷似した意匠をもつ古高取に出会ったときの驚きは言葉で言い表せないものだった。以来、古高取に使われた土や釉薬の究明、窯や焼成の研究など、様々な検証を重ねてきた。その過程で、いくつかの驚くべき事実がわかった。
 例えば宅間窯と内ヶ磯窯は、同じ古高取の窯であるにも関わらず、構造や出土品、さらに〝トチン〟(陶枕。茶碗などを載せて焼く柱状の焼台)を始めとした窯道具にも明らかな違いがある。
 製品について述べると、茶入、茶碗、水指、建水、花入、向付といった、茶席で使われる主要な茶陶が、高取焼発祥の宅間窯跡からはほとんど発掘されない。逆に内ヶ磯窯では、当時一世を風靡した斬新な「桃山様式」の茶陶が、大量の日用雑器とともに焼かれている。
 その間、平成十三年(二〇〇一)には内ヶ磯窯跡の発掘調査報告書が公刊され、出土品と伝世品の比較観察や同定作業が本格化した。その結果、唐津や萩を始めとする優品茶陶の多くが、実は内ヶ磯窯で焼かれたものだったことが判明したのである。
 典型的な例が、「王」字の窯印が刻まれた一群の沓形茶碗である。この大きく歪んだ茶碗群はまるで金粉をふりまいたかと見まがうほどのあざやかな発色で、これまで古唐津の名品と考えられていたものだった。しかし発掘成果をもとにした考証の結果、〝窯籍〟(その焼きものが生産された窯)が古高取・内ヶ磯窯に変更されることになった。
 もちろん、窯籍の判定は単純ではない。出土品との比較はもちろん、使われた土、つくられた形、釉薬の種類、掛け方、窯で焼く温度などの焼成方法、焼き上がりの具合、加えて文書史料など、複数の要素を総合的に吟味して初めて窯籍が特定できるのである。
 *無施釉陶器……釉薬をかけず高温で固く焼き締めた焼きもの。炻器ともいう

