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黒田官兵衛目薬伝説 目の神、鉄の神、足なえの神 奥沢 康正(他著) - 桃山堂
.

黒田官兵衛目薬伝説 目の神、鉄の神、足なえの神

発行:桃山堂
四六判
248ページ
並製
定価 1,700円+税
ISBN
978-4-905342-04-5
Cコード
C0021
一般 単行本 日本歴史
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2014年9月
書店発売日
登録日
2014年11月18日
最終更新日
2014年11月18日
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書評掲載情報

2014-11-02 読売新聞

紹介

黒田官兵衛の一族は各地を流浪し、住む家もない貧窮の底にあったが、家伝の目薬によって財をなし、その後の飛躍につながる土台をつくった──。NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』によって、姫路市の広峯神社を舞台とする黒田家の目薬商いはすっかり有名になりましたが、これが史実かどうかについては賛否両論があります。この話をはじめ官兵衛の所伝には虚実不明の話が多いのですが、眼科医学史、金属考古学、民俗学、地名研究、系図研究など各分野の専門家が伝説の背景から、黒田官兵衛を生んだ歴史的風土とは何かを考えています。

そのひとつは、播磨国における鉄をはじめとする金属の文化です。地名研究者からは、黒田は「鉄」にかかわる地名であり、その居住地を苗字とした一族が黒田氏であるという見解が示されています。黒田氏と鉄の文化とのかかわりを検討することは、本書の柱のひとつです。

黒田家の目薬伝説を信仰という切り口からも探ってみました。
「目」の信仰は「鉄」の文化とかかわり、一つ目で足なえ(片足)の金属神が鍛冶に信仰されていました。この信仰を踏まえると、目薬伝説と官兵衛が足なえと伝わることは関係あるようにも見えます。古代の金属神である一つ目の神は中世において忘却された存在でしたが、戦国時代、金属への需要の拡大を背景として再び、信仰の対象として復活したといいます。没落していた一族の復活を記す黒田一族の目薬伝説と共通する要素があります。

官兵衛は有岡城幽閉のあと、足を傷め、歩行が不自由になったといわれていますが、これが史実かどうかもはっきりしません。武田信玄の軍師・山本勘助も官兵衛と同じく、「大河ドラマ」の主役でしたが、二人には足なえの軍師という共通点があります。死の直前のヤマトタケルも歩行不自由者です。足なえの英雄、足なえの神としての官兵衛も本書の検討対象です。

本書は8人の専門家による語り起こしの論考集です。「目」と「鉄」をキーワードとして、ふだんあまり耳にしない黒田一族にまつわる話を集めました。黒田氏をめぐる現代の説話集のようなもので、このほかの話題は以下のとおりです。

広峯神社の宮司家(広峯氏)の遠祖は、一つ目の金属神を祀っていた/黒田氏の祖地(兵庫、岡山、滋賀)にはそろって一つ目の神が鎮座/民謡「黒田節」を民俗学的に分析し、聖なる槍の物語として読み解く/山中鹿介と黒田官兵衛は血縁者かもしれない?豪商鴻池系図の謎。

目次

目  次

序 章 黒田家の目薬伝説 編者

黒田一族をはぐくんだ歴史的風土
目薬伝説を考える
零落の一族を救った家伝の目薬
黒田家秘伝の目薬と盲目の妹
渡来文化のなかで
山本勘助と黒田官兵衛~二人の足なえの軍師
足なえの神に奉られた謎の鉄鉱石
[関連資料を読む]
目薬伝説の背景に見え隠れする古代信仰


第一章 戦国時代と眼科医学 奥沢康正

なぜ、尾張は眼科医学の先進地だったのか
眼球鉄症
信仰と医療のあいだ
ヘボン博士の目薬
[関連資料を読む]
鉄の神は眼病の神
播磨の信仰としての一つ目の神

第二章 鉄の地名としての黒田浦上宏

きわめて個人的な研究
備前黒田氏の系図に書かれた官兵衛の「兄」
地名から探る歴史的風土~鉄の国としての備前
福岡、黒田は鉄地名
刀工と一つ目の神
浦上氏と黒田氏

[関連資料を読む]
近江から備前へ
出雲の黒田は製鉄神の聖地

第三章 兵主神社に祈った官兵衛と秀吉 芝本満

失われた中世史料
黒田庄町に伝わる系図~赤松支族としての黒田氏
兵主神社と官兵衛

[関連資料を読む] 
〈兵主〉とは鉄の古語か
〈別所〉も鉄の古語?

