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オリオンと林檎 朴花城(著/文) - 書肆侃侃房
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オリオンと林檎 (オリオントリンゴ)

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発行:書肆侃侃房
四六判
272ページ
上製
定価 2,300円+税
ISBN
978-4-86385-472-7   COPY
ISBN 13
9784863854727   COPY
ISBN 10h
4-86385-472-2   COPY
ISBN 10
4863854722   COPY
出版者記号
86385   COPY
Cコード
C0097  
0:一般 0:単行本 97:外国文学小説
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2021年9月7日
書店発売日
登録日
2021年7月1日
最終更新日
2021年8月30日
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紹介

2019年6月にスタートした韓国文学の源流シリーズは今回、短編選をスタートします。朝鮮文学時代から今の韓国現代文学に続く、古典的作品から現代まで、その時代を代表する短編の名作をセレクトし、韓国文学の源流を俯瞰できる10巻です。現代韓国文学に親しみ始めた読者が、遡って古い時代の文学も読めるようにしたいと考えています。

短編10巻、各巻は6~10編の各時代の主要作品を網羅します。

各巻には小説が書かれた時代がわかるような解説とその時代の地図、簡単な文学史年表が入ります。よりいっそう、韓国文学に親しんでいただければ幸いです。



日本植民地時代の1930年代韓国は、プロレタリア文学とモダニズム文学との相克の時代。揺れ動く時代を背景に、若い男女の交友関係を軸に、社会運動にのめり込んでゆかざるを得ない暗い時代が描かれる。実りのない恋愛を通して強く自立した生き方を模索する愛と葛藤の日々が、読むものの心に深く響いてくる。



2021年8月上旬全国書店にて発売。

著者プロフィール

朴花城  (パク・ファソン)  (著/文

一九〇四~一九八八 全羅南道木浦(チョルラナムド・モクポ)に生まれる。本名は朴景順(パク・キョンスン)、号は素影(ソヨン)。木浦にある貞明(チョンミョン)女学校を経てソウルの淑明(スンミョン)女子高等普通学校を卒業。忠清南道(チュンチョンナムド)の天安(チョナン)と牙山(アサン)、全羅南道の霊光(ヨングァン)中学校で教師生活を送る。一九二五年に李光株(イ・グァンス)の推薦を受けて「秋夕前夜」で登壇を果たす。一九二六年、日本女子大学英文学部に入学するが、本格的に作家として執筆活動を始めたのは帰国後の一九三〇年代に入ってからだった。日本留学は朴花城の思想形成に大きな影響を与えた。一九三二年、「下水道工事」が李光株によって「東光(トングァン)」に再び推薦され作家活動を再開。その年、女性作家初の新聞連載小説として「白花」が「東亜日報」に掲載された。その後も一九三八年まで作品活動を続け、「崩れた青年会館」(三四)、「洪水前後」(三四)、「旱鬼」(三五)、「プルガサリ」(三六)、「故郷なき人々」(三六)など二十編あまりの小説を発表する。彼女の作品には一貫して現実告発の傾向が強くにじみ出ており、富と貧困、地主と小作人、強者と弱者などの階級的対立関係の矛盾と、不条理に抗う民衆の姿を描き出しているという点で、社会性の強いリアリズム小説と評される。「重陽節」(三八)を最後に執筆を中断していたが、解放後の一九四六年、雑誌「民声(ミンソン)」に短編「春霞」を発表し執筆活動を再開した。大韓民国文化勲章、韓国文学賞、第一回芸術院賞を受賞。韓国文人協会理事、国際ペンクラブ韓国本部中央委員、韓国女流文人会初代会長を歴任した。生涯を通じて約二十編の長編小説、百編の短編小説、五百編の随筆と詩などの作品を残し八十四歳でこの世を去った。