  先達との出逢い


 まだ幼いころ、埼玉県所沢市の茶室で一人の老人に遊んでもらった時のことを今でも鮮明に記憶している。筆者の実家は生花業なのだが、生け花の先生に連れられていったその茶室で、黒づくめの衣装を身にまとった白髪の老人が「花屋の坊ちゃん、おじいちゃん達は先にいなくなるんだから今のうちに遊ぼうや」といって相手をしてくれたのだ。後に知ったのだが、その老人こそ、茶陶の蒐集家として名高い「電力王」、松永安左エ門(耳庵)翁だったのである。初めて茶陶器に触れることになったその日の出会いが、今の筆者に影響を与えているのは間違いない。
 青春期に入ると、焼きものへの関心は日増しに強くなった。そのころ、筆者の焼きものに対する姿勢、考え方を決定づけて下さったのが、育英工業高等専門学校時代の恩師、長谷川徹先生である。長谷川先生は、十八歳の春休み、備前焼の二代目・藤原楽山先生のもとに筆者を導いて下さったかけがえのない方である。
 それからというもの、荒川豊蔵、三輪休和、坂高麗左衛門、中里太郎右衛門(無庵)、西岡小十、岡部嶺男など、戦後の焼きものを復興させた多くの先達のもとを訪ねるようになった。そして焼きものの仕事の実際や技法、その土地に伝わる伝承など、貴重な逸話を直に見聞きする機会に恵まれた。
 中でも、〝通いの弟子〟のようにして備前の地を訪ねるようになった筆者をかわいがって下さった藤原楽山師とその御家族から教えて頂いた備前焼の逸話や、師だけが知る昔の陶工の伝承、それにまつわるエピソードは、確実に体にしみ込んでいった。
 昭和五十八年(一九八三)には「怪物」の異名をとり、桃山茶陶を生涯追い続けた加藤唐九郎翁にもお話をうかがうことができた。翁はそのとき、公刊されて間もない内ヶ磯窯跡の発掘報告書を手にしながら「資料はこういう風にパッと見て一目で解るものが良い」といって絶讃しておられた。
 だが正直なところ、直方に移り住み、高取の古窯・内ヶ磯窯跡から掘り出された陶片に出会うまでは「古高取」という名称すら忘れかけていたほどで、高取焼には意識を向けていなかった。それが古高取に出会ってからというもの、なんとかその実態を解く研究が出来ないものかという思いに支配されるようになった。古高取への情熱はいよいよ抑えきれぬものとなり、ついには内ヶ磯窯跡を中心に、半径六キロメートルの地域、七十六ヶ所の異なった場所から百五十層以上の原土を自ら手掘りして集め、焼成実験をするまでに至った。
 残念ながら筆者自身は内ヶ磯窯の発掘調査当時、まだ直方に移住しておらず、現場に立ち会えていないのだが、同じく内ヶ磯窯に魅せられ窯跡に毎日のように通い続けておられた重松佳子さんという方が、ご自身で写された現場の写真を快く提供して下さった。重松さんは発掘当時の状況を事細かに教えて下さったが、このことが後にどれほど役に立ったかわからない。
 よく「類は友を呼ぶ」といわれるが、研究を始めた当初、内ヶ磯窯の発掘現場に実際に立った経験のある、情熱あふれる先達に出会えたことは何より心強かった。
 近隣の図書館で内ヶ磯窯の資料を食い入るように見ていたとき、「内ヶ磯の高取がそんなに好きならうちに来ませんか」と声をかけて下さったのが、窯跡にも出かけ、個人的に研究を続けておられたS氏であった。古高取をこよなく愛する土地の人は少なくないが、このS氏は、伝世品を手に取ってみればより研究を深められるといって、骨董商の西川敞恵氏を紹介して下さった。川筋気質で情熱家の西川氏は発掘当時テレビの取材を受け、内ヶ磯窯の古高取の素晴らしさを紹介された人物でもある。
 また地元の古高取研究の先輩・末吉宏光氏は、氏の大切な窯で、筆者が集めた原土の焼成実験をさせて下さった。
 さらに地元の骨董商・楠山亮介氏は古高取の蒐集家である歯科医の故・毛利茂樹氏の長年にわたるコレクションを「貴重な史料が散っては意味がない」といって未亡人にかけあってくださり、結果的に数多くの品を譲っていただくことになった。
 地元で長年茶陶を蒐集してこられた舟山美彌雄氏は、古唐津と古高取の比較展示を企画した際、愛蔵の品々を快く提供してくれたばかりでなく、折に触れ貴重な知見と励ましを与えて下さった。
 他にも、紀伊國屋書店の会長・田辺茂一氏とその秘書だった坂本英子さんや、耳庵翁と出会うきっかけをつくって下さったお花の先生・豊田栄枝さんなどにお会いしていなければ、現在の筆者があったかは疑問である。
 研究に取り組む過程でこれらの方々から受けた恩は計り知れず、同時にその教えがどれほど的を射たものであるかを痛感することは、一度や二度ではなかった。(序章「古高取との出会い」より)

著者プロフィール

小山 亘  (コヤマ ワタル)  (

昭和34年(1959)、東京都の生花店に生まれる。幼少時より家業の関係で「電力の鬼」と呼ばれた松永安左ェ門(耳庵)や田辺茂一(紀伊國屋書店創業者)など、茶陶に造詣の深い多くの先達と出会い、その影響下に育つ。育英工業高等専門学校在学中、教師の勧めで備前焼の二代目藤原楽山(岡山県指定重要無形文化財指定保持者)に師事、その陶技と桃山茶陶にまつわる多くの伝承を授かる。平成11年(1999)、移住した直方の地で古高取の実物を見て以来、その魅力に惹かれる。以後、古高取と桃山茶陶に関する実践的研究を続け、今日に至る。

上記内容は本書刊行時のものです。