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不滅の敗者ミリュコフ
ロシア革命神話を砕く
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2006年12月
- 書店発売日
- 2006年12月25日
- 登録日
- 2015年8月22日
- 最終更新日
- 2015年8月22日
紹介
学者?新聞編集長?歴史家?政治家?はたまた「人民の敵」の趣味人?ロシアの「生ける近現代史」といわれたミリュコフは、一体何者だったのか。かつて新聞のモスクワ特派員だった『人物ロシア革命史』の著者が、ミリュコフの全体像に迫ってロシア史を見直しする。
目次
目次
はじめに-超人的活力を国家再興に-
第一部 独創の歴史家から大物政治家へ
Ⅰ 博識・二十の言語を身につける
宗教色が薄い家庭環境
Ⅱ 専制下、教授への道を閉ざされて
師との対立から決裂へ
Ⅲ 解放同盟をもとに立憲民主党結成
実り多い米国、英国滞在/革命騒乱、「十月宣言」がくさびに
Ⅳ 国会闘争を率いて政府をゆるがす
専制政府と国会の対立/進歩ブロックの指導者に
Ⅴ 帝政を倒し、臨時政府外相となる
二月革命で「二重権力」が/臨時政府は危機の連続
Ⅵ 動乱の渦中で共産党が政権奪取
軍の動向が決定的な役割
Ⅶ 義勇軍とともに頑強に戦い亡命
ミリュコフの活躍と誤り/デニキン将軍を助ける
Ⅷ 「新戦術」での再起はならず
社会革命党との連携目指す
第二部 学者政治家の全体像と功罪
Ⅰ ミリュコフを知る人々の評価
政治的な直感力を欠く
Ⅱ 『ロシア文化史概説』とはどんな本か?
◇ロシア史の独自性 ◇国家と文化への地理の影響
◇移住と植民◇国家の重要性 ◇防衛拠点としての都市
◇ロシアの宗教と正教会◇学校と教育 ◇ピョートル大帝論
Ⅲ ロシア自由主義の敗因と現代
ストルーヴェとの対立/文盲率の高さがマイナス/
自由、議会政治、地方自治を
付 録
Ⅰ ロシア自由主義の主な政治家
◇立憲民主党中央委員
ペトルンケビッチ/パーベル・ドルゴルーコフ/シャホフスコイ/
ミリュコフ/アレクサンドル・コルニーロフ/ネクラーソフ/
ココーシキン/シンガリョフ/ノヴゴロッツェフ/ナボコフ/
ロジチェフ/ムーロムツェフ/ワシリー・マクラーコフ
◇十月党中央委員 シーポフ/グチコフ/ロジャンコ
Ⅱ 自由主義政党の綱領(要旨)
立憲民主党(人民自由党)/十月党(十月十七日同盟)
ミリュコフ関連ロシア地図
ロシア史の中での自由主義(年表)
主な参考文献(原書)
索引(人名・地名・党派を中心に)
前書きなど
はじめに-超人的活力を国家再興に-
学者政治家ミリュコフは、まことに驚くべき人であった。
第一に、彼は「生ける近現代史」である。帝政ロシアで、一八六〇年代の「大改革」の少し前に生まれた。日本では幕末の頃だ。そして第二次世界大戦末期の一九四三年(昭和十八年)に、亡命先のフランスで没した。十九世紀後半から二十世紀前半を生きたわけである。
この八十四年の長い生涯のうちに、世界とロシアは大きく変わった。第一次大戦に敗れて、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン・トルコという三つの帝国が消滅した。それより先に、ロシアでは一九一七年に帝政が倒れ、動乱の渦中で、やがてレーニンらの共産党政権が出現した。ロシア帝国も滅亡し、共和国となった。
第二に、ミリュコフはこのような激動の時代を超人的な活力で、たくましく生き抜いた。一時期は最有力の自由主義政党の党首、国会議員団長、新聞編集長を兼ね、多忙をきわめる政治活動の合間に、新聞の編集、社説の執筆、さらに著述をしていた。彼は二十四時間ぶっとおしで仕事をすることができたといわれ、現に帝政倒壊時には何日も徹夜が続いている。
第三に、ミリュコフはロシア内外で、実に多くの人々と知り合い、豪華で多彩な人脈を築き上げた。それは文豪トルストイ、ドストエフスキー、著名な思想家、歴史家から、レーニンを含む与野党の政治家、将軍たち、二人の英国王をはじめ諸外国の君主にまで及んでいる。これだけ「顔の広い」政治家はまれであろう。