李孝石  (イ・ヒョソク)  (著/文

一九〇七~一九四二 江原道平昌郡(カンウォンド・ピョンチャングン)に生まれる。号は可山(カサン)。京城第一高等普通学校を経て、一九三〇年京城帝国大学法文学部英文学科を卒業。一九三一年日本の恩師の口利きで朝鮮総督府警務局検閲係に一時就職するも、良心の呵責と周囲の非難により一カ月足らずで退職する。その後は妻の実家のある、咸鏡北道鏡城(ハムギョンプクド・キョンソン)に移り鏡城農業学校で英語教師、後に平壌の崇実(スンシル)専門学校教授として赴任する。教員をしながら文筆活動を行っていたこともあり、経済的には比較的余裕があったとされる。高等普通学校在学中の一九二五年「毎日申報」の新春文芸に詩「春」が選外佳作となるが、大学在学中の一九二八年雑誌「朝鮮の光」に短編「都市と幽霊」を発表したのが正式な文壇デビュー。初期の作品は「露領近海」(三一)「上陸」(三〇)「北國私信」(三〇)など、傾向文学の色合いが濃く、同伴者作家とも言われていた。一九三二年以後、純粋文学の世界に傾倒していき、作品には「オリオンと林檎」(三二)、「豚」「雄鶏」(三三)などがある。一九三三年には「九人会」結成の発起人の一人となり、完全に純粋文学へと移行していく。三十代前半がもっとも執筆活動が盛んな時期で、短編「山」(三六)「野」(三六)「石榴」(三六)など、毎年十作以上の短編や散文を発表していた。特に短編「そばの花咲く頃」(三六)は自然と人間の心理を美しく描写した彼の代表作として現代まで広く読み継がれている。故郷や自然への郷愁をモチーフにした短編小説が多いなか、学生時代に読み耽ったチェーホフや英語教師として過ごした経験も影響し、モダンボーイや海外の近代文化を基盤にした作品や、不倫や痴情を描いた長編小説を執筆するなど、その作品世界は幅広い。長編の代表作には「花粉」(三九)「碧空無限」(四〇)などがある。一九四〇年妻に先立たれ、ほどなく幼い次男まで亡くすと、失意のうちに満州などを転々とする。そのころから体調を崩し、一九四二年脳膜炎を患い三十五歳の若さで夭折する。

金裕貞  (キム・ユジョン)  (著/文

一九〇八~一九三七 江原道春川(カンウォンド・チュンチョン)出身。富農の家に二男六女の七番目として生まれるが、両親の死後、兄の放蕩により家産が傾き故郷を離れる。十二歳の頃にソウルの齊洞(チェドン)公立普通学校に入学、一九二九年に徽文(フィムン)高等普通学校を卒業、その翌年に延禧(ヨンヒ)専門学校(延世大学校の前身)と普成(ポソン)専門学校(高麗大学校の前身)に進むがいずれも中退。その後は故郷に戻り、農村の立ち遅れた環境を改善するために夜学校を開設し農村啓蒙運動を展開するなか、一九三三年に「山あいの旅人」、「チョンガーとカエル」を発表し登壇を果たす。一九三五年、「朝鮮日報」と 「朝鮮中央日報」の新春文芸に「夕立」と「ノダジ(富鉱脈)」がそれぞれ当選し一躍注目を浴びる小説家となった。同年、朝鮮の文学親睦会である「九人会」に入り、既存の会員だった李箱(イ・サン)と知り合い共に文壇活動を行う。登壇から二年間で「金を掘る豆畑」(三五)、「春・春」(三五)、「椿の花」(三六)、「タラジ」(三七)など、約三十編の小説と十編の随筆を発表。純朴な故郷の風景や、登場人物のありのままの生きざまを風刺とユーモアを交えて描きながら、物語の意外な展開やどんでん返しで笑いに昇華させるシニカルな作風を持ち味としている。生活に困窮した農民たちの姿や自身の経験に基づいた植民地期の冷徹な現実を見据えつつも、苦しい時代を生き抜くための愛と人間味を素材とした作品が多い。「椿の花」、「春・春」はそれぞれ韓国中・高等学校の国語の教科書に収録されている。一九三七年、京畿道(キョンギド)広州(クァンジュ)郡で肺結核のため二十九歳の短い生涯を終えた。

李箕永  (イ・ギヨン)  (著/文

一八九五~一九八四 忠清南道牙山(チュンチョンナムド・アサン)生まれ。号は民村(ミンチョン)。開化思想を持つ父は家庭を顧みず、貧しい少年時代を送った。一九二〇年代初めに渡日し、正則英語学校(現在の正則学園高校)に入学するも、関東大震災により学業を中断して朝鮮に戻ることを余儀なくされる。一九二四年、「兄の秘密の手紙」が「開闢」に掲載されて登壇。翌年、詩人・作家の趙明熙(チョ・ミョンヒ)の推薦で雑誌「朝鮮之光」に記者として就職するとともに、朝鮮プロレタリア芸術家同盟(KAPF)に参加した。KAPFの一斉検挙により三一年と三四年の二度拘束され、二度目の検挙では一年半にわたり投獄された。三三年に「朝鮮日報」に連載した中編「鼠火」、同年から三四年にかけて同紙に連載した長編「故郷」は、植民地朝鮮の農村問題を素材とし、貧困にあえぐ農民の暮らしを描いた作品として代表作に挙げられる。三五年にKAPFが解散すると、翌年には転向小説とされる「寂寞」を発表。三九年に朝鮮文人協会に発起人として参加し、親日的活動にも関与した。植民地時代末期には江原道内金剛(カンウォンド・ネグムガン)に疎開し、農作業を行いながら隠遁生活を送る。解放後は北に渡り、左翼作家として朝鮮文学芸術総同盟を率いた。その後も八四年に病没するまで芸術団体のトップを歴任した。長男の李平(イ・ピョン)は金正日(キム・ジョンイル)の最初の妻、成蕙琳(ソン・ヘリム)の前夫である。主な作品に「民村」(二七)、「開闢」(四六)、「蘇える大地」(四九)、「豆満江」(五四~六一)などがある。