第四章 一つ目の神の復活 神崎勝
九州から来た女神
戦国時代に復活した一つ目の神
山を管理する一族
『播磨国風土記』のなかの“黒田一族”
[関連資料を読む]
渡来人、金属文化、古代の豪族黒田別

第五章 戦う鋳物師集団 芥田博司
武家商人の一族
官兵衛からの手紙
埼玉県で見た広峯神社奉納刀

[関連資料を読む]
黒田苗字の鋳物師、鍛冶師、金物商人


第六章 広峯神社と一つ目の神の系譜 宝賀寿男

系図研究から見た広峯氏
黒田と赤松
豪商鴻池の系図~黒田氏の支流としての山中氏
備前国における黒田氏の系譜

[関連資料を読む] 
山中鹿介と出雲のタタラ経営者
酒の文化との接点


第七章 鉄のフォークロア 長谷川博美

近江黒田に見える古代製鉄の残照
もうひとつの長者伝説
一つ目のカエルは一つ目の金属神とかかわるか
「黒田節」を聖なる槍の物語として読み解く
バサラ大名は「鉄の王」なのか
ヤマトタケルと官兵衛~足なえの英雄伝説として

[関連資料を読む]
佐々木と金属


終 章 鉄の一族の復活 編者

ほんとうに足なえであったのか
小説で描かれた足なえの官兵衛
秀吉の足なえ、目医者伝説
美濃赤坂の鉄鉱石をめぐる秀吉ゆかりの一族
竹中半兵衛の先祖は鉄の商人か
軍師の条件
福岡城と赤坂山~黒田一族に見える「赤」と「黒」の諸相
一文字派と一つ目の神
目薬伝説は鉄の一族の復活を示唆しているのか


あとがきに代えての補講 目薬の村の記憶 石瀧豊美

福岡藩の目薬はキリシタンの秘伝?
目薬伝説をどう考えるべきか

前書きなど

序章

■黒田一族をはぐくんだ歴史的風土  

本書のメインテーマは、黒田官兵衛(一五四六~一六〇四)をはぐくんだ歴史的風土とは何かを考えることです。官兵衛の武功や来歴については、ほとんど触れていないことをお断りしておきます。黒田官兵衛という武将を一本の樹に例えれば、幹や枝、花や葉だけではなく、地中の「根」を凝視し、根の周辺の「土壌」を問題としています。戦国武将をテーマと しているので歴史の本ということになるのでしょうが、医学や神話、民俗学寄りの話も多く、ジャンル別けが難しい少し変わった本かもしれません。 黒田家には確実な先祖の記録がないという事情もあり、さまざまな伝承・伝説を取り上げていますが、そのなかでも家伝の目薬にスポットをあてています。

黒田家には目薬製法についての秘伝があり、一時零落していた黒田一族は目薬商いによって蓄財に成功し、その後の飛躍の土台を築いたという話です。 目薬の伝承に注目するのは、黒田家のルーツにかかわる重要な秘密が示唆されていると思われるからです。それは「鉄」にまつわる文化とのかかわりです。本書において詳しく紹介することですが、官兵衛の先祖伝承のある近江、備前、播磨は、いずれも古代に発祥する金属文化が栄えたところです。そしてそこには申し合わせたかのように、「目」にかかわる信仰があります。

なぜ、目薬が「鉄」に結びつくのか─。それは、鍛冶や製鉄にかかわる人たちは火や鉄の粒子によって、目を傷めることが多いからだといわれています。鍛冶たちが信仰している金属神は、天目一箇神といい、その姿は片目で片足あるいは足なえの神であるといいます。黒田官兵衛という戦国武将を、「目」と「鉄」にかかわる信仰世界のなかで考えることも本書のテーマのひとつです。

