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横須賀1953
「混血児」洋子=バーバラの物語
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2025年7月10日
- 書店発売日
- 2025年7月5日
- 登録日
- 2025年6月2日
- 最終更新日
- 2025年7月8日
紹介
この映画を、戦後混乱期の過酷な日々を生きた女性と子供たちに贈る
世界で絶賛され、各賞を受賞した映画『Yokosuka1953』を書籍化。
「奇跡体験! アンビリバボー」でも特集された感動実話。
こういう話は、戦争のなかで何度も繰り返されてきたことなんです。
その結果が、みなさんの目の前にいる「私」です。
戦争で一番苦しんだのは、女性と子供たちです。(本書より)。
1947年横須賀に生まれた「混血児」木川洋子は1953年養子縁組により渡米し、バーバラになった。故郷の母を想い続けるバーバラは運命の導きともいえる数々の偶然と幸運によって、2019年、66年ぶりの来日を果たす。
本書は2018年8月、突然のSNSメッセージを受けた大学教授木川剛志が、これまた運命の渦に巻き込まれるかのように洋子の調査を開始し、その来日を実現させるまでの過程を自らが克明に記録した映画『YOKOSUKA1953』とそれをめぐる物語を書籍化したものである。
目次
序 章 忘れられつつある物語
第1章 突然のFacebookメッセージ
福井の空襲、街に息づく記憶/街の記憶を短編映画に/ アメリカからのメッセージ
第2章 知らない町、横須賀へ
朧げな街/「昭和」が残る場所/たった65年、忘れられた家族
第3章 アメリカ・テキサスへ
偶然の、1週間の隙間/ウィリー・ネルソン/71回目の誕生日/母の約束
第4章 母を探す――「転落」と呼ばれた時代の中に
神奈川県立公文書館/神奈川の戦後と「婦人保護台帳」/大滝名店ビル、河助/節分――秋谷神明社/信子と洋子、戸籍に並ぶ2つの名前/ 知らない人のはずなのに
第5章 秋谷の浜辺に残っていた記憶
細く脆い糸をつなぐために/これが横須賀だよ/記者会見/クリスマスローズカフェ/林ロータリー/久留和温泉/語り継ぎたくない話/ 「電話」をかける/ ゴンファノン129
第6章 来日、母の面影を探す、洋子の旅
私は少女の時に国を出て、老女になって帰ってきたの/母に伝えたいこと/出発の家、幸保愛児園へ/記憶の共有/母と見た風景/同じ寂しさ/隠すべきではないこと/ 喜ばれて生まれてきた/母の一番近くへ/忘れていた母の顔/別れの朝、そして
第7章 映画『Yokosuka1953』
撮る者から撮られる者へ――当事者としての旅路/ハワイでの上映/意外な評価/福井が繋げてくれた縁/世の中に優しくなってもらいたいから「配給」を探す/初動の失敗/全国展開、そして
最終章 アメリカへ――再会
幕が下りたあとに/ 「ドキュメンタリー」が消えていく/ そして、アメリカへ薄れゆく記憶/そして、さようなら/再び
解説
Ⅰ 戦後と女性/Ⅱ 戦後と子供たち/Ⅲ 戦後混乱期横須賀/Ⅳ 秋谷と武山基地(キャンプ・マクギル)
前書きなど
序 章 忘れられつつある物語
光の届かぬ場所にこそ、記憶は澱んでいる。
私たちが知る戦争は、記録として手元に届いている。
1941年12月8日の開戦。1945年8月15日の敗戦──多くの命が失われた。それは私にとっても、当たり前の常識だった。しかし、アメリカから届いた1通のメッセージから始まる物語は、私に戦争を「記録」ではなく、「記憶」として刻み込んだ。
「日本に住む親族を探しています。
私の母は日本で生まれ、1953年にアメリカへ養子として送られました。
彼女の昔の名字は『木川』、名前は『洋子』です」
木川洋子──1947年にアメリカ兵と思われる父と日本人の母のあいだに生まれた少女。いわゆる「混血児」であった。父のことは何も知らない。ただ、母に愛された思い出がある。「必ず迎えに行くから」という母の約束を信じ、児童福祉施設で暮らしていた。そして1953年、養子縁組によりアメリカへと渡った。
