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クソッタレな俺をマシにするための生活革命
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 書店発売日
- 2024年11月22日
- 登録日
- 2024年10月1日
- 最終更新日
- 2025年1月28日
紹介
あの、千葉の凄い引きこもりが帰ってきた!
脱引きこもり中の引きこもり、男らしさを考え直してたら、人間として生き直すことになった──
熱くて小規模な冒険がいま始まる!
初の著書『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』がヒット、エッセイストとして華々しくデビューした済東鉄腸31歳。
書籍刊行後、インタビューにラジオ出演に引っ張りだこの毎日。他者の中で揉まれ、自身を相対化するにつれて、「社会の中で俺って一体、なんなんだ? 男らしさってなんなんだ?」という問いにつきあたる。人生を振り返ってみると、これまで「男らしさ」に悩んだことがなかったのは、そもそも「人間として」自分に自信がなさすぎるからだった…!
人間として、男として、自らの手で選び取った「男」という性をよりマシなものにするため、脱引きこもりを目指して冒険に出る。とはいえ、主にそれは大好きなニッケコルトンプラザと自宅の往復がほとんど。放棄してきた「生活」の細かな実践、生身のリアルな人間との関係構築へと、少しずつ歩み出す。
そして思いは、最も身近で最も遠かった他者である両親へ──
31歳、はじめてだらけの生活革命!
目次
はじめに
俺が脱引きこもりへと歩み出したというこの異常事態を
お伝えするための長い長い前置き
◉理論編 俺は俺で考え続けてきた
フェミニズムとの邂逅
トランス男性の声を読む
クィア文化を取り込む
「ケア」という謎に立ち向かう
よりマシなシスヘテロ野郎を目指して
◉途中に
はじめてのこころみを書くということ
◉実践編 俺は俺の行動で変わっていく
はじめての、友人と初詣
Respect for 稲波さん
はじめての、コルトンで本の薦めあい
Respect for 書店で会ったみんな
はじめての、「マスター、いつもの」
Respect for City Light Book
はじめての、実践的トイレ考
Respect for ニッケコルトンプラザのトイレ
はじめての、チン毛看
Respect for 思い出せないあの詩
はじめての、ダンベル
Respect for ショーゴ(東京ホテイソン)
はじめての、ジム通い
Respect for チョコザップのマダムたち
はじめての、
相分離生物学的卵かけご飯作り
Respect for 白木賢太郎
はじめての、バンドにファンレター
Respect for Ataque Escampe
はじめての、母親にバースデーカード
Respect for お母さん
はじめての、両親と晩酌
ルーマニアのアンカに捧ぐ
おわりに
前書きなど
はじめに
俺が脱引きこもりへと歩み出したというこの異常事態を
お伝えするための長い長い前置き
済東鉄腸、そんな奇怪な名前をした、どこの馬の骨とも知れぬ引きこもり野郎のことを知ってくださってる人は、読者のなかにどれほどおられるだろうか?