黒田一族をはぐくんだ歴史的風土を探るため、眼科医学史、金属考古学、民俗学、地名学、系図学など各分野の専門家七人に質問を投げかけ、中身の濃い回答をいただきました。本書は各専門家へのインタビューがベースとなっています。わかりやすい話し言葉によって、官兵衛伝説とその背景をなす歴史的風土を紹介するとともに、章ごとに関連資料を示し、関係する箇所を引用しています。 本書で話題としていることの多くは伝説・伝承というべきものなので、史実かどうかといえば疑問符のつく話もありますが、たとえ史実ではないとしても真実の一端に触れているのではないか、真実に近づく手掛かりという可能性もあるのではないか、という所伝を集めています。 一部で専門的な話題にも言及していますが、お堅い学術書ではありません。黒田官兵衛にまつわる不可思議で珍しい伝承を集めていますので、一種の説話集として、楽しみながらお読みいただければありがたいです。

■目薬伝説を考える

「目薬屋から身を起こし、姫路城主になった三代目というのはお主だな」 二〇一四年のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』第二話に、御着城主・小寺政職(片岡鶴太郎)に仕えていた若き日の官兵衛(岡田准一)は、同輩の家臣に出自をタネにののしられ、じっと堪えるというシーンがあります。官兵衛の祖父黒田重隆(竜雷太)は一時、貧しい境遇にあったものの、目薬の商いで財産を築き、その経済力もあって小寺氏の家臣団に加わったので、先祖代々の家臣たちにとっては、新参でありながら、家老職にまでなっている黒田一族が癪の種であったのです。

これはドラマのうえでの設定であり、史実かどうかは別問題ですが、目薬商いは黒田氏の来歴をあらわす重要なエピソードとなっています。第三十二話では、成長した官兵衛の息子長政(松坂桃李)に、祖父である職隆(柴田恭兵)が、目薬の材料となる薬草採りにまつわる思い出を語り聞かせています。 目薬は姫路市の広峯神社の御師(下級神官)が播磨国(兵庫県南西部)やその周辺でお札を配り歩くとき、いっしょに売られていたというのです。御師は神社の祈祷にかかわるだけでなく、お札や暦を配り、参詣を呼びかけ、その案内、世話をする旅行業者のような一面もありました。伊勢神宮の御師が有名ですが、広峯神社も有力な御師の組織があったことで知られています。

目薬販売の話は、官兵衛を主人公とする司馬遼太郎の小説『播磨灘物語』でも取り上げられ、黒田一族と広峯神社の御師たちとの交流が活写されています。大河ドラマ、司馬小説で重要なエピソードとなっているにもかかわらず、この話が歴史的な事実かということについては、賛否両論があり、昨今は否定的な見解が優勢であるようです。本書に史実かどうかを検証する狙いはありません。ある程度、史実を踏まえているかもしれないし、あるいは完全な絵空事であるかもしれない、その二つの可能性をにらみつつ、目薬伝説の背景を考えてみます。

目薬伝説が史実であれば、黒田一族がどのような背景によって、目薬に関係していたかが問題となります。目薬伝説が史実に基づかない虚妄の伝承であるならば、なぜ、目薬をめぐる物語が発生し、NHK大河ドラマなどをとおして、国民的な記憶の一部にまでなったかが問われるはずです。

黒田家の目薬を考えるうえで指標としたことがあります。それは「目」の信仰が製鉄、鍛冶、鉱山とかかわっており、その精神文化は現代においても継承されていることです。黒田家の目薬伝説の背景を考えることは、鉄や鉱山にまつわる文化との接点を探すことと重なり合っています。

■零落の一族を救った家伝の目薬

黒田一族の目薬商いの話が拡散しはじめる起点は、江戸時代の中ごろに書かれた『夢幻物語』にあります。作者は不詳です。写本の伝来を見ると、福岡藩の周辺で読まれていたようです。 「黒田家の中興は小寺美濃守と申し候」と官兵衛の父親から説き起こし、近江佐々木氏の系譜にもとづく黒田一族の来歴を記す形態をとっています。『夢幻物語』によると、黒田氏はもともと近江では名の通った武門であったのですが、故あって、近江から備前へ、さらに姫路へと移住を重ねるうちにすっかり零落し、住む家にも事欠く貧窮にあえぐことになります。各地を流浪し、落ちぶれ果てていた一族を救ったのが家伝の目薬であったというのです。黒田官兵衛の祖父重隆のときのこととして、目薬商いの話が出ており、およそ以下のような内容です。

