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踊るバロック
舞曲の様式と演奏をめぐって
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2021年2月20日
- 書店発売日
- 2021年2月25日
- 登録日
- 2021年1月15日
- 最終更新日
- 2021年11月23日
紹介
バッハの舞曲はほんとうに踊れるのか?
力動感あふれる演奏の秘密にせまる!
バロック音楽には舞曲の形式による作品が多く、
「バロック音楽を演奏するなら、バロック・ダンスを学ぶべき」と言われる。
しかし、当時の舞曲で踊ることは可能なのか?
たとえば、バッハの舞曲は踊るために作曲されたものなのか──。
本書は17~18世紀の舞踏譜やヴァイオリン奏法書から、
バロック舞曲にどのような身体性が秘められているのかを
明らかにする意欲的研究。
最終章では「ラジオ体操」や「スーパーマリオ」までを視野に入れ、
音楽と身体のかかわりを考察する。
目次
はじめに
第1部 予備的考察
第1章 バッハの舞曲は踊れるのか?
1 バッハ楽曲で踊る試み
2 組曲のジャンル論
3 舞曲の様式化をめぐる議論
第2章 バロック時代の舞踏資料
1 本書における用語の定義
2 2つの舞踏譜カタログ
3 舞踏譜の残存状況
4 定型的舞踏への着眼
第2部 クーラント研究 第3章 定型的クーラントの研究
第3章 定型的クーラントの研究
1 クーラントの概要
2 クーラントに関する既存の様式理解への疑問
3 定型的クーラントの実態
4 定型的クーラントにおける舞踏と音楽のかかわり
第4章 振り付けられたクーラントの研究
1 舞踏譜《ラ・ボカンヌ》の考察
2 舞踏譜《ラ・ドゥシェス》《ラ・ブルゴーニュ》《ラ・ドンブ》の考察
3 振付と伴奏舞曲から推測されるクーラントの変遷
第5章 器楽曲としてのクーラント
1 考察の対象と方法
2 マレとクープランのクーラント
3 音価型の頻度の議論と舞踏のリズム像
第3部 メヌエット研究
第6章 ムッファトの説くメヌエットのための運弓法
1 ムッファトの《フロリレギウム第2集》序文
2 ムッファトの説く運弓法と舞踏のステップのかかわり
3 運弓によるフレーズ明瞭化の検証
4 演奏行為にともなう身体運動としての運弓
第7章 フランスの奏法書におけるメヌエットのための運弓法
1 フランスのヴァイオリン奏法書の検討
2 舞踏譜の伴奏舞曲に対する運弓の適用
3 身振りへの着眼
第4部 踊る身体と演奏する身体
第8章 指標記号としての鳴り響き
1 2つの新たな発想
2 既存の音楽的身体論との比較
3 指標記号としての鳴り響き
4 議論の拡張
おわりに
主要参考文献と使用資料
初出一覧
索引
前書きなど
はじめに
バロック音楽を演奏する者にとって、常に頭を悩まされるのが舞曲の存在である。楽曲の冒頭において、まるで具体的な演奏の手がかりであるかのように舞踏の名前を記した楽譜に我々はしばしば出会う。しかし、その名前をどのように解釈していいのか戸惑う経験は、多くの人々に共有されていることだろう。
近年では、いわゆるバロック・ダンスの研究や実践、教授が以前よりも広まった。その結果として、「これは舞曲なのだから踊れるように演奏すべし」といったお題目を耳にすることも増えている。しかし、舞踏研究を踏まえた演奏実践の指導が行われる機会はいまだに多いとはいえないだろう。よって、上記のようなお題目を突き付けられても困ってしまうというのが多くの演奏者の本音ではないだろうか。
こうしたお題目とそれへの困惑の広がりは、結果として、舞踏と音楽の関連について極端なほどに楽観的な態度と悲観的な態度とを生み出しているように思われる。前者の一例を挙げると、舞曲なのだから踊れるようにと称して、やたらと快速なテンポで妙に軽やかにバッハを演奏する人々。そうした態度に対しては、「ダンスとは常に軽やかなものとは限らないんじゃないか」という常識的な反論をしたくもなるだろう。もちろん、バロック時代にも荘重な踊りは存在したのであって、踊れるような演奏という理念を、即座に快速なテンポや歯切れのよいアーティキュレーションに結びつけるのは浅慮といわざるをえない。
「バロック・ダンスの教室に通えば、バロック舞曲をそれらしく弾けるようになります」といった売り文句の類も楽観的な態度のもうひとつの例として挙げられるだろう。もちろん実践を学ぶことは何よりも大きな手掛かりを与えてくれるのであり、その機会が広まることはじつに喜ばしいことだ。しかし当時の舞踏資料に真摯に向き合う者が痛感することは、資料の曖昧さや難解さ、あるいは数の不足である。そして、そうした困難を超えて得られた貴重な手掛かりは、さらなる疑問や謎を呼ぶのが常であって、舞踏を学ぶことを舞曲演奏のための安易な処方箋のようにとらえることは危険である。