そもそも引きこもりって何だよ? と思われる方、厚生労働白書が定義するには「様々な要因の結果として、社会的参加を回避し、原則的には六ヶ月以上にわたっておおむね家庭内にとどまりつづけている状態を指す現象概念である」って感じだ。
内閣府調査によりゃ、二〇二三年時点で日本には約一四六万人くらいの引きこもりがいるらしい。さらにこの概念は“hikikomori”として世界デビュー、日本発祥の概念ながら実は自分の国にもそういう人々が前からいた⁉ とばかりに広まっていってる。
そんな引きこもりだった俺が「脱引きこもり」ってやつを目指すことがどれほど異常事態なのか……これを知ってもらうにゃ、千葉ルーのことを話さないわけにはいかないだろう。
千葉ルーってのは略称で、正式名称は『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』というなかなかに長いもんだ。この題名通りに特異な、ルーマニア語小説家としての俺の人生が詰まりに詰まっている一冊がこの本ってわけね。
振り返るなら本執筆時の俺は、引きこもりのままで人生終えるか否かの分水嶺に立っていたんだ。
自分もそろそろ三十だから、そろそろ動かないとさすがにヤバいという焦りが首をもたげ始めていて、ルーマニアで短編集を出版できないかと計画を立てていたわけなんだよ。
そこに本の企画書が舞いこんだ! コイツはもう渡りにモーターボートとばかりに計画を大幅に変更して二十代の最後を執筆にブチ捧げたよ。
この執筆の過程は、今までの自分の人生を総決算することに他ならなかった。
生来の後ろ向き野郎な俺は、ルーマニア語で小説書いてても結局お金は稼げてないし、実家二階の子供部屋で自立とは程遠い生活してるじゃねえかと自分を愛せずにいた。
だが執筆を通じて、今までの恥の多い人生を肯定し、引きこもりだからこそ特異なことを成し遂げることができたと思えるようになった。
生まれながらの引きこもり体質、子供部屋おじさんを運命付けられた虚弱穀潰し、腸にクローン病という名の爆弾抱えた炎症系男子。 そんなバカ野郎が30歳という人生の節目に初の著書を出版させてもらった!……なんて堂々と宣言できるくらい、自分に誇りを持てるようになったんだ。
それと同時にこういうことも考えだしていた。
執筆時の二〇二二年はまだまだコロナが猛威を奮っていた頃で、世界中の人々が自分の町や家に引きこもらざるを得なかった。海外に行くことも難しく、部屋にこもって「もう自分はダメだ……ここから抜け出せない」とネガティブになってる人も多かっただろう。
そんな人々に「いや、今そこにいるからこそやれることがある!」と勇気づけられるような本を書きたいと。
こうして俺は「引きこもり」を看板に掲げて、千葉ルーという人生で初めての本を完成させたんだった。
ぶっちゃけ最初は「ルーマニア語やルーマニア文学ってマイナー内容のこんな本が注目されるか?」と疑心暗鬼にならざるを得なかったものの、予想を越えて多くの読者に本をお手にとっていただけて、俺は感無量大数だよ。
そして反響に喜んでいる間もなくあらゆるイベントが舞い込んできた。
指じゃ数えきれないほどのインタビューにラジオやポッドキャストへの出演、さらにはトークショーまで開催させてもらった。さらにはSNSの力を使うことで、千葉ルーを読んでくれた、興味を持ってくれたって読者の方々と交流までさせていただいた。
俺は現在進行形でマジに忘れられない経験をさせてもらってる。
千葉ルーは俺の人生を次のステージへと進めてくれたわけさ。
Mulţumesc cu frumuseţea maximă, CibaRo!
ということは「引きこもり」卒業だな、おめでとう!
そんなことを言ってくれる読者もいそうだ。俺もちょっとそんな気になってるよ。
それでいて、自分を「元・引きこもり」と呼ぶのも憚られるような心地でもある。
こういうことを聞いたことがある。アルコール中毒の患者は「酒を止める」ことはもうできず「酒を止め続ける」ということを生涯していかなくてはならない、と。