重隆が備前福岡にいたころ、ある夜の夢に、氏神である佐々木大明神が出現し、播磨国の広峯神社へ行けとのお告げがあった。そこで広峯神社に赴いたところ、神主から、「多くの人の重宝となる薬を知りませんか。もし、あれば、お札といっしょに配り歩きたい」と聞かれたので、家伝の目薬を調合して渡した。どのような眼病にも効果てきめんであったので、隣国まで評判が広がり、黒田家はたちまち「大福長者」となった。黒田家は目薬で得た利益で、田畑を買い、破格の低利で融資することもあったので、人が寄り集まり、奉公人のような者が二百人ほどになった。

これが目薬伝説の概要ですが、まず、否定的な論者の声を紹介してみます。 書状など一次史料を駆使して、史実と伝承を峻別する手並みに定評のある渡邊大門氏は、講談社現代新書『黒田官兵衛 作られた軍師像』において、 「この内容は荒唐無稽であり、俗説として退けるべきものである。特に、目薬売りというのは、大いに疑問が残る」と切り捨てています。福岡藩士の末裔で、黒田氏にかんする多数の著作を持つ本山一城氏は、目薬伝説を記している『夢幻物語』を、「江戸時代半ばに著された俗書」であり、「まさに夢と幻のストーリー」と断じています(『秀吉に天下を獲らせた男 黒田官兵衛』)。 福本日南は明治・大正期のジャーナリストで代議士、父親は福岡藩士という人ですが、『黒田如水』(一九一一年刊)という官兵衛伝記をまとめています。 「職隆を旧福岡の目薬売といひ、如水を姫路の伯楽と称するが如き、言ふに足らざる妄伝なり」とこちらも全面否定です。

九州の図書館や大学に写本が伝わっているので、『夢幻物語』についての研究動向や書誌情報を得たいと思い、いくつかの図書館に問い合わせたところ、いずれも 「『夢幻物語』の記述には問題が多く、研究史料として扱いにくいので、学術的な研究者には敬遠されているようです。黒田家の目薬伝承を取り上げた論文も見当たりません」 という回答でした。目薬伝説は話としては面白いので、小説やテレビドラマで黒田氏の来歴を語るときの定番となっていますが、学術的な研究においては半ば無視されているということです。写本を翻刻した活字本が出ていないのは、史料的な価値を認められていないからだと思われます。


■黒田家秘伝の目薬と盲目の妹

目薬伝説を肯定する立場で書かれた著作として、まず挙げるべきは、金子堅太郎の『黒田如水伝』(一九一六年刊)です。この人も福岡藩士の子ですが、成績優秀であるためアメリカに留学、ハーバード大を卒業して帰国後は、政治家、教育者として活躍しています。伊藤博文の側近のひとりであり、帝国憲法の策定にも参画し、後に司法大臣、農商務大臣などをつとめ伯爵になっています。

『黒田如水伝』は長らく、官兵衛伝記の決定版と目されていただけに、その後、書かれた評伝や小説の多くはこれを種本としています。『播磨灘物語』、NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』で目薬商いが取り上げられたのも、その延長であるといえます。 金子堅太郎は専門の歴史学者ではありませんが、当代一流の知識人であり、福岡藩士の子弟であるだけに、官兵衛を語る文章には一種の説得力があります。『夢幻物語』の記述には種々の誤認があるとしながらも金子堅太郎が、目薬伝説を史実に近いものと考える根拠は、福岡藩藩校で教えていた長野誠(芳斎)がまとめた『福岡啓藩志』に目薬にまつわる所伝があったからのようです。

すなわち、官兵衛の妹は眼の病気を患い、家伝の目薬を用いていたが、嫁ぎ先の縁者にその秘方が伝来したというのです。 御当家御伝来の目薬は、稀代の霊方にて、今、眼科三木某が家に伝れり。其家の伝は、玲珠膏と云ふ目薬は、御当家御先祖御秘方之由申伝ふ。往昔、孝高公[編者注:官兵衛のこと]の御妹、三木清閑に御入輿あらせ給ひしが、兼てより御眼気に御座なされしにより、此薬を毎々御調合あらせられ、御用ひ遊ばされしを、播州にて清閑の甥、三木太郎兵衛に御伝授ありしより、子孫今に伝ふ。 『福岡啓藩志』が記す「眼気」とは、目の病気のことですが、『黒田家譜』はこの妹について、「幼年より盲目。播州英賀邑三木清閑に嫁す」と記しています。 金子堅太郎は「村田出羽伝」からも、少し違った所伝ですが、目薬商いのことを引用しています。こちらでは官兵衛の父親が目薬商いをしていたという話になっています。 小和田哲男氏(静岡大教授など歴任)の『黒田如水』(ミネルヴァ日本評伝選)は金子堅太郎の所論を引用し、ほぼそれを認めています。

