書店員向け情報 HELP
出版者情報
書店注文情報
在庫ステータス
取引情報
「霊性の神学」とは何か
福音主義の霊性を求める対話
- 出版社在庫情報
- 品切れ・重版未定
- 初版年月日
- 2019年3月30日
- 書店発売日
- 2019年3月18日
- 登録日
- 2019年2月15日
- 最終更新日
- 2023年11月29日
重版情報
2刷 | 出来予定日: 2021-06-30 |
MORE | |
LESS |
紹介
著者のキリスト者としての心の渇きを出発点として、 J・フーストン、E・ピーターソン、A・マクグラス、J・エドワーズ、カルヴァン、ナウエンらから学び、キリスト教福音主義神学と霊性の調和を試みた意欲作。
〈私は聖書信仰に立ち、聖書が誤りのない神のことばであり、信仰と生活の最高権威であることを確信していました。その一方で、私自身の内側に言いようのない霊的な欠乏感があり、それを消し去ることができませんでした。霊的な飢え渇き、キリスト者としての生き方の統一感のなさ、みことばと心の関係という問題は、「霊性(スピリチュアリティ)」と呼ばれる分野であることが徐々にわかってきました。〉(「はじめに」より)
目次
はじめに─「霊性」を求める旅の始まり
第1章 福音主義、霊性、そして霊性の神学
第2章 聖書を「霊的」に読むこと
─霊性の聖書的土台
第3章 霊性と神学は互いに敵同士か
─霊性の神学的土台
第4章 三位一体の神とキリスト者の霊性
第5章 友情
─霊性を形成し実践する場(その1)
第6章 霊的同伴
─霊性を形成し実践する場(その2)
第7章 信仰共同体としての教会
─霊性を形成し実践する場(その3)
第8 章 キリスト者の生活の全体像
─福音に生きるために
第9章 霊性の社会的広がり
─預言者の霊性から
第10章 祈り
─ 「神との友情」に生きる者の生き方
第11章 福音主義の霊性を求めて
─霊性の神学からの五つの提言
あとがき
おもな参考文献
前書きなど
はじめに──「霊性」を求める旅の始まり
最近、キリスト者の信仰生活の深まりを表すために「霊性(スピリチュアリティ)」ということばがよく使われるようになってきました。ここ数年、一種の流行のように扱われることもありましたが、本来キリスト者の信仰生活や霊的深まりは、流行として扱われるようなものではありません。その一方で、霊性ということばを使うこと自体に違和感を覚える人々もいます。この違和感に、マスコミ等で「スピリチュアル」という呼び名でさまざまな話題が取り上げられる傾向が拍車をかけているとも言えるのではないでしょうか。
なぜいま、霊性ということばでキリスト者の信仰生活とその深まりが再検討されているのでしょうか。私自身も二〇年以上にわたって霊性の問題を自分なりに考え続けてきました。そもそもなぜ私がそれについて関心を持つようになったのか、そのきっかけと問題意識から書き始めようと思います。
私が個人的に霊性ということを考え始めたのは、聖書と神学の学びを深めたいという願いと、霊的に成長したいという渇きが私の心の奥底で渦巻いていたからでした。三〇代前半のことです。最初はその飢え渇きが霊性と呼ばれている領域にかかわる問題であるということに気づいていませんでした。しかし徐々にではありましたが、鈍痛のようなこの飢え渇きが、徐々にはっきりしたものとして意識されるようになってきました。それはおもに次の三つの点に整理することができます。
一つ目は、心の奥底にある霊的欠乏感の問題です。私は聖書信仰に立ち、聖書が誤りのない神のことばであり、信仰と生活の最高権威であることを確信していました。その確信はいまに至るまで揺らぐことはありません。その一方で、私自身の内側に言いようのない霊的な欠乏感があり、それを消し去ることができませんでした。
例えば、キリストにあって「圧倒的な勝利者」(ローマ8・37)とされているというのはどういうことなのか。それがみことばの約束する、キリストにある霊的現実であるということを信じて受け入れていましたが、それが私のうちにどのように実現しているのかということについては正直に言って実感が持てませんでした。あるいは、御霊の内住ということについても、聖書に基づく約束として一点の疑いも持っていませんでしたが、「私の内に御霊が内住しておられ、働いておられるということはどういうことか」という疑問がつねにありました。聖書が約束していることを信じて受け入れていましたが、約束された中身を現実味をもって体験できずにいました。