この話が俺により迫ってくるのは、引きこもりに関して似たようなことを思っているからだ。一度精神を病んで引きこもってしまうと、回復したと思えどもいつまた引きこもりへ転落するか分からない。いわば綱渡り状態にならざるを得ない。つまり「引きこもっていない」状態を維持し続ける必要がある。
引きこもりというか精神疾患全般がこういったもので、一度かかると生涯その症状と関わっていく必要があるんだろうと、俺は思っている。
だから俺としては今、今後一生続くかもしれない「脱引きこもり」のそのスタートラインにとうとう立ち、そして少しずつ前へ進み始めたとそんな気分なんだ……
こうして社会へと打って出ていくなかで、自分の意識に変化が訪れるのを俺は感じていた。
今まではとにかく意識が内に向いていたゆえに俺俺俺と唯我独尊一直線だった。
だがコロナ禍の最中にお腹痛くなったと思ったら体重が40キロ減少し、クローン病なんて消化器の難病と診断され、親はもちろん色々な人に世話になる。
とはいえ度重なる医療費に食事制限によって食費が無駄に増加などなどで資本主義への恨み骨髄に至る一方で、薬は毎日ブチ込んでるもんだから消化器以外はむしろ健康になり、散歩がてら図書館で濫読の日々。
ここで俺は経済学と運命の邂逅を果たし、この学問を通じて俺の資本主義への恨みはより論理的なものとなるのと同時に、社会がいかに営まれるかも知っていった。その果てに俺は半生総決算の書を執筆する機会を手に入れることとなる。
こうして完成した千葉ルー片手に俺は社会へ打って出ていくわけだが、以前とは比べ物にならないくらい多くの人と会ったよ。前は親と図書館の司書さんくらいしかリアル世界で会ったり話したりする人間はいなかったが、仕事関係の人に、読者の方々に、趣味関連のイベントで出会った人にとヤバいくらい沢山だ。
こうやってネットだけでなくリアルにおいても人との繋がりをどんどん得ていくと面白いことが起こった。
リアルの世界の人には肉体がある。当然だろうと思うかもしんないが、ネットに入り浸りそういう感覚が希薄だった俺にはこれが「発見」だった。そして精神だけじゃなく、肉体も持ってる人の波に揉まれながら、俺は相対化されていったんだ。
日本国籍を保持しているので「日本人」?
クローン病という消火器官の難病を持っているゆえ「障害者」?
つまり相対化ってこういうことだ。俺自身の意識ってやつが徐々に外へと向いていった末に俺は「俺」じゃあなくて、上に書いたようなより一般的な概念を主語にして、つまりは主語をクソデカくしたうえで社会にまつわる様々なことを考えるようになったんだ……
そのなかで最も考えていたのが性についてだった。
まずなんだが、俺のなかで、諸学問に関してこんなイメージがある。
自然科学や数学はチェスで、社会科学はチェスボクシング、じゃあ俺の属している人文学はボクシング……かといえば、それを通り越して総合格闘技、いや、もはやルール無用のバーリトゥードじゃないか。何でもありで方法論に正解がない、というか何もかもが間違っている。こうやって間違いの精度を競いあうような人文学は個人的に最も不毛で、最も面白いって俺は思ってる。
で、そんな人文学を象徴するのが批評っていう営みなんだ。
批評は多かれ少なかれ全てが誤読で、その誤読にいかにマシな説得力を持たせるかという誤読の芸術だと思うんだよ。
そしてそれを最も意識的に実践してると俺に思えるのが、クィア理論なんだ。
クィア、つまり性的少数者の視点から芸術作品や社会を批評していくこの学問からは、規範というものに抗して、全てを積極的に誤読してやろうという力強い気概を感じる。その堂々たる奇の衒いっぷりは、読んでて興奮を覚えるよ。
それで日々、クィア理論関連の本やクィア当事者の言葉を読んだりしていたが、ここでもまた相対化が起こるわけだね。
自分は「男性」で、女性を愛する「異性愛者/ヘテロセクシャル」で、社会によって押しつけられた性に違和感がない「シスジェンダー」で……