朴栄濬  (パク・ヨンジュン)  (著/文

一九一一~一九七六 平安南道江西郡(ピョンアンナムド・カンソグン)に生まれる。号は晩牛(マヌ)、西嶺(ソリョン)。平壌の崇実(スンシル)中学校、光成(クァンソン)高等普通学校を経て延禧(ヨンヒ)専門学校文科に入学、一九三四年の卒業と同時に長編「一年」が「新東亜」、短編「模範耕作生」が「朝鮮日報」の新春文芸に当選し、文壇にデビューした。一九三五年に抗日グループが若者の左傾化を図ったとして検挙された「読書会事件」にかかわり五か月間拘留された後、満洲の吉林省に移住、教師生活を送るが、戦争が終わると帰国。京郷新聞社の文化部長、高麗文化社の編集長などを経て、陸軍本部の政訓監室に文官として勤務、従軍作家団の事務局長なども務めた。その後は漢陽大副教授などを経て延世大教授、後には文理科学部の学部長も務めている。三〇年代中頃の作品は、主に農村の貧困を素材とし、苦痛にあえぐ人々への人間主義的な愛をテーマとしたものだった。「一年」「模範耕作生」「父の夢」「綿の種を蒔くとき」(いずれも三四)といったその頃の作品には啓蒙や思想の色は感じられず、農民の実情や思いが描かれている。戦争が終わると小説の舞台を都市に移し、都市の小市民の生活を中心に人間の孤独や倫理問題を粘り強く追求するようになるが、それを通じて彼は、人間というのはもともと孤独な存在だが、そのことに絶望するのではなく、むしろ高揚した精神世界に昇華させてゆくべきという生への意志と姿勢を打ち出すとともに、物質・快楽主義に陥り、人間としての基本的な倫理意識さえもマヒしてしまった現代人の姿を暴いてもいる。その生涯を通じて彼は、前述の短編「綿の種を蒔くとき」(三六)をはじめとし、「風雪」(四七)、「龍草島近海」(五三)、「古壺」(五四)など多数の作品を生み出しているが、それらを通して窺える彼の文学的特性は、面白さや脱倫理的な感覚などに向かう文壇の流れにも揺らぐことなく一貫していた。人間としての誠実さや正直さを描くことによる「善良な人間像」の追求だ。

朴泰遠  (パク・テウォン)  (著/文

一九一〇~一九八六 筆名、号は泊太苑(パク・テウォン)、夢甫(モンボ)、仇甫(クボ)、丘甫(クボ)など多数。一九一〇年にソウルに生まれる。幼い頃から文学に強い興味を示し、李光洙、廉想渉、金東仁などの作品を通じて文学に傾倒してゆく。京城第一公立高等普通学校に在学中の一九二六年に詩「ヌニム(姉上)」が「朝鮮文壇」の佳作に入り、早くも文壇にその名を登場させる。三〇年に渡日し、法政大学の予科に入学するも中退。しかし留学時代に現代芸術全般にわたり幅広い見識を得る。初期には主に詩を書いていたが、のちに短編小説を書き始める。三三年には李泰俊の誘いで「九人会」に参加、その頃から文壇の注目を集めはじめ、中編「小説家仇甫氏の一日」(三四)などを発表、芸術派作家としての地位を確固たるものにしてゆく。特に一九三六年には、長編「川辺の風景」、全編がひとつの文章からなる「芳蘭荘の主」など、彼の代表作となる作品が多数発表された。特に当時の都市の様子を精密に描写した「川辺の風景」は、「リアリズム小説」、「世態小説」などと称され、話題を呼ぶ一方で、プロレタリア作家らから批判を受けるなど、文学界に論争を引き起こしもした。一九三九年以降は、主に自らの体験をモチーフにした小説や中国の歴史小説の翻訳などを発表していたが、一九五〇年の朝鮮戦争勃発を機に北に渡り、平壌文学大学で教鞭をとったりしながら主に歴史小説を執筆した。代表的なものとして「甲午農民戦争」(一~三部、七七~八六)があるが、これは北朝鮮で最高の歴史小説と評価されている。朴泰遠の初期の小説は文体や技法、テーマなどにおいてモダニズム小説の特徴を如実に示しており、作品のイデオロギーより文章の芸術性や人物の内面の描写を重んじている。こういった作品傾向から、韓国では友人である李箱とともに三十年代を代表するモダニズム作家とされている一方で、北朝鮮では歴史小説の大家と評価され、 七九年には国家勲章も受けている。