『夢幻物語』とは離れて、目薬関係のデータを探すと、十七世紀のはじめころ、福岡藩に岡山の黒田正庵という行脚僧が訪れています。自分こそが黒田家の本来の総領であると称し、家系図を持参したようですが、この人物は目医者であったといいます。ひとつの可能性としては、この目医者の来訪が福岡藩のなかで噂として拡散し、黒田家の目薬伝説のタネになったということも考えられます。

黒田家の目薬商いの話は、『播磨灘物語』(司馬遼太郎)によってさらに広がります。一九七三年から七五年にかけて読売新聞で連載された小説ですが、官兵衛の祖父の目薬商いを、読者には完全な史実に見えるようなかたちで物語に取り入れています。 要するに重隆は、目薬をつくることになった。 このために、後の世、江戸期に入って、筑前福岡の黒田家の武士たちは、他の九州の諸大名の家臣から、 「たかが目薬屋のあがりではないか」 などと言われるようなことになった。 小説執筆をまえに、司馬氏は広峯神社を訪ね、宮司に目薬の話を聞いています。四十年ほどまえのことになりますが、今となると、貴重な証言です。当時の宮司である西脇氏は、広峯神社の御師の家系であったといいます。

このとき西脇氏に、目薬の話をきいてみた。 すると、黒田官兵衛の祖父が当社に参籠したということはきいていますが、目薬のことはきいていません、といった。 しかし神社では、大正のころまで目薬を売っていたらしい。西脇氏の子供のころは昭和初年らしいが、そのころでも、蔵の中に目薬を入れた木箱がびっしりあったという。その目薬の容器は、そのころは小さなビンになっていた。重隆のころの容器は、大きなハマグリの殻である。

姫路城の近くの姫路文学館には司馬遼太郎記念室があり、目薬の容器も展示されています。司馬氏の父親は大阪で薬局を経営する薬剤師であったので、目薬伝説に思い入れがあったのかもしれません。


■渡来文化のなかで

姫路城から北を望むと、周辺の山々と尾根伝いに連なる広嶺山が見えます。標高約二百六十メートル。目薬をお札とともに配り歩いたと伝わる御師たちが姿を消して久しいものの、彼らが住んでいた御師屋敷は神社のまわりに残っており、往時の面影をとどめています。 中世には「広峯三十四坊」といって、坊と呼ばれる御師の屋敷がこれくらいの数あり、兵庫県はもとより、岡山県、鳥取県、京都府北部あたりまで御師たちは出向いていました。その後減少しつつも、昭和時代まで御師の活動は続いています。御師に黒田という家があり、官兵衛の家と同じ「藤巴」の家紋なので、同族という説も聞きますが、不詳です。そのほか、魚住、肥塚、谷口、西脇家などの御師屋敷の跡があります。 本殿裏の山道を十分ほど歩くと、黒田家の館跡ですが、建物は取り壊され、礎石らしきものと瓦の破片が見えるだけです。ただ、周囲にめぐらされた石垣はきれいに残っています。かなり険しい山道に沿って、三、四メートルほどの高さの石垣が構築されており、戦闘に備えた砦のようです。この神社の神域が巨大な山城であったことが実感されます。

