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ラフカディオ・ハーンの耳、語る女たち
声のざわめき
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2024年9月26日
- 書店発売日
- 2024年9月26日
- 登録日
- 2024年8月22日
- 最終更新日
- 2024年9月23日
紹介
ハーン(小泉八雲)――
聲[こえ]の旅人、その作品と生涯。
* * *
「ラフカディオ・ハーンの耳」「耳の悦楽」など多数の、著者渾身のハーン論をここに一挙集成し、大幅に加筆&修正した「大増補&改訂新版」。たくさんの絵図・写真も掲載。
* * *
地中海に浮かぶレフカダ島に生まれ、母親とアイルランドへ移り住み、米国シンシナーティからニューオーリンズを経て、フランス領マルチニーク島へ、さらに西へと海を渡り、40歳を前(1890年)にして、ラフカディオ・ハーンは来日した。
盲目の女性芸能民の三味線、行商人の下駄のひびき、大黒舞[だいこくまい]の踊りと歌、道ゆく「按摩[あんま]」の笛の音、旅館の女将の「風鈴のような声」……。
富国強兵に突き進む近代日本が切り捨てた口承文芸の調べ、民衆の暮らしの音、小泉セツの怪談語りが、ハーンの耳を圧倒する。近代化のなかで抑圧されていった「雑音」に耳を傾け、耳本来の受動性にすべてをゆだねたのである。
シンシナーティやニューオーリンズ、マルチニークの、水夫や住みこみ女中の濃厚な声もまた、これら雑音とともに、そして小泉セツの語りとともに、潮騒のようにハーンに押し寄せる。「海の声は…たくさんの声がかもしだすざわめき」なのである。
このざわめきを聴き取るために、ハーンがセツに怪談を語らせるさい、彼女にこう求めた――「ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければ、いけません」。セツのそばで耳の孔をおしひろげながら、男は盲目の琵琶法師[びわほうし]へと変身する。こうして彼は「小泉八雲」となった。
しかし彼は、セツの生身の姿については堅く口をつぐみ通す。セツの息づかいを彼が英語の文体の内に活かしきったところではじめて、彼女の影が幽かに浮かぶにすぎない。
凍てつく息を男の顔にふきかける「雪おんな」。
耳をひきちぎられる琵琶弾きの盲僧「芳一[ほういち]」。
変わり果てた故郷の姿に絶望し、時の重みで凍死する「浦島[うらしま]」。
彼は、糾弾する女を、女によって糾弾される男を、くり返し描いた。小泉セツ、女たち、病者、獣、死者たちが発する声になすすべもなく、その身をゆだねたのである。押し寄せる声のざわめきに、男は耳の奥で、何かを聞いたのだ。
目次
【目 次】
【Ⅰ】ハーンの耳
・・・序 文字の王国
・・・大黒舞
・・・ざわめく本妙寺
・・・門づけ体験
・・・ハーメルンの笛吹き
・・・耳なし芳一 考
【Ⅱ】ハーンと女たち
語る女の系譜
・・・母語の抑圧と回帰
・・・英語教師の性的日常
・・・女性と民間伝承
・・・良妻賢母主義の光と闇
「女の記憶」という名の図書館
・・・スレイヴ・ナラティヴ
・・・『ユーマ』
・・・「幽霊」
【Ⅲ】ハーンと文字
文字所有者の優位から文字の優位ヘ/カフカ・ハーン・アルトー
盲者と文芸/ハーンからアルトーへ
【Ⅳ】宿命の女
「おしどり」とマゾヒズム
・・・糾弾する女たち
・・・自己犠牲と改心
・・・ザッハー=マゾッホからの偏差
・・・マゾヒズムの諸様態
怪談 浦島太郎
・・・千四百十六年
・・・海神・龍王・龍神
・・・世紀末の女
・・・南方憧憬
【Ⅴ】ハーンと世紀末
ラフカディオ・ハーンの世紀末 黄禍論を越えて
・・・あなたがた/彼ら
・・・ジャーナリスト/フォークロリスト
・・・日本論/戦争論
・・・わたしたちへ
・・・ハーンから宮沢賢治へ
ハーンを交えて議論してみたいこと
索 引
前書きなど
本書の冒頭部分(17-18頁)より
「ラフカディオ・ハーンは、日本に来て間もない頃、人力車夫[じんりきしゃふ]のチャを雇って横浜の街路を走らせたときの新鮮な印象を、こんなふうに語っている――「日本人の頭脳にとって、表意[ひょうい]文字は、生命感にあふれる一幅[いっぷく]の絵なのだ。それは生きて、物をいい、身ぶりまでする。そして日本の街は、いたるところに、こうした生きた文字を充満させているのだ」と〔V: 7〕。
巷間[ちまた]に溢れかえる文字の群れを、ひとつひとつ意味を持った文字として読むわけでも、通り過ぎる景観の一部としてただ眺めてしまうわけでもなく、こんなふうにしてまるで妖精[ようせい]たちが踊る光景を眺めるように味わえる能力というものを、われわれもまたいつかは身につけていたはずである。たとえば漢字が日本に伝わってきた時代、あるいは漢字や仮名が一握りの文字所有者の専有[せんゆう]であった時代、日本の一般庶民にとって、文字というものは、同じく神秘的な生物として受けとめられていた可能性がある。ところが、今日のわたしたちは、ハーンのような渡来人[とらいじん]のことばを通してでなければこの幼稚すぎる感動を味わえない。
ハーンの日本研究は、それまでのチェンバレンやアストンらの文献学的な日本研究とは一線を画[かく]し、来日以前の合衆国や西インド諸島時代、現地の非文字文化に探究を推[お]し進めた時と同じく、目よりも耳に、より大きな役割を課して、いわゆるフィールドワークの方法を日本研究に適用した点に最大の特徴がある。しかし、だからと言って、日本の漢字や仮名に注目しなかったわけではない。彼は日本の書物を文献として読む代わりに、かつて「文盲」[もんもう]の名でカテゴライズされた一般庶民の感性で文字文化を体験し、社会的には低い位置から日本文化を探る特権的な視線を用いたのである。……」(本書 17-18頁まで)
版元から一言
本文そして引用文のなかの読みにくい漢字にはすべて、ふり仮名をつけております。また、多数の絵図・写真を掲載しています。本書が(なによりもハーンの著作が)、こんにちの若い読者を含めた幅広い読者にむかえられるよう、さまざまな工夫をいたしました。
上記内容は本書刊行時のものです。