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配信芸術論
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2023年10月31日
- 書店発売日
- 2023年10月25日
- 登録日
- 2023年10月4日
- 最終更新日
- 2023年12月1日
紹介
ライブとは何か。
ネットで音楽を聴くとき、われわれは何を体験しているのか──。
メタバース時代の音楽をラディカルに問う!
2020年9月19日深夜、
無観客、アーカイヴなしのオンライン配信で開催され、
コロナ下最大の音楽的事件となった
「三輪眞弘祭」(サントリー音楽賞、佐治敬三賞をダブル受賞)を起点に、
哲学、バイオアート、科学技術史、メディア論、音楽学の専門家が結集し、
これからの音楽実践のありかたをラディカルに問いなおし、定義する。
メタバース時代の音楽の可能性はここにある!
目次
はじめに
岡田暁生|音楽聴のシンギュラリティ2020?
伊東信宏|すべてはここからはじまった 19 September 2020 (Sat), 22:00 open, 23:00 start, 26:00 end ── 一聴取者によるイベント・レポート
I ライブと「そこにいない誰( 何)か」
山﨑与次兵衛|二分心崩壊以後/シンギュラリティ以前の展望からみたライブの可能性
編集会議バックヤードより
岩崎秀雄|音楽はどこまで「生きている」のか──「音楽≒生命」メタファーから「音楽≒ウイルス」メタファーへ
編者独白
II 配信芸術の考古学
編者口上
瀬戸口明久|機械化時代における音楽・科学・人間──兼常清佐のピアノの実験
編者口上
松井 茂|中継芸術の系譜──テレビジョンをめぐる配信芸術前史
III 「立ち会うこと」と配信芸術──映像作家 前田真二郎氏を囲んで
IV 〈いま-ここ〉の存在論と亡霊
編者口上
佐近田展康|「亡霊機械」と〈いま-ここ〉の生成
編集会議バックヤードより
編者独白
佐藤淳二|〈仮死〉と〈亡霊〉の配信──三つの神学の彼方へ
編者独白
おわりに
三輪眞弘|配信芸術、あるいは「録楽」の未来
付録|サラマンカ宣言──ぎふ未来音楽展2020 三輪眞弘祭 ─清められた夜─
MUSICA CRAS GIFU 2020 Masahiro Miwa Festival ― Purified Night ―
前書きなど
音楽聴のシンギュラリティ2020?(岡田暁生)
コロナ禍によってほぼ全世界的に「音楽をする/聴くために集つどう自由」が断念された二〇二〇年は、後世によって人類の長い音楽聴の歴史における大転換点のひとつとして記憶されることになるかもしれない。いまのところコロナ以前の音楽生活はあるていど戻ってきているようにみえる。昨年(二〇二二年)までふつうにホール入口でおこなわれていた検温は、新型コロナウイルスが季節性インフルエンザなどと同じ5類感染症の扱いになった今年五月ごろからあまり見られなくなったが、マスクをした顔がずらりと並ぶ客席を前に、三年近くも演奏しなければならなかった音楽家たちは、きっと悪い夢でも見ていたような気分だろう。いっけん「戻ってきた」ようにみえようとも、それはけっして「2020以前」と同じ音楽のいとなみではない。
周知のように、オンライン対人コミュニケーション(授業や会議など)はこの間に劇的に進み、当初期待されたほどではないにせよ、音楽界でもライブ配信があたりまえになりつつある。人間の環境適応というのは怖いもので、ライブを愛することにかけて人後に落ちないつもりだったわたしですら、PCで音楽を聴く利点にすっかりめざめ(わたしはスマホは使わないガラケー派であるが)、これまで聴いたことのなかった曲を大量に知ることができた。コンサート通いをしていたのでは、とうていこれだけの音楽を聴くことはできなかっただろう。それに加え、ライブで聴かないと全貌はわからないと思っていたワーグナー楽劇などを、まるで長編小説を読むように、毎日少しずつスコアとともに聴きすすめる楽しみにもめざめてしまった。
