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引き裂かれた身体
ゆらぎの中のヘミングウェイ文学
- 出版社在庫情報
- 品切れ・重版未定
- 初版年月日
- 2008年5月
- 書店発売日
- 2008年5月23日
- 登録日
- 2010年2月18日
- 最終更新日
- 2017年9月7日
紹介
ヘミングウェイは生涯、身体を描きつづけた作家でした。作家生活の最初期から、最晩年の未完成の作品にいたるまで、彼の関心は終始人間の身体に向けられていたのです。「未開」の地で出産する女性の身体、戦場で近代兵器によって粉々にされる兵士の身体、突進してくる牛に剣を突き立てる闘牛士の身体、アフリカの平原で壊疽に蝕まれる身体、性病に感染して肉が崩れ落ちつつある娼婦の身体、あるいは老いて思い通りに動かなくなった漁師の身体……。ヘミングウェイ作品には身体の描写が満ちあふれています。
そして興味深いのは、それらの描写からかいま見えるヘミングウェイの身体観なのです。
ヴィクトリア朝期アメリカのいわゆる「お上品な伝統」の中で、旧弊な価値観を持つ厳格な両親に育てられ、二〇世紀の新しい価値観を目の当たりにしながら青年時代を過ごしたヘミングウェイ。彼は、ちょうどこのふたつの価値観の過渡期に作家生活を始めました。彼の作品には古い世代に対する反抗心と、新しい価値観に対するあこがれが色濃く映し出されていますが、その一方で自らの生まれ育ってきた古い時代の価値観を捨て去ることもできませんでした。表面上は新しい時代の作家として二〇世紀的価値観を唱道しているように見えながらも、その背後にはどうしてもぬぐい去ることのできない父親たちの価値観が強固に根づいているのです。いわば新しいものを求めながら、新旧の価値観の狭間で葛藤し、ゆれ動いていた――そういう意味でヘミングウェイ作品に現れる身体は、常に引き裂かれています。
本書は身体の問題を中心に置き、ヘミングウェイが新しい時代の身体観と、それまで生まれ育つ間に植えつけられた旧弊な身体観とに引き裂かれ、苦しみながら作品を生み出していったさまを描き出す試みです。最初に伝記的事実を簡単にふまえた上で、四つの個別の問題系からヘミングウェイ作品を読み直します。まずは二〇世紀初頭、アメリカだけでなく全世界に圧倒的な影響を与えた第一次世界大戦と、その結果としての新しい身体観の問題を。次に痛みの問題、すなわち麻酔テクノロジーや道徳的麻痺の問題。そして三つ目に梅毒を始めとする性病とそれにまつわる性描写の問題。最後にファッションとしての髪型とジェンダー形成の関わりの問題をとりあげます。
目次
はじめに
Ⅰ ヘミングウェイ、その人生と身体
1.身体をめぐる伝記の試み
戦争へのあこがれ/戦場にて/母親との確執/ヨーロッパ特派員/死と誕生/作家として/日はまた昇る/キーウェストへ/武器よさらば/忍び寄る文学的停滞の影/サファリ/政治と文学/マーサ・ゲルホーンとスペイン市民戦争/誰がために鐘は鳴る/第二次世界大戦/メアリとの結婚生活/老人と海/二度目のサファリ旅行と飛行機事故/自殺
Ⅱ 「自然な身体」の誕生
1.大腸をぶら下げた兵士の身体
なぜ兵士の大腸ははみ出ているのか/新しい身体観/戦場での身体の前景化/断片化された身体の目撃/身体の変形とコントロール不能/アイデンティティの危機/身体の修復とアイデンティティの回復/「奴の」身体/新しい身体観へのとまどい
2.矯正される身体
身体の修復と美容整形/「自然」という身体の規範/身体の個性の消滅/術前・術後/回復された「自然」/機械テクノロジーに支配された身体/戦後の身体塑型ブーム/「自然」というイデオロギーに捕らわれた時代
3.機械の立ち入らない聖域
戦場と機械/機械なき町の隠喩/ニックのアイデンティティ/虚構化されるニック/規範を外れたニック
4.老いた身体
「自然」というイデオロギー/「自然な身体」の希求/マカジキとの同一化/ヘミングウェイの「不自然」な身体/身体的欠陥へのおびえ
Ⅲ 痛みと麻酔のレトリック
1.麻酔をかけられた身体
出産の場に起こった二度の変化/出産を目撃したヘミングウェイ/医療テクノロジーと「インディアン・キャンプ」/医学への拒否感/人種的偏見と原始主義/麻酔の持つ意味/ヘミングウェイの麻酔観/ゆらぐ医学テクノロジーへのまなざし
2.麻痺する世代
ジョイスの描く麻痺の感覚/文明批判としての麻痺/麻痺してゆく人々/麻痺してゆく兵士の神経/「痛み」に苦しむ将校/麻痺という自己防衛/アルコールという麻酔/妄想による感覚の麻痺/失われた世代の麻痺した人々/行き詰まるジェイクとブレット/麻痺からの脱却
3.麻痺からの脱出
麻痺の始まり/「痛みの研究」/人民のアヘン/麻痺した人々/麻酔なき手術/痛みのない死/痛みの回想/痛みの喪失
Ⅳ ヴィクトリア朝性道徳、性の解放、梅毒
1.禁欲主義か快楽主義か
梅毒にとりつかれた時代/梅毒による性の規範化/ヘミングウェイの描く梅毒/快楽主義者の仮面/禁欲主義と性病への恐怖/規範化への抵抗/禁欲主義の軛/ヴィクトリア朝梅毒文学の構図/ゆらぐ価値観
2.神の怒り
性の解放からのゆり戻し/「ミシガンの北にて」をめぐる検閲の問題/性的規範の維持/抵抗でなくなった抵抗/梅毒啓蒙文学『傷もの』/梅毒をめぐる沈黙/「ある読者の手紙」/沈黙の社会的共犯関係/『傷もの』と「ある読者の手紙」の類似点
3.あの恐ろしい肉欲
ピューリタンの末裔/罪という快楽/罪の意識の否定/梅毒は労働災害/リナルディの女性観/「女」と「女の子」/アングロサクソンの良心の呵責/労働災害というレトリック/「世の人忘るな」のピューリタニズム批判/ホーラスの沈黙と沈黙の犠牲者/消えることのない罪の意識
Ⅴ 男らしさからの脱却
1.髪と去勢
ヘミングウェイと髪の描写/女性の髪への戒め/ショートヘアの革命/ヘミングウェイの描くショートヘア/妊娠か妊娠願望か/髪型への執着/髪型と妊娠/妻を「去勢」する夫
2.女性性を求めて
男性の髪型/女性性への歩み寄り/女性化する男性主人公/女性の語りの獲得/男性性への逆戻り/女性という役割への不満/ジェンダー・アイデンティティのゆらぎ/妻による夫の「去勢」
おわりに
上記内容は本書刊行時のものです。