書店員向け情報 HELP
「艦砲ぬ喰ぇー残さー」物語
「でいご娘」と父・比嘉恒敏が歩んだ沖縄
- 初版年月日
- 2015年10月
- 書店発売日
- 2015年10月9日
- 登録日
- 2015年10月7日
- 最終更新日
- 2016年8月9日
紹介
沖縄・昭和の名曲をめぐる感動のドキュメンタリー。
私たちはみんな艦砲射撃の食い残し……。この強烈なフレーズ、沖縄民謡4姉妹「でいご娘」が歌う「艦砲の歌」は、沖縄の「いくさ世」、そして戦後を生き抜いた沖縄人なら誰もが口ずさんだことのある民謡である。「でいご娘」は沖縄で知らない人がいない4姉妹だ。その歌が今あらたに「希望をつなぐ歌」として歌われている。艦砲射撃の食い残し……、沖縄の戦後をものの見事にいいあてたこの歌には、ひとりの男の壮絶な半生がこめられていた。そしてそれはある家族の歴史、さらに沖縄の戦後を浮き彫りにする、戦後70年、いまこそ語られるべき物語である。
目次
序 章 誰があぬじゃま しー出ちゃら 県民大会の「艦砲ぬ喰ぇー残さー」
第一章 若さる時ねー 戦争ぬ世 ふるさと読谷・楚辺~いくさ世の前
歴史をたどる「一号線」 22 ふるさと楚辺~いくさ世の前
恒敏は評判の「てぃーぐまー」(手先の器用な人)だった
第二章 艦砲射撃ぬ的になてぃ いくさ世の相次ぐ悲劇
大阪出稼ぎ 対馬丸に乗船した両親と長男
両親、妻、子供たちすべてを失う 弟・恒健のいくさ世
「山上門」家一族の帰郷
第三章 神ん仏ん 頼ららん 戦後の再出発
恒敏の再婚~知花シゲとの出会いと帰村~
「戦果」 強制立ち退き
第四章 笑い声聞ち 肝とぅめーてぃ 「でいご娘」誕生
肝とぅめーてぃ~こころ穏やかに生きる~ 芸の道
がんこ親父の無手勝流 恒敏とフクバル節
辰年生まれの「生年祝い」~恒敏の舞台づくり~ でいご娘の公演
第五章 「ワッターヤ カンポーヌ クェーヌクサ ー」 「艦砲の歌」誕生と父母の死
「私らはみんな、艦砲の喰い残し」 知花家のいくさ世
ウチナーグチの世界 うっちぇーひっちぇーの人生~恒敏・シゲの死
残されたでいご娘たち 普久原恒勇との出会い
「戦後の民謡で一曲を選ぶとすれば、間違いなくこの曲」
でいご娘、初のレコード、次々とヒット曲誕生
第六章 平和なてぃから幾年か それぞれの「艦砲の歌」
「戦争に消えた古里」有銘政夫 ~私と「艦砲の歌」その一~
「苦難の道を共に」大湾トキ ~私と「艦砲の歌」その二~
第七章 恨でぃん 悔やでぃん 飽きじゃらん 恒敏の推敲ノート
歌詞を推敲したノートが見つかる 何度も書き換えられた歌詞
ウチナーグチのイメージが広がる歌詞へ 最も推敲を重ねた五番の歌詞
「技巧を尽くした、スキのない歌」
第八章 子孫末代 遺言さな 次代への伝言
若い世代へつなぐ「艦砲の歌」 「父の礎」歌碑建立
娘たちは今……それぞれの「道半ば」
長女・島袋艶子 二女・国場綾子
三女・普久原千津子 四女・比嘉慶子
終 章 「有てぃん喜ぶな 失てぃん泣くな」 希望をつなぐ歌
歌のチカラ 時代を映す歌
沖縄をこえて繋がる「喰ぇー残さー」たち 歌の広がり~歌い継ぐ艦砲の歌~
比嘉恒敏・でいご娘関連年表 でいご娘プロフィール
あとがき 主な参考文献
前書きなど
「艦砲ぬ喰ぇー残さー」、艦砲射撃の喰い残し。沖縄戦の激しい戦火から生き残った人間を、艦砲射撃が喰い残したもの、と表現する。
アメリカ軍の猛烈な爆撃にさらされた沖縄、人々は「鉄の暴風」が吹き荒れたと言った。そして、その鉄の暴風からかろうじて生き残った者、生き残された者を艦砲射撃の喰い残し、「艦砲ぬ喰ぇー残さー」と、これまた強烈な言葉で表現する。
その強い言葉が沖縄民謡のタイトルとなり、時代を超えて歌い継がれてきた。
一番から五番までの歌の最後に繰り返されるフレーズ。
うんじゅん 我んにん
いゃーん 我んにん
艦砲ぬ喰ぇー残さー
あなたもわたしも おまえも俺も 艦砲の喰い残し。
吹き荒れた鉄の暴風からも、艦砲射撃からもかろうじて生き残ったあなたとわたし。
でいご娘の「艦砲ぬ喰ぇー残さー」がレコーディングされたのは1975(昭和50)年で、今年でちょうど40年になる。