じっさい、よく考えてみれば二〇二〇年以前よりすでに、わたしのようなライブ主体の音楽ファンは少数派であり、多くの人にとっての音楽は「ネットで聴くもの」になっていたはずである。コロナの渦中に知り合いのピアニストが言っていた。「いまどきライブなどというものは少数民族の伝統音楽のようなもので、自分はこの芸能を守るのが仕事だと思っています」と。映画館に行ったことのない映画ファン、あるいは生なまで試合を観たことがないサッカー・ファンと同じく、音楽は大好きだがライブには行ったことがないという人は、若い世代を中心に相当数にのぼるだろう。ライブに行ったりCDを買ったりする伝統的な音楽消費形態は、もはや彼らの世界の完全に外にあるものであり、この総ネット化潮流はどうあがいてももはや止めようがないとわたしは観念している。
かつて三輪眞弘氏は「生で聴く音楽」と「録音された音楽」は演劇と映画くらい違うものであるとして、前者を「音楽」、後者を「録楽」とよんで区別することを提唱した。「身体の現前vs不在」「運搬不能性vs可能性」「時間の不可逆性vs可逆性」「出来事性vsモノ性」「複製不能性vs可能性」など、たしかに両者はまったく異なった音コミュニケーションのモードだ。とりわけ、「音楽」が人間の自然的身体で奏でられることを基本とするのに対して、「録楽」には電気の介在が不可欠だという違いは大きい。しかしながら、CDやラジオと同じく電気メディアを介するからといって、「ネットで聴く音楽」も単純に「録楽」にカテゴライズしてよいものだろうか? 従来型の録楽とネット音楽とでは、なにかが決定的に違ってはいないか?
ネットで聴く音楽の最大の特徴は、その究極の非物質性にある。レコードやCDにはそれなりの物質性があった。かつてのビートルズのアルバム、あるいはブルーノート・レーベルのジャズのレコードは、ジャケット・デザインまで含めた総合芸術であり、その意味でりっぱなモノであった。ラジオやテレビの場合、コンテンツはモノではないにせよ、受信するための装置にはかなりの重さがあった。またライブ音楽も、その「容器=会場」のあまりに巨大な物質性のゆえに、運搬は絶対に不可能なモノであったともいえる。それに対してPCやスマホで聴く音楽にはほぼ重さがない。データだけが巨大情報ネットワークを半永久的に漂ただよいつつ、まるで聖霊が降るようにして、ときおりPCやスマホのモニターに現象するといったふうである。しかも当該データはいつのまにかネットワークから消えていたりもする。“ありか”がいっこうに特定できない。
同じ「ネットで聴く音楽」といっても、ライブ配信は一見したところ従来のテレビ(ラジオ)中継と変わらないと思えるかもしれない。“いま、あそこ”でやっているものが、リアルタイムで“ここ”に送られてくる(ようにみえる)。しかしとうぜんながらディレイがあることは別にしても、ほんとうに“あそこからここ”へ送られてきているのだろうか? 視聴可能期間内ならコンテンツはいつでもどこでも観られるのだから、けっきょくのところこれもまた“送られてくる”のではなく、“漂っている”のではないか? その証拠に、テレビ中継のような「見逃し(録画し忘れ)」は、ここではまず生じない。
“ありか”が特定できないといえば、オンライン・セッションも同様である。ヤマハが発売したSYNCROOM(リアルタイムでセッションできる無料アプリ)を使えば、メンバー各自が個室にいながら、オンラインでセッションができる。ヴォーカルのAさんもキーボードのB氏もベースのC君もみんな自宅。オンライン上の“部屋”でセッションをする。──これはたしかに「ライブ」ではあるのかもしれないが、かりにそれに参加するとして、いったい音楽アンサンブルはわたしがピアノを弾いている“ここ(=わたしの自室)”にあるのか、それともなにかがわたしの自然的身体から幽体離脱して、“どこでもないあそこ”で音楽をやっているのか?
