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木を植えた人・二戸のフランシスコ ゲオルク・シュトルム神父の生活と思想
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2018年7月
- 書店発売日
- 2018年8月13日
- 登録日
- 2018年7月8日
- 最終更新日
- 2019年6月29日
紹介
日本にキリスト教がもたらされて470年。決して成功しているとはいえないその長い福音宣教の歴史ではあるが、この神父の姿からは、日本のキリスト教の土壌を黙々と耕し続けた愚直な姿を感じることができる。
本書の主人公ゲオルク・シュトルム神父は1915年スイスで生まれた。カトリックの深い信仰を持つ母に育てられ、ローマの大学で哲学を学んだ後、スイスに本部のあるベトレヘム宣教会の経営する神学校で学び、卒業後、司祭として中国で宣教に励んだ。しかし、中国共産党の政策により中国を追放され、ベトレヘム会の宣教師たちは命からがら日本へ逃れ、そして岩手県の宣教を任されることになった。シュトルム神父もその一人として岩手の小さな町、二戸市に着任し、この地で45年間を過ごし、89年の生涯を閉じた。
神父は二戸に住む45 年間に二千本にも上る植林活動を行い、一千八百点にのぼる膨大な数の植物図譜(水彩画)や木彫を残した。毎日の聖務日課の聖書朗読を即興のギター伴奏で歌い、これらの曲は後に『バイブルソングス』(音楽之友社)として出版された。宮澤賢治の童話に刺激されて書いた童話集『子山羊とフランシス』(岩手日報刊)『幸せの種』(信山社刊)もある。
神父の生活は民家を教会とし、手作りの十字架やマリア像を置き、畑を耕し野菜を作り、山羊やアヒル、ガチョウ、ニワトリなどを飼い、冷蔵庫も石油ストーブもない質素な自給自足の生活だった。清貧・貞潔・従順を貫いたその生活はアシジの聖フランシスコや宮澤賢治を彷彿とさせる生き方でもあったが、宣教師としては多くの信者を得ることが出来ず深い挫折の45 年間でもあった。それでもこの神父の思想と人柄に触れ、心の支えにした人たちもたくさんいた。この本は、その様な人たちの支えによって世に出ることになったもので、シュトルム神父の生活と思想が感じてもらえるよう写真やスケッチを紙面の許す限り掲載し、生活の中で発せられた神父の言葉を出来るだけ掲載した。珠玉の言葉をこのように残すことができたのは、ひとえに著者・黒澤勉氏の功績である。
神父の残した仕事と言葉の中に、戦後日本におけるキリスト教福音宣教の成功と挫折を見、来るべき日本の福音宣教への希望の道を見いだして頂けたなら、この本を世に送り出した甲斐があったものと思う。
目次
年譜
始めに
Ⅰ 神父の生活
Ⅱ 神父の思い出
Ⅲ 二戸に生きたスイス人神父
Aシュトルム公園林
B神父と二戸市民
C植樹の思想
Ⅳ ジョルジュお爺さんと共に
Ⅴ 神父とセシリア
Ⅵ シュトルム神父語録から
A 信仰について
B 聖人について
Ⅶ 結び
〈付録〉
木を植えた人たち 虔十、ブフィエ、シュトルム神父
前書きなど
ゲオルク・シュトルム神父はスイスのシュヴィツ州のインメンゼに本部のあるベトレヘム外国宣教会神学校出身の宣教師で、一九五二(昭和二七)年三七歳で来日、二〇〇四(平成一六)年、八九歳で帰天されるまで岩手県(主に二戸市)にあって生涯を宣教に捧げた。
ベトレヘム外国宣教会神学校は卒業後の宣教地として中国のチチハル、北京、北アフリカローデシアのフォート・ヴィクトリア、台湾の花蓮、南米コロンビアなどで宣教活動を行っていたが、現在、神学校は学生が少なくなって閉鎖されているという。
ベトレヘム外国宣教会と日本のカトリック仙台司教区とのつながりは一九四八年、仙台司教区長浦川和三郎がベトレヘム外国宣教会総長ヴラッセル神父宛てに岩手県の宣教協力依頼の書簡を送ったことに始まる(仙台司教区は青森県・岩手県・宮城県・福島県のカトリック教会を司牧する)。それから五〇年後の一九九八(平成一〇)年八月二七日には、盛岡白百合学園で「ベトレヘム外国宣教会来日五〇周年記念」が行われた。それはベトレヘム外国宣教会の五〇年にわたる司牧に対する感謝の会であると同時に、べトレへム会による司牧の終了を告げる会でもあった。
五〇年間に来日した神父は二五名、いずれも豊かな教養をもつ、多芸、多才の、個性的な明るい神父たちであった。これについては『岩手福音宣教百年史』(上田哲・ホーレンシュタイン編 著)岩手とスイス――知られざる五〇年』(上田哲編 著)などに詳しく紹介されている。
これらの神父たちが日本人にキリスト教の精神を伝える上で果たした役割はきわめて大きい。ベトレヘム会の神父から洗礼を授かり、信仰を支えに生きている人、信仰によって人生の変わった人も多い。神父たちは宣教以外にも、地域社会に貢献し、文化的な活動、国際交流、国際理解などにも尽くした。