歌詞も歌い方も当時と変わっていない。しかし、父の形見のこの曲を歌い継いできたでいご娘にとって、人々がこの歌から受けるメッセージは、時代とともに変わってきている、と感じている。そのことはまた、それを歌ってきた自分たちも変わってきた、という感慨でもある。
歌は時代を映す鏡であり、その歌を創り出し、歌う人々の人生をも映し出してきた。
単純に「歌は世に連れ、世は歌に連れ」と言い古された言葉では表されないものが、この歌には込められている。
なぜ「艦砲ぬ喰ぇー残さー」が今なお人々の心を揺さぶるのか。
「艦砲ぬ喰ぇー残さー」
作詞・作曲 比嘉恒敏 訳詞 朝比呂志
一、若さる時ねー戦争ぬ世 若い時分には戦争ばかり
若さる花ん 咲ちゆーさん 若い花も咲かずじまい
家ん元祖ん 親兄弟ん 家屋敷 ご先祖 肉親
艦砲射撃ぬ的になてぃ 艦砲射撃の的になってしまい
着る物 喰ぇ物むる無ーらん 衣食何もかも失い
スーティーチャー喰でぃ 暮らちゃんやー ソテツの実を糧にして 暮らしを立てたもの
*うんじゅん 我んにん あなたもわたしも
いゃーん 我んにん おまえもおれも
艦砲ぬ喰ぇー残さー 艦砲の喰い残し
二、神ん仏ん 頼ららん 神も仏も頼れず
畑や金網 銭ならん 田畑は金網囲いで日銭にもならず
家小や風ぬ うっとぅばち ボロ家なんぞ暴風にいかれ
戦果かたみてぃ すびかってぃ 米軍のくすね物で捕まり
うっちぇーひっちぇー むたばってぃ したたかにいたぶられ
肝や誠る やたしがやー (沖縄人の)心がけは正直なれど…
*くりかえし
三、泥ぬ中から 立ち上がてぃ 泥の中から起ち直り
家内むとぅみてぃ妻とぅめーてぃ 家みたいなもの建て妻をめとり
産子ん生まりてぃ 毎年産し 子供も生まれ年子つづき
次男 三男チンナンビー 次男三男つぎつぎ(ぞろぞろ)と
哀りぬ中にん童ん達が 苦難の道ではあれ
笑い声聞ち 肝とぅめーてぃ 子らの笑い声に心を落ち着かせる
*くりかえし
四、平和なてぃから 幾年か 平和の世を迎え何年経ただろうか
子ぬ達ん まぎさなてぃ居しが 子らも成長していくと
射やんらったる 山猪ぬ 射ち損ないの猪が
我が子思ゆる如に 我が子案じるごとく
潮水又とぅ んでぃ思れー (苦い)潮の水は二度との想いで
夜ぬ夜ながた 眼くふぁゆさ 夜っぴ眠れぬ日もあり…
*くりかえし
五、我親喰ゎたる あぬ戦争 我が親喰らったあの戦
我島喰ゎたる あぬ艦砲 我が島喰らったあの艦砲
生まり変わてぃん 忘らりゆみ 生まれ変わったとて忘れるものか
誰があぬじゃま しー出ちゃら 誰があのざまを始めた
恨でぃん 悔やでぃん 飽きじゃらん 恨んで悔やんでまだ足りない
子孫末代 遺言さな 子孫末代遺言しよう
*くりかえし
全編ウチナーグチで綴られた歌詞。
艦砲射撃でやられ、すべてを失い、ソテツの実を食べて生き抜いた様子からはじまり、アメリカ軍の占領下でのきびしい暮らし。貧しいながらも子供が次々と生まれてやがて大きくなっていく。しかし、それでも心落ち着くことはできない。またぞろ忍びよる再びのいくさ世への恐れを感じつつ、いくさ世の苦難の時代を末代まで語り継ごうと歌う。
「艦砲ぬ喰ぇー残さー」には、数奇な生涯を送った、でいご娘の父・比嘉恒敏の「沖縄」が綴られている。比嘉恒敏のその生涯をたどっていけば、個人的な物語で終わることなく、いくさ世を生き抜き、戦後の過酷な「沖縄」で生きたすべての人々に通底する物語となる。
比嘉恒敏によって作られた「艦砲ぬ喰ぇー残さー」は、どのようにして生まれ、父の形見の歌を娘たちはどのような思いで、歌い継いできたのだろうか。そして、今何故この歌は新たなる注目を集めているのだろうか。
沖縄のいくさ世と戦後の苦難を歌った名曲をめぐる家族の物語。
「艦砲ぬ喰ぇー残さー」、それは、鉄の暴風を生きぬいたウチナーンチュたちの戦後が何であったのかも浮き彫りにする歌だった。
版元から一言
『艦砲ぬ喰ぇー残さー』。艦砲射撃の食い残し……、沖縄の戦後をものの見事にいいあてたこの歌には、沖縄の魂ともいえる想いが込められている。ぜひ多く方に手にしてほしいノンフィクション。
上記内容は本書刊行時のものです。