広峯神社の鎮座する広嶺山は古代から中世において、新羅国山と呼ばれ、白国という地名が広峯神社に隣接して現存しています。『播磨国風土記』には、昔、新羅の人が来朝したとき、この村に宿ったので新羅訓と名付けた、山の名前も同じ、と記されています。主祭神とされている牛頭天王は、朝鮮半島からの渡来神であり、大陸渡来の陰陽道の聖地という一面も広峯神社にはありました。 白国にはこの地名を苗字とする武士がいて、一説によると、官兵衛の祖父重隆の母親は白国氏だといわれています(『赤松秘士録』)。僧形の武将として官兵衛を支えた叔父高友(休夢)は、白国にある随願寺の山内の地蔵院に住しています。黒田氏は白国に地縁があったようなので、これが目薬伝説のひとつの背景であるといえます。 後白河法皇の編纂した『梁塵秘抄』で、広峯神社は、厳島神社、吉備津神社などとともに、「関より西なる軍神」と歌われています。主祭神である素戔嗚尊と同一視される牛頭天王の信仰(祇園信仰)の総本社ともいわれ、一説によると、京都の八坂神社も当地からの分霊がそのはじまりであるともいいます。本殿では素戔嗚尊、五十猛尊、広峯氏の遠祖とされる天津彦根命などが祭神となっていますが、神仏混淆であった江戸時代以前には薬師如来も祀られていたといいます。現在は本殿の裏に小さな薬師堂が建てられています。 社伝によると、遣唐使であった吉備真備が中国から帰国する途中、素戔嗚尊の神託を受け、この地に社殿を建てたのが、広峯神社の創始であるとされています。吉備真備はその名のとおり、岡山県エリアの有力豪族下道氏の出身で、中国では儒学、史学、法律、数学、天文学などとともに軍事に関する学問を修めたと伝わっています。古代の大乱のひとつである藤原仲麻呂の乱のとき、官軍の司令官的な役割(軍師?)を担ったことによって、わが国の兵法の始祖と持ち上げている兵法書もあります。岡山といい、軍師といい、官兵衛とは不思議な因縁です。

広峯神社の宮司は、神職であるとともに、広峯という苗字をもつ武士としての一面もありました。鎌倉時代は幕府の御家人となり、惣追捕使、地頭などを兼ねています。黒田官兵衛が姫路にいたころ、当社の宮司は広峯長職といいますが、この人は官兵衛が仕えていた御着城主・小寺政職の弟です。 広峯神社を訪ね、宮司さんに話をうかがいましたが、黒田家の目薬にかかわる記録、伝承はまったくないという回答でした。ただ、戦前、広峯神社の御師が目薬を売り歩いていたことを話していた参拝者がいたといい、御師の目薬商いはあったようです。


■山本勘助と黒田官兵衛~二人の足なえの軍師

本書では、目薬商いとともに、官兵衛の「足なえ」をテーマとしています。『播磨灘物語』でも、NHK大河ドラマでも、黒田官兵衛は足なえの歩行不自由者ですが、これについてもどの程度、史実を反映しているのかわからないところがあります。 荒木村重が信長に謀反を起こし、兵庫県伊丹市にあった有岡城に籠もったとき、黒田官兵衛は翻意するよう説得に赴き、そのまま一年あまり幽閉されています。狭い牢獄に閉じ込められていたことによる後遺症で、足に障害が残り、歩行が不自由になった─ということが、小説や歴史読み物で繰り返し語られています。NHK大河ドラマでは荒木村重の起伏の多い人生を田中哲司が熱演していましたが、有岡城での幽閉と解放はドラマ前半のクライマックスであり、その後の官兵衛はにわかにすごみを帯びた人格に変貌します。 日本史上の有名人のなかにもう一人、足なえの軍師がいます。NHK大河ドラマ『風林火山』の主役であった山本勘助です。武田信玄の軍師として活躍する姿を、内野聖陽が演じていました。黒田官兵衛とは違って、実在の人物かどうかさえ不詳ですが、外見的特徴ははっきりしています。片足が不自由で、片目であったというのです。辞典類で調べてみると、「色は黒く片目で足は跛であったともいう」(『国史大辞典』)、「独眼で隻脚(中略)軍略に長じ、武田信玄の参謀」(『広辞苑』)と説明されています。 山本勘助の出身地(あるいは幼少期から住んだ土地)とされる愛知県豊川市の牛窪(牛久保)地区は、中世以来、鋳物や鍛冶師の集住地でした。中尾を苗字とする中尾鋳物師によって知られています。この地には真木を苗字とする鍛冶がいて、南朝方の武将として『太平記』に名の見える真木定観の子孫であるとも伝わっています。

笹本正治氏(信州大教授)は『軍師山本勘助 語られた英雄像』において、民俗学者の谷川健一氏による天目一箇神についての論考を紹介しながら、興味深い山本勘助論を展開しています。天目一箇神は、鍛冶や製鉄にかかわる人たちによって祀られた神で、一つ目であり、片足が不自由(あるいは片足しかなかった)という外見的特徴をもっています。つまり、これは山本勘助の外見と同じであるというのです。

