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驚くべき希望
天国、復活、教会の使命を再考する
原書: Surprised by Hope
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2018年8月
- 書店発売日
- 2018年8月30日
- 登録日
- 2018年11月11日
- 最終更新日
- 2020年8月11日
重版情報
2刷 | 出来予定日: 2019-12-20 |
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紹介
「もしあなたが今夜亡くなったら、天国に行けると思いますか?」
長いあいだキリスト教会は、人々にこう問いかけてきた。 しかし、その天国についての考えは、本当に正しいのだろうか?
著者は、キリスト教の最も特徴的な考えは、 体の伴う復活だと断言する。それが元々の聖書の教えであり、 その先駆けとして、文字どおり体を伴うイエスの復活があった。 それこそが、初期キリスト者の抱いた希望であったのだ。
さらに本書は、将来実現する希望、新しい天と新しい地への聖書的展望を探求する。 また、イエスの再臨と最終的に起こる人々の復活が、 より大きな視野の中でどう位置づけられるかを示す。 創造主である神は、ついには全被造世界を刷新する。しかも、それはイエスの復活によってすでに始まっている。そうであるなら、「魂の救い」のみで満足してはならない。 現在の生活を通して私たちが神の王国のために働くことは、 世界に癒しと希望をもたらす、天と地の刷新の先取りとなるのだ。
活気に満ち、読むほどに引き込まれる本書は、 生きる意味を探究しているすべての人に、 新鮮な驚きと心躍る感動を与えるに違いない。
目次
まえがき
第Ⅰ部 舞台設定
第1章 正装したのに行く場所がない?
1 はじめに
2 希望についての混乱 ──より広い世界
3 さまざまな見解
第2章 パラダイスとは何なのか
1 希望に関するキリスト者の混乱
2 選択肢を探る
3 混乱がもたらす影響
4 混乱がさらにもたらすもの
5 鍵となる問い
第3章 歴史的背景の中で見る初期キリスト者の希望
1 はじめに
2 古代の異教とユダヤ教における復活と死後のいのち
3 初期キリスト者が抱いた希望の驚くべき特性
第4章 イースターの奇妙なストーリー
1 前例のない話
2 イースターと歴史
3 結論
第Ⅱ部 神の将来の計画
第5章 宇宙の将来・進歩、それとも絶望?
1 はじめに
2 選択肢⑴── 進化論的楽観主義
3 選択肢⑵── 魂の移動
第 6章 世界全体が待っているもの
1 はじめに
2 希望の根本的構造
3 種まきの時期と収穫
4 勝利に満ちた戦い
5 天の市民── 地に入植する
6 神のみこころが、すべてにおいてすべてに
7 新しい誕生
8 天と地の婚姻
9 結論
第7章 イエスと天と新創造
1 昇天
2 「再臨」はどういうことか?
第8章 イエスが現れるとき
1 はじめに
2 来臨、出現、啓示、王なる臨在
第9章 来るべき審判者なるイエス
1 はじめに
2 再臨とさばき
第10章 体の贖い
1 はじめに
2 復活──「死後のいのち」の後のいのち
3 コリントにおけるよみがえり
4 復活── 後の論争
5 復活についての再考── 誰が、どこで、何を、なぜ、いつ、どのように
第11章 煉獄、パラダイス、地獄
1 はじめに
2 煉獄
3 パラダイス
4 希望と悲哀の先にあるもの
5 結論── 人間のゴールと新創造
第Ⅲ部 希望の実践── 復活、そして教会の使命
第12章 救い再考── 天と地と神の王国
1 はじめに
2「救い」の意味
3 神の王国
第13章 王国のために建設する
1 はじめに
2 正義
3 美
4 伝道
5 まとめ
第14章 教会を宣教のために整える ⑴ ─聖書的ルーツ
1 はじめに
2 福音書と使徒行伝
3 パウロ
第15章 教会を宣教のために整える ⑵ ─将来を生きる
1 はじめに─イースターを喜び祝う
2 空間、時間、物質─贖われた被造物
3 復活と宣教
4 復活と霊性
A 新生と洗礼
B 聖餐
C 祈り
D 聖書
E 聖さ
F 愛
補遺 イースターでの二つの説教
解説
訳者あとがき
著者注・参考文献
前書きなど
まえがき
私たちは何を待っているのだろうか。待っているあいだ、私たちは何をすればいいのだろうか。
この二つの問いが本書の軸である。それは第一に、キリスト教の福音が究極的な将来の希望として差し出しているもの、すなわち「救い」「復活」「永遠のいのち」と、それに伴う他のさまざまな事柄に関わるものである。第二に、現在の世界で希望を見いだすこと、すなわち何らかの理由で希望が持てない共同体や個人にとって、希望が現実的なものとなるための具体的な方法に関わっている。さらに、将来の希望をしっかりと抱くことが、どのように現在の世界における希望を生み出し、それを維持することを可能にするのか、またそうあるべきなのかという問題も考察する。
私の見てきたところでは、キリスト教が差し出す究極的な将来の希望が本当はどういうものか、ほとんどの人は分かっていない。キリスト者の多くでさえそうだ。現在における希望についても、キリスト者に何か語れることがあると思っている人はほとんどいない。残念なことにキリスト者でも同じである。ほとんどの人は、キリスト教が提示する将来の希望と現在における希望に、何らかの関係があるとは想像もしていない。本書の題名を『驚くべき希望』にしたのはそのためだ。希望とは思いがけない形で、いくつかの次元で同時にやって来る、という意味である。