それに対し、舞踏と音楽とを関連付けること自体にそもそも積極的ではない人々もいる。そうした悲観派が根拠としてしばしば挙げるのが、舞曲の様式化である。つまり、「器楽曲として楽しまれる舞曲は、実際の舞踏やその伴奏舞曲から発展する過程ですでにダンスの影響を脱しているのだ」として音楽の自律性を擁護しようとするのだ。もちろん、ある特定の舞曲において、そうした様式化が起きている可能性は否定できない。しかし舞踏の影響を脱するとはいかなることだろうか。あらためてそう問われると、悲観派は、たとえばバッハの舞曲の偉大さを根拠に挙げるだろう。しかし音楽的に充実しているということが、かならずしも舞踏の影響を脱していることを示すわけではない。舞踏の感覚が音楽的な充実につながる可能性も残されているからである。そもそも舞曲の様式化などという概念をもち出すには、当時の舞踏に対する広範な知識や理解が必要なのであって、それを欠いた状態で様式化などという概念を振りかざすのはやはり安易にすぎるだろう。
こうした両極端のはざまで、多くの演奏者は、舞踏・舞曲の名前をどう理解したものか戸惑い、あるいは途方にくれてしまっているのではないだろうか。本書は、そうしたもどかしい思いを抱えている方々に対し、実践ではなく音楽学研究の立場からいくらかの示唆や手がかりを提供し、ともに考えていただくことを目的としている。ともに考えていただくということは、当然ながら安易な理解を示すということではない。あらかじめお断りしておくが、本書を読んでもバロック時代の舞踏や舞曲についてありありと理解することはできない。むしろ、その理解がいかに難しいことであるか、学問的に考究できることがいかに限定されているのかを痛感していただく結果になるだろう。
さらに、本書を読んでもバロック舞曲の演奏が即座に上達することはない。むしろバロック舞曲のしかるべき演奏とはどのようなものかということについて、さらに疑問を深めることになるだろう。そうした疑問に自らの責任で立ち向かう後押しをするのが本書の目的である。その結果として、音楽教室や音楽大学の評価基準からするとより低い点数がつけられる演奏にたどり着くことすら大いに考えられる。
以上のことは、バロック時代の舞踏・舞曲を学び研究することの意義を否定するものではない。むしろ、舞踏や舞曲演奏の実践家が、あるいは筆者も含めたバロック音楽の研究者が主張する言説を鵜吞みにするのではなく、自ら当時の舞踏資料に向き合い、それを手がかりとしながら実践や考察を重ねることの重要性やおもしろさを明らかにするのが本書の目的であるとも言い換えられる。こうした実践や研究の最前線に立ち、舞曲の演奏はいかにあるべきか、音楽に合わせて踊るとはどういうことであるかという問題を見つめなおす点にこそ、専門家の研究の意義や現代性が存在するのだと筆者は考える。
本書の導入である第1章と第2章は、多くの方々がバロック舞曲をめぐる疑問や困難に直面することになるであろうバッハの楽曲を当面の手がかりとしつつ、バロック時代の舞曲や組曲に挑むうえで必要な基礎的な情報を提示するものである。その過程で、この序において言及したような疑問についてあらためて検討することになるだろう。
それに対して第3章から第7章は学術論文に基づく考察であり、慎重で専門的な議論を展開する。このうち、第3章から第5章はクーラントという舞踏・舞曲に、第6章と第7章はメヌエットという舞踏・舞曲に焦点を合わせる。なぜこれらの舞踏・舞曲が対象とされるのかについては、第2章までで明らかになるだろう。
最後の第8章は、これまでとは一転してきわめて冒険的で不用意な「大風呂敷」である。なにしろ、「演奏とは手段であり、その結果として生じる鳴り響きこそが重要である」という、あまりに明白な常識に一定の範囲で反旗を翻すことを目的にしているのだから。しかし第7章までの考察からは、こうした常識への疑念が避けようもなく生じることになる。この疑念に向き合うために、本書は「ラジオ体操第一」や「スーパーマリオの身体」についても検討することになるだろう。
こうした迂遠な考察にお付き合いくださる方は、ぜひ第1章へと進んでいただきたい。そのステップが軽やかなものであろうと重たいものであろうと、ともに歩み踊ってくださる方が多いことを筆者としては祈念してやまない。
上記内容は本書刊行時のものです。