洋子だけではなかった。混乱期の横須賀には200人を超える戸籍を持たない混血児がいたという。その多くは、夜の女の「ハウス」に母と一緒に暮らしていた。日本社会から冷たい目で見られていた混血児たちは、篤志家の尽力によって養子縁組され、アメリカに渡っていった。
そのことは戦後の横須賀を生きた人々なら誰もが知っていることだった。しかし、その事実は語られることを拒み、時代が流れ、それを知る人々の記憶も失われ、消えようとしている。
私にも戦争の記憶はある。祖父は私が1歳の時に亡くなった。私の誕生を喜び、たいそう可愛がってくれたらしい。祖父の胸には、戦争で負った銃創があった。多くは語らなかった。諜報部にいたこと。戦場には前方ではなく後方から撃たれた兵士が倒れていたこと。そして─朝鮮半島の人々に対してどれだけ謝っても償えないことをしたことを、生前、母に語っていた。それは私自身の記憶ではない。しかし、祖父の語ったことは、歴史ではなく「記憶」として、私は受け止めていたように思う。
ただ、このように受け止めた記憶は、体に染み込んだものとは異なる。洋子と知り合い、横須賀で彼女の母を探す調査をしていたある日、母にそのことを話した。「混血児の実母を探しているんだ」と。母は驚くと思っていた。しかし、返ってきた言葉は一言だけだった。「昔はそうだったからね」と。母は満州で生まれた。母の家族は引き揚げた後、日本各地を転々として京都駅前に落ち着いた。祖父が営む看板屋には、警察官に紹介された「駅前で路頭に迷っていた男たち」が働いていたという。母のその言葉には、母が見てきた世界が、私の想像をはるかに超えていたことが滲んでいた。私は母のことを知っていたつもりだった。しかし、まだ理解できてはいなかったのだ。
光が当たる記憶は記録され、歴史となる。光が届かぬ記憶は、受け継ぐ者を失い、やがて忘れ去られる。
戦後80年──あの戦争が「記録」として整理され、「記憶」が消えていく時代に改めて考える。記憶とは何か。それは思うに「戦争が悪い」「平和を願おう」ということではなく、その背景にある絶対的な現実──人間に与えられた、否応のない現実だ。圧倒的な狂気に人々は邁進し、圧倒的な悲しみをただただ人々は受けとめるしかなかった、その現実だ。それはそれを判断しようとする理性や倫理を超えた、抗いようのない現実。そして、それが残念ながら「人間」だった。
私は和歌山県で大学教員をしている1人の研究者である。研究者として空襲で破壊された街の復興について調べてきたが、この物語で綴られる旅を終えた今、「そこにあった人々の悲しみに本当に向き合ってきたか」と問われれば、今は自信がない。圧倒的な現実から目を逸らし、並べられた記録を分析し、倫理的な答えを探していた。しかし、そのような答えは、人間に対してあまりにも弱い──それを思い知ることになった。
この物語は、私が木川洋子と、名字が同じというだけの偶然──いや、今は奇跡と呼ぼう──の出会いから始まる。そして、その物語は『Yokosuka1953』という劇場公開を果たした映画に結実した。それは、これまでに大学教員として導き出してきた言葉とはまったく異なるものだった。
──これは、横須賀の物語である。
しかし、ここで描かれる「横須賀」は、横須賀海軍カレーを食べ歩き、スカジャンを探して羽織り、軍港を巡る──そんな明るい、観光的な横須賀ではない。
忘れられようとしている、1953年の横須賀である。その時代の記憶はかろうじて、街に、人々に、澱んでいた。その記憶を、私は追い求めた。
版元から一言
戦後80年、薄れつつある戦争の記憶、埋もれゆく戦争の記録を掘り起こし、新たな息吹として次世代につなげる営みを版元としての使命の一つと考え、本書を出版します。
関連リンク
https://yokosuka1953.com/
上記内容は本書刊行時のものです。