一つの次元は、言うまでもなく死である。本書は、死と死の先にあるものについて、キリスト教的観点から考える。死と死後の状態についての身体的、または医学的分析を試みるわけではない。死にまつわる信念や慣習を、心理学的あるいは人類学的に記述するのでもない。そのような事柄を扱う書物はすでに多数存在する。本書で試みるのは、この問題を聖書学者の観点から考察することだ。他の分野も参考にするが、他の分野では往々にして欠けていた部分を埋められたらと願う。また、教会が取り戻す必要があると私が確信するものも提供したい。すなわち、死と死後の問題に対する古典的なキリスト教の答えである。その答えとは、最近の人々は(社会でも教会でも)もはや信じなくなったものというよりは、単に知られていないだけなのだ。
一九九五年にイギリスで、死後のいのちをどう信じるかという調査が行われた。それによると、ほとんどの人が何らかの形での死後のいのちを信じていたものの、死後の体のよみがえりという古典的キリスト教の立場を信じる人たちは、ほんのわずかだった。教会に通っている人たちの間でさえ少なかった。実際、キリスト者たちが「復活」という言葉を用いても、「死後のいのち」や「天国に行くこと」と同義である場合が多い。それらについてさらに突っ込んで尋ねると、この件に関してさまざまな混乱があることが分かってくる。キリスト教徒の著述家でさえ、死の問題を取り上げるとき、復活とそれに関わるあらゆる事柄をほとんど無視することがある。まるで、復活を無視したからといって、大した害はないと思っているかのようだ。
ところで、死の問題について語るのに、私はある意味ふさわしくない者であることを断っておく。私は現在五〇代後半〔原書初版二〇〇七年当時〕だが、この歳で私ほど家族や友人に先立たれた経験の少ない者は珍しいだろう。これまでの私の人生は、悲劇的な出来事と驚くほど無縁だった。親戚のほとんど全員が長生きしている。これにはわれながら驚くし、感謝もしている。しかし、それが当然だとは決して思っていない。さらに、大学や司教座や司教区での働きに導かれたため、司祭に任じられて三〇年以上になるものの、私がこれまでに執り行った葬式や追悼式は、通常の聖職者なら就任後二、三年のうちに経験する回数よりはるかに少ない。臨終の場に立ち会ったこともほとんどない。確かに、実際の経験によって学べるものは多くある。しかし私は、経験が足りない分、初期のキリスト者の生活や考え方に深く浸ることで(そういう機会のある人は多くない)、埋め合わせをしてきたと思う。
その体験を通して私は何度も思わされた。初期のキリスト者の声は、受け入れてもらえなかったというより、そもそもまったく聞かれてこなかったのではないか、と。そこで本書では、彼らの信じていたことに再び光を当て、願わくば生き返らせることを目指している。初期のキリスト者が信じていたことは、最も望ましい希望であるばかりか、最も確かな希望であり、すでに述べたように、それは現在における神の王国のための働きを活気づけることにつながる、と確信するからだ。
もう一つの次元は、実践神学、さらには政治神学に関わってくる。私たちの住むこの痛みに満ちた現実の世界に神の王国をもたらそうとするなら、課題にぶつかることは避けられない。本書では、その課題の本質をキリスト教の観点から省みるとき、土台となるべきものを考察する。(本書は、死、さばき、天国と地獄などを扱う「終末論」に分類されるのか、あるいは「政治学」に分類されるのか混乱するかもしれないので、図書館司書の方たちにお詫び申し上げる。)ここでも断っておくが、職務上、私は英国貴族院に属すが〔執筆当時〕、政治家ではない。公職に立候補したこともなければ、私が大切だと思う大義のために、講演や執筆、デモ行進、説得活動などの形で政治運動に積極的に参加したこともない。それとは違う方法で力を尽くしてきた。
しかし、私の専門とする研究テーマと、牧会者として日々直面する状況とによって(私の教区には過去五〇年間にわたり、社会構造がもたらした悪によってひどく苦しめられてきた地域があった)、ある確信が強まってきた。それは、公共世界・政治世界における希望を再発見することについて、キリスト者として何を語り、どう考えるべきか、熟考する必要があるという確信である。そうする中で、究極的な将来の希望といまある世界での希望という二つの主題が結びつくことに、何度も気づかされた。私は死別の悲しみにも政治にも経験が浅いので、それゆえに私を批判する人はいるだろう。しかしそれでも、この両方の領域において、死に直面している人や寄るべのない人と共に働く人たちに、キリスト教の驚くべき希望がいままで以上の新たな活力と励ましを与えることを願う。
もうひと言付け加えたい。多くの経済学者や政治家が言うように、将来について語るとは、霧の中を指し示すいくつかの道しるべでしかない。パウロがこれから起こることをかいま見たときに言ったように、私たちは鏡を通してぼんやりと見ているに過ぎないのだ。そのため、将来の世界の状態や私たちの姿について語ろうとしても、どうしても分かりにくい描写になってしまう。しかもその描写は、究極的に訪れる現実に必ずしもぴったり対応するとは限らない。しかしだからと言って、それが当てずっぽうでしかないとか、何を言っても同じだという意味ではない。そして、もしもその霧の中から、私たちに会うために誰かが現れたとしたらどうだろうか? これまでずいぶん見過ごされてきたが、それこそキリスト教信仰の中心にあるものなのだ。
上記内容は本書刊行時のものです。