音楽の「ありか」を同定不能にしてしまうという点で、録音データにリヴァーブ処理をするAltiverb(オーディオ・イーズ社が開発)というソフトもおもしろい。これは欧米のさまざまな有名ホールの残響環境をシミュレートできるもので、これを使えば自宅で録音した演奏に、ウィーンの楽友協会ホールで弾いたのと同じリヴァーブをかけることができる。それが気に入らなければ、ベルリンのフィルハーモニーでもディズニー・ホールでも有名レコーディング・スタジオでも、はてはいろいろなタイプの家(トイレとか!)や電車や飛行機のなかの残響環境でも、なんでも試すことができる。もう録音のためにわざわざ有名ホールを数日借りたりする必要はない。デッドな残響の自宅居間で録音したものをウィーン楽友協会ホールでの演奏のように仕立てあげることができる!
どこでもないどこかを漂っているというこうした非現実感は、ネット上では「あるはずがないもの/あってはならないもの」が無数に浮遊していることによって、さらに増幅されることになる。たとえば「カラヤン指揮ベルリン・フィルのベートーヴェンの交響曲」のような正規発売の録音の場合、それがYouTube上を自由に漂っていることじたいがまずおかしい。かたち、時と場所、帰属、所有関係、流通ルートなどが確定されない世界に浮かんでいることで、身もと(たとえば何年何月何日から何日までどこで録音された、など)がはっきりしている録音すら、なにやら亡霊じみてみえる。しかもそういうものとならんで、たとえば一九七〇年代にルーマニアかどこかの放送局で流されたらしい音楽番組の白黒映像や、一九八〇年代にウィーンの劇場で隠し撮りされたリハーサル現場の流出映像などが堂々とアップされたりしている。こちらのほうは昔の言葉でいえば海賊録音/映像であり、つまりはほんものの亡霊である。おまけにこうした動画はしばしば、いつのまにか削除され消えている……。
こうした浮遊感との関連で注意をうながしたいのが、「現場(オリジン=起源)から届けられるか否いなか」という問題である。伝統的なライブはもちろんのこと、従来の録楽にもそれなりの「現場」はあった。正規録音にはちゃんと録音の日時と場所が記してあり(たとえなんらかの間違いがあったとしても、そして複雑な編集作業をへているとしても)、そして「あのときあそこでやったもの」がレコードやCDなどという缶詰にされ、しかるべき流通ルートを通って自宅に届く。テレビ中継の場合はもっと過程がシンプルで、「いま、あそこでやっているもの」が放送局の電波によって直接に自宅へと届けられる。じつはこの「届けられる」という構造はホール音楽でも同じで、そこではステージから客席へと音楽は届けられる。つまり一九世紀のコンサートホール文化から二〇世紀の録楽までの時代とは、「音楽をパッキングして現場から届けていたエポック」であり、その諸行程はなんらかの「主権」(本書の佐藤論考を参照)によってそれぞれ一義的に境界を確定され、内部を管理されていたのであり(たとえば関係者以外立ち入り禁止の楽屋口は典型だし、著作権保護も同様である)、まさにこの点で演者と観客と音とが空間的に混然一体になっている前近代の儀礼や祭りとは違っていたといえる。しかしながらネット音楽はいったいどこから“ここ”に届けられるのだろう? 複雑なデータ記号に変換され、コピーを繰り返し、勝手な編集をされたかもしれず、かつ迷宮のように世界じゅうのサーバを経由しているものについて、いまだに「現場(=オリジン)から届けられる」を云々できるのだろうか。
ネットで聴く音楽に独特の(少なくとも超アナログ人間であるわたしにとっては)シュルレアリスムじみたこの感覚は、レムの小説/タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』を連想させずにはおかない。周知のようにソラリスを覆おおう謎の海は、人間の無意識願望をまたたくまに物質化し、ほんらいそこにいるはずのない人物(怪物)を目の前に出現させる。PC音楽もこれとよく似ている。全知のビッグデータに向かって願をかけるようにキーボードを叩けば、欲望のまま亡霊のようにして、世界のあらゆる音楽がモニターに出現する。これはまったくもって新しい宗教的状況ではあるまいか……。[以下略]
上記内容は本書刊行時のものです。