そしてこういうことについてより考え始めたのは、日本のインターネット界隈のおけるトランス差別が激化を遂げているからでもあった。トランス当事者の性自認を無視し、彼らを間違った性で扱う、いわゆるミスジェンダリングを行うという形で差別が繰り広げられている。そしてその憎悪の源の一つは男性、というか俺も属する「多数派男性」に対する憎悪なんだ。男性への憎悪こそが、例えばトランス女性を「生物学的男性」として扱う差別に繋がっている。ここにおいては特に「男性であるとは?」について考えざるを得なくなるよな。
で、性差別や男性の生きづらさをジェンダーって面から探っていくいわゆる男性学ってのがあって、その研究者もこれを自覚したうえで活動を行っている。だが俺にはそこに幾つかの不満があった。
まず彼らは「男性であること=悪」というかなり後ろ向き、もっと言えば自罰的な論を組み立てている。性差別を批判したり内省するにあたって、男性は本質的に悪であると見なしすぎて、必要以上に自尊心や自己肯定感を削っているように思えるんだ。
さらに彼らは「タナトス」とか「ホモソーシャル」とか「新自由主義」だとか、一般にはあまり通じない批評用語を使いすぎて、文章が過剰なまでに複雑になってしまっている。そしてこの勢いで男性論を通じた社会批評まで始めるもんで、話は複雑かつ壮大な話になっていく。こうなると地に足ついてないというか、自分の身に迫ってこないんだよ。
この技法は重要っちゃ重要なんだよ。これらはつまり自己批判と言語化なわけで、物事への考えを深めるには必要不可欠なんだ。実際、俺だってこの本でこれらをある程度実践してる。
だが何事もやりすぎは自分を追い詰める。薬も使いすぎると毒になるわけでね。
論者にもそういうことには気づいているわけで、前者を自覚して「これではいけない、自分を愛せるようになろう!」と言う人物もいる。だが後者の非常用語は捨てられず文章は複雑なままだったりする。男性って存在を迷宮化して、その迷宮に自分を迷わせるマッチポンプが繰り広げられるなんてよくある。
こういう風に「男性」とか「男性として生きる」について語ろうとすると無駄に複雑になり、そうなると生きづらさばっか先立っていって、そうして重苦しくなってくんだよ。
だから読んでるだけで、まるで十字架を背負うキリストの受難を勝手に追体験させられるような気分になる。その果てには全「男性」の罪を背負うための殉教体験が待っているわけね。
男性学本を読んでる時のどん詰まり感ってこんな感じだ。
そして男性学本で語られている「男性の生きづらさ」は主に性愛的な面での女性との関係性に関するものがかなり多くて、違和感がある。まるで女性を通じてしか「男性の生きづらさ」もっと言えば「男性」そのものについて語れないといった風に感じる時もあって、これも物足りなかったんだよ。
まあ実際、今の男性学を担う論者は俺と十歳以上離れていて、世代が違う。そりゃ考えが違ってくるのも当然で、批判するというのは不当だと思う。とはいえ、不満は感じざるを得なかった。もっと別の道はないのかってね。
そんななかで出会った本が周司あきらの『トランスジェンダー男性によるトランスジェンダー男性学』(大月書店)だった。
本を読んで、考え、執筆する日々。こんな作業が不要であればいいのにと願いながらも、まだ私は情報を必要としていました。それくらい孤独でした。私と同じようなトランス男性はいったいどこにいるのでしょうか。
そんな書き出しで始まるこの本はトランス男性である著者が、自身の経験を基にトランスジェンダーについて説明するとともに「男性であるとは?」についての思考を深めていく本なんだ。
俺は読みながら静かな衝撃を覚えたよ。ここには自罰的な男性学に対する疑問が綴られており、もっと前向きな男性学を作れないかへの思考に溢れていたからだ。
そしてこの本の後も、彼は「男性として生きることの喜びや楽しさを語れないか?」と積極的に活動を続けて、次作の『埋没した世界 トランスジェンダーふたりの往復書簡』(明石書店、五月あかりと共著)でこう端的に語ってる。
これから切実に考えなければならない気がするのは、「いかに良い男性になるのか」というテーマなのです。Toxic Masculinity (有害な/有毒な男性性)とよく批判されますけれども、早くそこに囚われている段階を脱して、もう少し「男性」を豊かにできないものかと。
