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ドイツ語のヘクサメタ
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2021年3月25日
- 書店発売日
- 2021年3月30日
- 登録日
- 2021年3月11日
- 最終更新日
- 2021年3月18日
紹介
近代ドイツ詩における古典韻律の取り込みを、形式的な因習の模倣ではなく、創造的な異文化交流による言語混交プロジェクトとして読み解く。
目次
序論
改造者たち
ステレオタイプ
ゲルマンの巨人戦争
よみがえる古代――英語にできなくてドイツ語にできること
なぜヘルダーリンは二流なのか
古典というプロジェクト
シュティルナーが「俺」性について語るとき
強い芸術
第1章 ドイツ語という長短アクセント言語
1–1 強弱という虚構
1–2 1万行の法則
1–3 機械の音、生命の音
1–4 それはほんとうに自然なのか?
1–5 ある言語融合実験の諸相
1–6 詩は音楽だった
1–6–1 3拍子のゲーテ、4拍子のプラーテン
1–6–2 究極の古典主義
1–6–3 千行の韻文をボーテとし、万行の韻文をフォスとす
1–7 誰も知らないイリアス
第2章 リズム狂騒の世紀
2–1 正義v.s.ロマン
2–2 詩の科学
2–3 衝撃と畏怖
2–4 強き者よ
2-4-1 舌鋒家
2-4-2 どこからが「詩」なのか?
2-4-3 教科書に載ったフォス
2-5 意識の極北で
第3章 オリジナルを超える
3-1 男たちの王国
3-2 caesura post quartum trochaeum
3-3 音と暴力
3-3-1 ニーチェの韻律論
3-3-2 膨張性重力
3-3-3 リズムが歪み、フレーズが伸び縮みする
3-3-4 「カデンツァが壊される」!!
3-4 詩の死合
3-4-1 臨界と超人
3-4-2 創造的コピー
終章
マタイ効果
異文化とはオープンソースである
ヘクサメタ2.0
あとがき
文献表
前書きなど
●本書「序論」より(抜粋)
18世紀の後半、言語改革者の詩人Fr・G・クロプシュトック(1724–1803)が、古典韻文を応用した文学ドイツ語を構築し、続いた人々が、ギリシャ語・ラテン語を用いて新高ドイツ語の改造実験をしていた(本書の中で「ギリシャ語」と書くものはすべて古代の古典ギリシャ語のことであり、それ以外の例えば現代ギリシャ語等のことでない。「ラテン語」と書くものも同様、中世ラテン語等のことでない)。
これらの古典語は、たしかに、当時のヨーロッパでは学校教育の範囲内で学ばれうるものであって、まれで特殊な学習項目というものではなかったが、とはいえ、詩人たちがしていたことは、言語の問題として言い直せば、古代ヘレニック語派/古代イタリック語派/近代ゲルマン語派という時空を超えた3語派にまたがる言語混交、そのような稀で特殊な営為であった。
言語混交といえば、例えば、異言語の文献を自言語のシンタックスで読解する漢文訓読、意思疎通のための折衷言語ピジン、ギリシャ語の韻文を模倣していたラテン語、ミチフ語などの混成言語、異言語の過剰移入とされるオスマン語、外語語彙が流入しすぎている現代英語、といった例がある。こういったものの中で、本書が描く営為は、異言語の論理と方法を取り込んで表現を深化させようという明確な目的があり、異質な言語に沈潜することで逆説的に自言語の文学を開拓しようとする、非日常的で特殊なものであった。ではあるが、広く見れば実に400年間以上続いていたものであり、19世紀には、代表的なドイツ語詩人のほとんどを巻き込んでいた。記録的な量のテキストをうみだしており、比較的知られた作品だけでも、15万行を超すドイツ語版ヘクサメタ詩行が書かれていた。
本書を読むと、音節単位に視野を絞った議論に対し、なんとこと細かなことに拘泥するのかという印象を受けるかもしれないが、それはこの分野に通じていないがゆえの印象という面もあって(通じていない人には、どういった分野での営為であっても、なぜそのようなことが大事なのかが皆目わからない重箱の隅つつきに見えてしまうものだ)、実際は、数世紀にわたって、韻律・翻訳・歴史・言語・教育等の方面から膨大な文献が言葉を費やしていた分野である。
それを一言で呼ぶなら、一応„Klassizismus“ということになる。英語(classicism)と同じような語だが、「(擬) 古典主義」等と安易に邦訳してしまうと、原語の含みが損なわれるから、原語のまま提示する。この語だけでは、バロックやロココに反発する造形芸術などのことだったり、特にフランスのことを念頭に置いていたりするし、ワイマール古典主義を„Weimarer Klassizismus“と表記したりもする。一方、特にクロプシュトックおよびその前後の人々を„Klassizisten“と呼び、特にその古典模倣運動を指して„Klassizismus“と呼ぶことがある。(中略)字面を見てのとおりクラシックや古典という意味ではあるが、その方面に偏りすぎているという非難がこもっている。つまり、擬古調であるとか古典偏愛であるとかいった意味。古典の世界に沈潜しすぎているのである。沈潜していたのは、自言語の可能性を拡げようという言語改造プロジェクトだったからであるが、そういった積極的な面は看過されてきた。もし看過せずに着目すれば、もし、古典趣味に耽っていると忌み嫌われてきた人々の意図と論理を見定めれば、どのようなことが言えるであろうか。
上記内容は本書刊行時のものです。