中世の説話に出てくる片目片足の不死身な者は、タタラの火を見て目を痛め、鞴を踏むことによって片足を痛めた、金属業者たちが伝えた鍛冶神ではないかというのである。そして彼らはタタラの火で焼けた赤ら顔ということになる。山本勘助の特徴が片目片足で、顔の色が黒いところにあり、スーパーマン的な活躍をしたことについては既に述べた。彼の出身地は三河牛久保で鋳物師の世界である。(中略)したがって、山本勘助も単に武田信玄に仕えた軍師という側面からだけではなく、時代の中で求められた英雄像、日本人がどのような人を求めていたかなど、広い視野から今後研究をしていかねばならないといえる。

山本勘助は半ば伝説上の軍師ですが、「目」と「足」によってシンボライズされる人物であり、その背景には金属神・天目一箇神の信仰があるのではないかという問題提起です。 これは黒田官兵衛の史実と伝承を考えるうえで、重要な指摘です。というのも、黒田氏の先祖伝承の語られている三か所(滋賀県長浜市、岡山県瀬戸内市、兵庫県西脇市)には、天目一箇神あるいは一つ目神にかかわる信仰があるからです。目薬、足なえ─。官兵衛の物語も、「目」と「足」が重要なモチーフとなっています。金属神が片目であることについては、・鍛冶の仕事で片目を失う者が多かったから・片目を神に捧げる風習があったから・鍛冶は片目を閉じて、作刀のできばえなどを吟味するから─など諸説がありますが、定かではありません。

黒田官兵衛が注目された結果、軍師としての内実についても議論されるようになりましたが、中公新書『黒田官兵衛 「天下を狙った軍師」の実像』において諏訪勝則氏は「官兵衛は秀吉の軍事行動全般を指揮するような存在ではなかった」と明言しています。軍師という言葉も職制も戦国時代にはなく、江戸時代になって盛んになった兵学、軍学から逆算されたものだというのです。 軍師官兵衛という人物像が虚構に近いものかどうかはさておき、黒田官兵衛、山本勘助、竹中半兵衛らは、後世、軍師と呼ばれて、高い知名度を得ています。軍師と称される人は何人もいますが、NHK大河ドラマの主人公となった軍師は黒田官兵衛と山本勘助ですから、現時点において最も有名な軍師はこの二人であるといえます。この二人の軍師がそろって歩行不自由者であったというのはどういうことなのでしょうか。足なえであることが、名軍師の条件なのでしょうか。不可思議な共通点ですが、黒田官兵衛をめぐる謎を考えるうえで無視できないところです。


■足なえの神に奉られた謎の鉄鉱石

広峯神社のある山をくだったところが市川で、その向こう岸に佐良和という集落があります。歳徳神社はこの地で落命した足なえの武士を祭神とし、足の健康を守ってくれる神さまとして古くから信仰されていますが、黒光りする鉄鉱石(磁鉄鉱)を祀っています。この鉄鉱石に触った人から、足や手の痛みが治った、肩こりが和らいだ、運気が上向いたという報告が相次いだことから、ネット上で幸運を招く石として話題となり、地元の神戸新聞でも不思議な人気ぶりが報道されています(二〇一四年二月五日付朝刊)。 社伝によると、十六世紀前半の享禄年間、黒田一族の主筋にあたる姫路の御着城主小寺氏と備前の浦上氏が姫路で戦い、小寺軍は惨敗、小寺方のひとりの武士が足に重傷を負って、神社のある地に逃れ来たというのです。享禄年間は官兵衛が生まれる前で、祖父、父親の活動時期です。その足を傷めた武士は死に臨んで、「歩行不自由なる者は何人によらず、これを保護せん」と遺言したことにより、足の神としての霊験が生じた──という由緒になっています。かつては脚気に御利益のある神さまとして信仰されていたそうです。