第四に、彼は非常に博識で、百科事典のような頭脳の持ち主といわれていた。すぐれた記憶力を持ち、他人の発言を正確に手帳に書きとめて、論評の素材と本を書くための資料にしていた。その克明さは著書『ミリュコフの日記 一九一八│一九二一年』でも明らかだ。生死にかかわる国内戦のさなかに、自身のメモでこれほど詳細な記録をつくれたのには驚くほかない。
第五に、彼はどんなに苦境に陥っても、挫折することはなかった。そのつど力強く立ち直った。余裕のある生き方が特徴である。ミリュコフは少年時代から無類の音楽好きで、バイオリンをひき、妻、友人とたびたび家庭音楽会を開いていた。また田園生活を好み、写真撮影、自転車旅行など多趣味であった。こうしたゆとりの大切さは、現代人にも通じるものがある。
第六に、彼は二十もの言語を身につけていた。主著の一つ『回想録』の中で、どのようにしてロシア語以外の言葉を習得したかの一端を書いている。これは歴史研究と外国での講義のためで、ミリュコフの米国の大学での講義、米英などでの講演は常に大きな反響を呼び起こした。またこの語学力は、彼をロシア随一の欧米・バルカン通にしていた。
ミリュコフは版を重ねた名著『ロシア文化史概説』をはじめ多数の著書、論文を書き、ロシア有数の歴史家として、世界的な名声を得ていた。政敵のレーニンでさえ、彼の歴史家としての力量を認めている。だが、ミリュコフは、ドイツ帝国をつくりあげた鉄血宰相ビスマルクのような天成の政治家ではなかった。「柔軟さを欠く。論理的に得られた結論に固執する」などなど、批判者は多い。
また彼自身もいくたびか戦術上の誤りを犯し、あとでそれを認めて修正したこともあった。専制下の特殊な政治状況に迫られて政治指導者となったものの、ミリュコフの本領はやはり学者であったのだ。
視野の広い独創的な歴史家としての彼の再評価は、すでにソ連末期から始まっていた。一九九一年末のソ連解体以後のロシアでは、自由主義の大物政治家としての彼の業績も、客観的に見直されるようになった。ソ連時代には禁書であった著書と関連の資料集も再刊され、日本でも入手できるようになった。プーチン政権下で民主化の後退が著しくなった中でも、ミリュコフ再評価の傾向は続いているようだ。
私が彼とロシアの自由主義運動に関心を持つようになったのは、一九六六│六九年の最初のモスクワ勤務のときのことだった。ソ連の現実に直接に触れ、一党独裁体制の欠陥を思い知らされたからである。そこでこの体制の欠陥の根源を知ろうと、独力でロシア史の見直しを始めた。
その後にミリュコフ、理論家ストルーヴェその他について論文を書いた(著書『ロシア自由主義』に収録)。本書『偉大な敗者ミリュコフ』は、近年ロシアで出版された彼のもろもろの著書と、立憲民主党中央委議事録などの膨大な資料集をもとに、自由と文化の擁護、国家復興のために全生涯をささげたこの学者政治家の全体像を描き出そうとしたものだ。
ミリュコフについての本格的な評伝は、世界中でほとんどないようである。一九六九年に米国で、一九九六年には英国で最初の伝記が出版された。彼の祖国ロシアでは、二種類の研究書が出版された程度であるようだ。これは共産党政権が発足後にまず立憲民主党を「人民の敵」と宣告し、レーニンが同党の結成当時から激しい非難を浴びせ続けていたことによる。ソ連の歴史学は一九八〇年代半ばに至るまで、こうした公式見解に拘束され、もっぱら、レーニンの引用を繰り返していた。
現ロシアの歴史学は、こうしたレーニン主義の呪縛から脱しつつあるようだが、日本の歴史学ははたしてどうなのだろうか。読者が本書によって、長らく封印されていた多くの新事実を知り、ロシア史の真実への認識を深めてくださることを期待したい。
(以下略)
版元から一言
現ロシアの歴史学は、レーニン主義の呪縛から脱しつつあるようだが、日本の歴史学ははたしてどうなのだろうか。本書によって、長らく封印されていた多くの新事実を知り、ロシア史の真実への認識を深めてくださることを期待したい。
上記内容は本書刊行時のものです。