書店員向け情報 HELP
出版者情報
書店注文情報
在庫ステータス
取引情報
近代の虚妄と軋轢の思想
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2019年12月
- 書店発売日
- 2017年12月11日
- 登録日
- 2017年11月9日
- 最終更新日
- 2017年12月6日
紹介
長年にわたり近代思想と近代化にこだわり続け、近代化の限界を確信した著者が近代思想に抗する思想を作家論という手法を用いて論じた書。
本書でとりあげた人物は橋川文三、竹久夢二、岡倉天心、柳田国男。
そして、二部にあたる後半では天皇制、祟りの思想をとりあげ、「祖先崇拝と御霊信仰」について、さらに大学教員を務めた著者が教学と大学行政の立場から発してきた「教養」の問題を論じた「ふたたび『教養』を考える」へと続き、「阿呆のつぶやき」はある学術雑誌の編集後記を時系列に集めたもので、著者の思想史研究の精神が垣間見える。
目次
まえがき 6
橋川文三私見
(一)日本浪曼派・昭和維新
橋川文三ふたたび 12
日本浪曼派への接近 14
「日本浪曼派批判序説」 17
イロニー 24
保田与重郎と「米つくり」の思想 26
保田与重郎の「絶対平和論」 31
昭和維新への思い 34
朝日平吾の精神 35
渥美勝と昭和維新 42
阿呆吉 47
(二)保守主義
橋川の思想のスタンス 52
K・マンハイムの保守主義認識 56
フランス革命とE・バーク 58
E・バークの保守主義の内容 62
日本の保守主義の源流 66
村上一郎と草莽
松本健一の村上評価 76
草莽とは 77
社稷 80
権藤成卿の「自治民範」 81
パトリオティズムとナショナリズム 84
渡辺京二の権藤評価 86
北一輝論 90
竹久夢二と悲哀
(一)弱者への眼差し
細井和喜蔵の「女工哀史」 102
夢二と荒畑寒村 111
秋山清の夢二評価 114
強者の論理に対峙する「めめしさ」 116
まつろわぬ者として 121
夢二と社会主義 124
「家」と「個人」の問題 127
夢二と故郷 128
(二)関東大震災直後の夢二の眼
関東大震災と夢二 134
坂口安吾の「堕落論」 138
自警団 140
仲秋名月 147
子夜呉歌 149
岡倉天心のアジアによせるおもい
福沢諭吉と岡倉天心 154
アジアは一つ 156
ヨーロッパ文明とアジア文明 159
ヨーロッパの栄光はアジアの屈辱 160
中国・インドの旅 163
天心と日本浪曼派 167
故郷喪失とナショナリズム
-柳田国男の場合-
故郷とは 174
柳田国男にとっての故郷 177
安永寿延の柳田の故郷喪失論 182
柳田の郷土研究 184
農民と常民 186
松永伍一の「籠り」の思想 189
神社合併政策 191
祖先崇拝と御霊信仰
祖先崇拝と天皇制 200
日本の精神史にみる「祟りの思想」 204
御霊信仰と天皇制 211
ふたたび「教養」を考える
日本近代と大学 216
新制大学における「一般教育」 218
職業的専門教育と一般教育 222
一般教育実施のための前提 226
老荘の思想と教養 233
唐木順三の教養論 234
阿呆のつぶやき 242
あとがき 269
初出一覧 274
前書きなど
まえがき
危惧の念を抱いていたことが、やはり現実となってきている。
焦土と化した日本列島の中で、草を食み、泥水を飲み、露命をつないだ私たちが生命をかけて獲得したものはなんであったのか。
それは肉体化、土着化しない軽薄な民主主義や平和主義ではなかったはずである。ところがである。その軽薄と呼んだ民主主義や平和主義までもが、潰されようとしている昨今である。暗黒への道が私たちを待っている。
いま「私化優先」の「哲学」は燎原の火のごとくすさまじい。「死」の淵から覗く「生」はなく、枯渇することを知らぬかのような「生」の豊熟に酔う風景の連続がある。
人としての道は軽蔑され、何かのために、ということは嘲笑の的とさえなっている。こういう雰囲気のなかで現代人は生きている。
それこそ嘲笑にあたいすることであるが、この雰囲気によって、体制批判が可能となると思っている「知識人」は多い。
「公」に不忠であることが善で、「私化」の方向のみが旧制を打破し、明るい未来を切り開くものだとの信仰は、思いのほか人気を維持している。自分を犠牲にするという散華の精神を放擲することによってしか、未来はないかのように高揚する人たちもいる。