二つ目は、信仰生活における統一感の欠乏という問題です。当時の私は、キリスト者として熱心に教会の奉仕をしながら、都立学校の教員として勤務していました。結婚をして娘が二人与えられ(いまは息子が一人加わっている)、できる限り子育てにもかかわる「元祖育メン」でもありました。さらに夜間授業をしている神学校で週に三日学んでいました。このように社会的にも、家庭的にも、教会的にも充実し、祝福された生活をしている半面で、そのすべてが「統一性」を欠いているように思えてなりませんでした。教会の自分、職場の自分、家庭の自分がバラバラになっていて、つながりを持っていませんでした。
言ってみればそれぞれの場で別人格の自分がそれぞれ別のことを行っていて、「どこにいても『クリスチャン篠原明』」となっていませんでした。学校の教師として一生生きていくか、そこにキリスト教の信仰がどのようにかかわるのか、あるいは直接的な主の働きを求めるのか、統一感をもった自分の将来像が描けないでいました。
三つ目は、みことばに根ざしても心が躍らない場合があることです。これは、私自身を含むキリスト者の生きる姿勢に対するある種の疑問であり、違和感でもあるでしょう。例えば説教においても、聖書研究においても、交わりの場においても、聖書的に正しいことが語られているのに、キリストの愛と恵みが語られているのに、どうして聞く者の心が躍らないことがあるのでしょうか。聖書には、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです」(Ⅰペテロ1・8~9)とあります。なぜ、聖書の正しい説き明かしを聞いているのに、私たちの心がキリストに対する愛と喜びに満たされないことが起こるのでしょうか。
もちろん、これは聞く側の問題が大きいことは間違いないでしょう。正しいことが語られてもそれを受け入れないのは、肉の性質の顕著な表れです。また、聞く者の心が躍ったかどうかが説教を吟味する判断基準になってはならないことはもちろんです。心が躍っても躍らなくても、神のことばは変わりません。いつもみことばを聴いて興奮状態になっていればいいという問題ではないはずです。私が指摘しようとしている問題は、そのようなことではありません。
それまで私は、聖書の正しい解釈が語られても聞く側の心が躍らないのはなぜかというように、自分を「聞く側」に置いて語ってきました。しかし、話はここで終わりません。私が「語る側」になることもあるからです。私が教会で聖書のことばを語るとき、私はたとえ聖書を正しく解釈しているとしても、それを私は心から語っているだろうか。私が語ることばは聞く方々の心に届いているだろうか。さらに言えば、みことばを通して神のお心に触れ、それを私の心で受け止め、その上で聞く方々の心に届くことばで語っているだろうか。そうなっていないのではないかという思いを、私はぬぐうことができませんでした。しかも当時の私は、自分に何が欠けているのかも分からない状態でした。
私は聖書を正しく解釈することの意義と価値を否定しているのではありません。聖書を正しく解釈しようとするときに忘れてはいけないもの、それを私たちは(少なくとも私は)見失っているのではないかと問いかけているのです。
じつはここに挙げたような霊的な飢え渇き、キリスト者としての生き方の統一感のなさ、みことばと心の関係というような問題は、どれも密接に関連しています。このような問題は、キリスト教の歴史の中では「霊性(スピリチュアリティ)」と呼ばれる分野の事柄であることが徐々に分かってきました。私は、霊性の問題についていろいろ調べ始め、さらに深く学びたいと願いました。
しかし、当時の日本の福音派の神学校では、霊性についてまとまって学べる学校は皆無でした(現在では聖契神学校が「霊性の神学」という講座を開設して、霊性の研究と教育を実践している)。その一方で、私が霊性について読んだ本の著者の多くが、カナダのリージェント・カレッジで教えていました。私はリージェントで学ぶことを祈り求め、一九九七年についにその道が開かれました。そしてリージェントでは、私のキリスト者としての生き方を根本的に問い直すような経験が待っていました。その始まりはこうでした。
一九九七年の夏の終わりのある日、私はリージェントでもっとも学びたかった先生の一人、ジェームズ・フーストン(1922~)の研究室を訪ねました。まず私は、フーストンの下で霊性について学ぶために東京都の教員の職を辞して太平洋を渡って来た旨を簡潔に話し、指導を求めました。それに対するフーストンの返答は予想外のものでした。
「君は霊性についての知識を集めるためにリージェントに来たようだ。しかし霊性についての知識は君を霊的にはしない」。
正直なところ、私はフーストンが何を言おうとしているのか、そのときには理解できませんでした。「もっと気の利いたことを言ってくれてもいいじゃないか」とすら思いました。それほど私は霊的に盲目だったのです。
これから私が本書で展開する「福音主義の霊性」を求める対話は、このフーストンとの対話に端を発したものです。
上記内容は本書刊行時のものです。