俺としてもこれに深い共感をも覚えたんだよ。自分にも「男性として生きることがそんなに苦痛か?」という気持ちがあった。男性ってのは本当に、本質的に悪で、生きてるだけで他人を傷つけて、挙句の果てには自身の人生も苦しみに満ちているのか?って俺は正直疑問だった。
それは引きこもるなかでクィア理論はもちろんだが、クィア当事者が作りあげた小説や映画に触れ、性の多様性を知るなかで、男であることに関して、前向きと言えるか分からないが、少なくとも後ろ向きではない気持ちを覚えるようになっていたからだ。
これに関して「引きこもってて『男らしさ』を押しつけられる経験なんかなかったから、そう言えるんだろ」と思う読者もいるかもしれない。
それはその通りかもしれない。だが男性性について、その視点だからこそ語れるものだってあるんじゃないかと俺は思ってる。そんな俺だからこそ書けるものがあるんじゃないかと。
こうして俺には二つの目標ができた。
まず一つ目が千葉ルーへの大反響のなかで始まった「脱引きこもり」ってやつ。
二つ目が、周司さんの言葉を引き受けながら新たなる男性像、もっと言えば多数派男性像を自分なりに作りあげていくってこと 。これを理論構築とその実践、両方ともやることで、何よりも自分自身を変えていきたいわけだよ。
そしてこの二つの交錯地点に爆誕したものこそが「脱ひきこもり男性学」なんだ。
とはいえ、まだ名前が融合しただけで、中身は当然すっからかんだ。
俺はこの本を粘り腰で書いていくことで、この概念に意味を注ぎこみ、最後には読者のみんなに胸を張ってドンとお出しできるようなものを作りあげていきたいのさ。
ということで早速「脱ひきこもり男性学」ってやつを始めていこう! ……
……
…………
………………こう威勢よく宣言かましながらも、実際、本の執筆ってのは長い過程だ。そのなかで自身も想像のつかなかった場所へ、書き手が導かれていく時がある。
この序文を書いてから数ヶ月、「エッセイスト」という職業がもたらす忙しなさに翻弄されるがままだった。未公開映画を観たり、ルーマニア語に触れたりする時間が明らかに少なくなり、生活の洗礼ってやつを喰らわされるがままになってた。
そんな激動のなかで俺は、俺自身がちょっと自分を見失い始めているのに気づいちまった。そうして、どうしても立ち止まってしまうって瞬間があってさ、そこでふと思ってしまったんだよ―昔の俺と今の俺って本当に同一人物なのか?
千葉ルーが生んだ変化は俺に、確かに喜びをもたらしてくれた。だがそれは、いつだって悲しみ、そして寂しさと表裏一体なんだ。今、俺はその寂しさのなかで、昔の自分と別れようとしているのかもしれない。
これが……もしかして「大人になる」ってことか?
千葉ルーは、まるで炸裂する打上げ花火のような勢いを宿していた。この本もまた、その勢いを受け継ぎながら書き始めた。だが俺は今、この本のなかに線香花火が見える。小さな輝きを、儚く散らす線香花火の侘しさが見える……
この「大人になる」ってことの侘しさは、しかしこの本から目標を失わせるんじゃなく、もう一つの目標を宿してくれた。
第三の目標、それは正面切って「エッセイを書く」ってのをやってやるということだった。
がむしゃらに本を書いて、いつの間に「エッセイスト」になった俺は「エッセイ」ってそもそも何だ?というのを問わないままだった。だから今、俺は「エッセイスト」として「エッセイ」とは何かを問う必要があると思えた。そしてそれは、そもそも「生活」って何なんだよ?という目を背けてきた問いをも、自然と内包していった。
こういう目標の数々、そして変化の喜びと寂しさ。
それが全部ないまぜになった「脱引きこもり男性学」は、その果てに今『クソッタレな俺をマシにするための生活革命』という本として結実した。
いや……色々あった。この一年、本当に色々あったよ。
大いに迷い、大いに戸惑い、しかし何より大いに楽しんだ。
だからこそみんなにその結実、読んでほしいんだ。
上記内容は本書刊行時のものです。