神父たちは毎月、第一月曜日、盛岡市の志家町にあるベトレヘム会の本部で話し合いをもっていたが、二〇一七年、残っているのはアントニオ・ツゲル神父ただ一人になってしまった(仙台市在住)。多くの神父が帰天され、また高齢、病のために帰国されたからである。
本書の主人公であるゲオルク・シュトルム神父は神学校卒業の後、一九四六年より中国で宣教活動を展開し た。しかし一九五二年共産党政府の宣教師追放政策により三七歳で来日、八九年の長い生涯の約半分、四五年間を岩手県の県北の小さな町、二戸市で過ごし、そこで帰天された。
二戸市は一方に遠く、折爪岳の伸びやかな稜線が展望され、他方に、大河、馬淵川が北に向かって流れる、その流れに沿って伸びる細長い町である。山間の豊かな自然に恵まれた町は漆や雑穀の文化を育て、かつては南部藩の居城もあった。
国際化が進み、もはや外国人も珍しくないとはいえ、異郷の地にこれほど長く、深く関わり、その土地の自然と人々を愛した外国人は少ないだろう。神父は『子山羊とフランシス』(一九九三年、岩手日報社刊)という童話を書かれているが、神父の存在そのものがフランシスコに近かった(フランシスは英語の呼び方で、イタリア語ではフランチェスコ、日本では一般にフランシスコと表記される)。イタリアのアシジに裕福な商人の子として生まれたフランシスコは俗世間を捨て、清貧、従順、貞潔に生きる修道者となり、多くの人々を惹きつけて教団を形成、教会の刷新に尽くした。手にキリストの聖痕(スティグマ/イエズスが十字架刑で受けた傷)を授かり、その説教に小鳥たちも耳を傾けたという。自然を深く愛した聖人として世界的に知られている。シュトルム神父の母はフランシスコ会の在俗会員であり、神父もフランシスコを聖人として深く敬っていた(「シュトルム神父語録、聖人について」参照)。
二戸の自然を愛し、育み、保護し、環境破壊を憂えたゲオルク・シュトルム神父は「二戸のフランシスコ」だった、たぐいまれな「聖人」、神を信じ、人を愛し、その愛のためにおのれを捧げた人だったと思う。
筆者の友人の一人は、神父の生活・思想について、それは宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の精神に近いのではないか、神父は「二戸の賢治」だとも言えるのではないか、と語った。賢治の「雨ニモマケズ」の詩には、根底に法華経の信仰があるといわれる。そして法華経と聖書には、似通った思想――自己犠牲的な愛の精神や永遠の命に対する信仰など――がある、という指摘もある。梅原猛が指摘するように、賢治は仏教の教えを童話によって伝えようした「菩薩」だった、と私も思う。
「聖人」と「菩薩」、カトリックと仏教。当然ながら、両者に大きな違いはあるが、共通する点も多い。それは読者の皆さんに考えて頂くとして、ここではただ、神父が「二戸のフランシスコ」だった、日本でいえば、「宮澤賢治に近い人」だった、ということを指摘しておきたい。
二戸カトリック教会は二〇一七年一月、二戸市の道路拡張工事のために取り壊しになった。信者の極めて少ない二戸市に新しく教会建設の予定もない。
筆者にこの文章を書かせているのは、その神父と二戸カトリック教会に感謝し、哀惜する気持ちである。しかしそれ以上に、神父の生活と思想を紹介し「二戸にシュトルム神父ありき」ということを広く世に伝えたいという思いである。
神父の幅広い文化的活動は植物図譜、彫刻、バイブルソングスの作曲、童話の創作そして植林された木々に至るまで、豊かな遺産として残されている。神父は芸術家的な資質に恵まれた「芸術家神父」であった。
だが神父の生活や思想はあまり知られているわけでない。神父の暮らしは秘密のベールに隠されていた、という方が近いだろう。それをここで明らかにしたい。神父の生活と思想への理解を深めたい。それによって、一時、そう呼ばれたように、「二戸の宝」として広く認識されるようになって欲しい。そう願って、これを書こうとしている。神父は生前もそうであったように、帰天後の今も、二戸市にとって、いや岩手、日本にとってもかけがえのない「宝」だと私は確信しているのである。
版元から一言
岩手県における戦後のカトリックの宣教は、スイスの宣教会「ベトレヘム会」が担った。
当時の岩手は「日本のチベット」と呼ばれた僻地の代表のような県であった。その岩手の地で懸命に布教活動を行った宣教師たちの労苦は計り知れないものがある。
この本は、希望に燃えて来日し、福音宣教に挫折しながらも、懸命に日本に土着し、「二戸の宮澤賢治」とも「二戸の聖フランシスコ」ともいわれ、その生涯を終えた一人のスイス人神父の生活と思想を、その神父に40年にわたり師事し、丹念に言葉を書き留めた信者による貴重な記録になっている。
日本にキリスト教がもたらされて470年。決して成功しているとはいえないその長い福音宣教の歴史ではあるが、この神父の姿からは、日本のキリスト教の土壌を黙々と耕し続けた愚直な姿を感じることができると思う。
上記内容は本書刊行時のものです。