散華することを批判し、嘲笑することは、安っぽい近代主義でも可能である。
絶対死に向かう情念の根源にあるものを、単純に捨ててはなるまい。エゴを一方的に拡張していけば、いつの日か、明るい未来が到来するなどと考えてはならない。
断崖絶壁に立ちながら、権力からも、民衆からも見放され、しかもなお、敢然と進まねばならぬ草莽の決断など、そういう類の人にはわかるまい。
禁欲を伴わないエゴの拡張、追求というものは、それがどのような仮面をかぶろうとも、体制順応のかたちで終結する。
いま、日本人の多くが牙をむくことのない順応と平和の快適さを実感として持ってしまった。にせものの個人主義や自我の確立というもので「進歩的文化人」として通用することも知ってしまった。
現在、マス・メディアを媒体にして「知識人」、「文化人」ぶりを誇っている厚顔をみればいい。
「仁」も「義」もない彼らの生活の論理が、国家支配の論理を超えられるはずもないが、彼らの心中にはそのことを希求する気力も精神も、はなからありはしない。
滅びの美学というものが、われわれの内面の恥部の一部であることを承知しながらも、それではそれにかわりうるものをわれわれは、いまもっているのか。
散りゆくものの美しさに酔うことで安心してはならぬが、散りゆくがゆえに美しいとする思いを打ち消すことができるか。この思いを超克するものが発見できぬかぎり、それが狂であれ、愚であったとしても、私はそこに回帰するしかない。
これまで私は多くの人物を研究の対象にしてきた。社会運動家もいれば、作家も学者も、思想家、宗教家もいた。これらの人たちは、それぞれ独自の世界をもち、独自の思想を創造しながら生きた。同じ方向をむいてはいない。共通したものがあるとすれば、それは日本の近代化のなかで、もがき苦しみ、果敢に闘い、挫折し、敗北していった人たちであるということである。なかには、荒波をくぐりぬけ、巧妙に生をつないだ人もいる。
本書では第一部として、橋川文三、村上一郎、竹久夢二、岡倉天心、柳田国男に照明を当ててみたいと思う。
まず、『日本浪曼派批判序説』を著した橋川文三については、昭和維新と日本浪曼派、そして保守主義にふれた。橋川に情念を生み出させたものはなんであったのか。
次は『北一輝論』『草莽論』で評価の高い村上一郎をあげる。村上の草莽はいよいよもって、これから静かに深く潜行してゆくであろう。
竹久夢二については、彼の描く弱々しい女性が、細井和喜蔵の『女工哀史』に登場する女性に、どこかつながっているように私には思える。(このことは秋山清も指摘している)また、夢二が都新聞に連載した「東京災難畵信」(二十一回)に着目し、関東大震災の直後の惨状をどのように伝えたかを掘り下げることによって、夢二の社会認識の鋭さに注目した。
福沢諭吉とある意味で対極にあるとされる岡倉天心のアジア認識にも注目した。この彼のアジア認識は、いまもってなに一つ解明されていない。
そして、最後は柳田国男の故郷喪失がナショナリズムにつながっていくことを指摘した。
ここまでを第一部とした。第二部には次のようなものを配した。
その一つは「祖先崇拝と御霊信仰」である。日本人が日常的に大切にしている信仰の一つに祖先崇拝があることはいうまでもないが、それとは別に、祀ってくれる人は誰もなく、彷徨い続け、永久に祖霊になれない霊がある。この霊の恐怖のために、その霊を鎮める信仰が生まれる。
「ふたたび『教養』を考える」では、戦後の新制大学の基本理念の大きなものに「教養」の問題があった。しかし、時代の流れは、専門教育優先で「教養」は後退の一途を辿った。今こそ、大学教育の基本的理念としての「教養」を浮上させねばなるまい。
「阿呆のつぶやき」は、ある文芸雑誌の編集後記を集めたものであるが、これは私の精神史の一面でもある。
いずれのときに生きようとも、日本の近代とあるいは旧習と深く強くかかわりながら、私たちは死闘を演じ続けることにかわりはない。
本書を読んでいただく人たちに、私は本当に期待したい。
版元から一言
いきづまった日本の近代化の先にあるものは何なのか。
戦争の気配と共にもの言えぬ時代へと急速に右傾化する今日の
危うさは、あらゆるものを近代化の物差しで
測ってきた結果ではないのか。
平和を愚挙の歴史から学ぶように、人間らしい生き方を我々は
先人の思想からからコツコツ学ぶしか救いはないだろう
上記内容は本書刊行時のものです。