本書で取り上げるのは、広峯神社から地図上の直線距離四キロほどのところに、「足なえの神」を祀る神社があり、そこに鉄への信仰が重なっているからですが、神社代表世話人の方にうかがったところ、鉄鉱石を祀ったのは二〇一二年からで、それ以前は、鉄や金属にかかわる信仰はなかったといいます。神社に供える良い石を探しているとき、同じ佐良和地区にある採石場で、十年ほど前、地中から見つかった鉄鉱石のことを聞いたそうです。三トンほどの黒い石塊だったといい、神社に祀っているのはその断片です。鉄鉱石を祀っているのは偶然といえばそれまでなのですが、そうとばかりは言えないデータもいくつかあります。 佐良和と書いて、「さろお」と読ませる不思議な地名ですが、往古、渡来系の人たちが多く住んでいたというので、広峯や白国と似た土地柄だといえます。少量ですが、金、銀の採取できる鉱脈があり、大喜鉱山として運営されていました(『龍野地域の地質』産業技術総合研究所)。歳徳神社の裏山には、黄銅鉱の採れる場所があり、ごく小さな規模ですが、昭和三十年代まで採掘されていたそうです。 ただし、鉄鉱石が採れたという記録や伝承はいっさいなく、なぜ、採石場の地中から見つかったのかわからないというのです。可能性として考えられるのは、・未知の鉄鉱石鉱脈があった・隕石が埋もれていた・古い時代に他所から輸送された鉄鉱石が採石場に紛れ込んだ──というところです。

姫路市で、鉄をテーマとするミニ博物館「鉄のふしぎ博物館」を運営する衣川良介氏(衣川製鎖工業社長)に聞いてみたところ、 「神社の鉄鉱石は私も見ました。非常に純度が高い磁鉄鉱で、この地から見つかった理由は謎です。このあたりで鉄鉱石を原料とする規模の大きな製鉄を行ったという伝承は聞いたことがありませんが、古くから鍛冶の営みはあったようです。広峯神社のそばに砥堀という地名がありますが、砥石が有用の資源となるのは鍛冶の営みがあればこそですから、間接的な証拠です。砥堀と隣接して、仁豊野という地名がありますが、ニブのつく地名は水銀や金属とかかわるという報告もあります」 と話していました。 このように広峯神社の周辺には渡来人が居住し、金属にかかわる信仰の痕跡らしきものがあります。姫路市は、新日鐵住金の広畑製鉄所をはじめとする鉄にかかわる企業や工場の多いところです。鎖の製造など地場産業も盛んで、「鉄のふしぎ博物館」を運営する衣川製鎖工業もそのひとつです。古くは姫路城のそばの野里に、播磨国を代表する鋳物、鍛冶の一大集積地がありました。姫路における鉄の文化の中で、黒田家の歴史を考えることも本書のテーマのひとつです。 イントロダクションとして、黒田家の目薬伝説の大枠と官兵衛の足なえの問題について紹介してみました。これを土台として、次章以降は、個々のテーマやエリアに的を絞りつつ、黒田官兵衛をめぐる伝承と伝説を探ってゆきます。 古い史料からの引用については、漢字を平仮名に改めたり、送り仮名を補っている箇所もありますが、基本的には原文通りに紹介しています。 各章の原稿は、各専門家へのインタビューをもとに、その方々の著作、論文などの要素も取り入れて、編者が構成したものです。メールやファックスで原稿をやりとりし、加筆・修正を重ねました。

著者プロフィール

奥沢 康正  (オクザワ ヤスマサ)  (他著

眼科医、日本医史学会、京都市在住

浦上 宏  (ウラカミ ヒロシ)  (他著

地名研究者、岡山県瀬戸内市長船町在住

芝本 満  (シバモト ミツル)  (他著

黒田庄の歴史を学ぶ会。旧黒田庄町役場職員。兵庫県西脇市黒田庄町在住

神崎勝  (カンザキ マサル)  (他著

金属考古学、風土記研究、兵庫県多可町在住。

芥田博司  (アクタ ヒロシ)  (他著

播磨国鋳物師棟梁芥田家の子孫、兵庫県姫路市在住

宝賀寿男  (ホウガ トシオ)  (他著

系図研究者。日本家系図学会会長。

長谷川博美  (ハセガワ ヒロミ)  (他著

滋賀民俗学会、城郭研究、滋賀県米原市在住

石瀧豊美  (イシタキ トヨミ)  (他著

福岡地方史研究会会長、古流眼科医の子孫、福岡県須惠町在住

蒲池明弘  (カマチ アキヒロ)  (編著

桃山堂株式会社代表

上記内容は本書刊行時のものです。