玄徳  (ヒョン・ドク)  (著/文

一九〇九~未詳 ソウル生まれ。本名は玄敬允(ヒョン・ギョンユン)。仁川(インチョン)の大阜(テブ)公立普通学校を中退し、中東学校速成科に一年通う。一九二五年、第一高等普通学校に入学するが、すぐに中退。一九二七年、「朝鮮日報」新春文芸童話部門に「月から落ちたウサギ」が一等入選し、一九三二年には童話「ゴムシン」が「東亜日報」で佳作を受賞。その後多くの童話を「少年朝鮮日報」などで発表した。一九三八年、「朝鮮日報」に「草亀」が当選し正式に文壇デビュー。裕福な家庭に生まれたが、最下層の生活を送った経験が作品に反映されている。彼の作品は大きく二つの部類に分けられる。一つ目は天真爛漫な子どもの目から農村共同体が瓦解していく様子を描いたもので、「草亀」(三八)、「驚蟄」(三八)、「ヒキガエルが食べたお金」(三八)などが挙げられる。どれも農村共同体が解体し、故郷を捨てて都市郊外に移り住んだ農民が没落していく様子を描くことで、日本統治下の社会的矛盾を描き出している。二つ目は無気力な知識人を主人公にして堕落した都市を描いたもので、「路地」(三九)、「群盲」(四〇)などが挙げられ、一九三〇年代後半の貧しく、奇形的で、退廃的なソウルをありありと描き出している。一九四六年に朝鮮文学家同盟に参加し、一九五〇年に越北。その後も作品を発表したが、一九六二年に粛清されたとされ、それ以降の行方はわかっていない。

李泰俊  (イ・テジュン)  (著/文

一九〇四~未詳 江原道鉄原(カンウォンド・チョルウォン)に生まれる。号は尚虚(サンホ)または尚虚堂主人(サンホダンチュイン)。幼少時代をウラジオストクで過ごし、父親が亡くなると故郷に戻って鳳鳴(ボンミョン)学校を卒業し徽文(ヒムン)高等学校に入るが、同盟休校の首謀者として退学処分となる。その後日本の上智大学予科に入学し、中退。一九二五年、「朝鮮文壇」に「五夢女」が入選し文壇デビュー。一九二九年から雑誌の編集にたずさわり、エッセーや少年読本を書く。一九三三年には朴泰遠、李孝石、鄭芝溶らと共に九人会を結成し、日本統治時代末期まで多くの作品を発表し続けた。一九四一年に第二回朝鮮芸術賞(受賞作不詳)、一九四六年に「解放前後」で第一回解放記念朝鮮文学賞を受賞。一九四六年七~八月頃に越北したとされるが、一九五六年に粛清されてからの行方は定かでない。九人会への参加により叙情性の強い作品を定着させ、一九三四年から「月夜」などの短編集を七冊、「思想の月夜」などの長編を一三冊出版。一九四五年光復以前の作品は、思想的なものより文章の妙味を生かした芸術至上的な色彩を帯びており、世情の繊細な描写や同情的な視線で物事を見つめる姿勢が、短編小説の芸術的完成度と深みをもたらせたという点で、韓国を代表する短編小説作家として評価されている。光復以降は朝鮮文学家同盟の核心メンバーとして活動する中、作品にも社会主義的な色彩をにじませようと努めた。

小西直子  (コニシナオコ)  (翻訳

日韓通訳・翻訳者。静岡県三島市生まれ。立教大学文学部卒業。一九八〇年代中頃より独学で韓国語を学び、一九九四年、延世大学韓国語学堂に語学留学。以後、韓国在住。高麗大学教育大学院日本語教育科修士課程単位取得退学、韓国外国語大学通訳翻訳大学院韓日科修士課程修了。現在は韓国で通訳・翻訳業に従事。訳書に、イ・ギホ『舎弟たちの世界史』(新泉社)、イ・ドゥオン『あの子はもういない』(文藝春秋)、キム・ジュンヒョク『ゾンビたち』(論創社)、金学俊『独島研究』(共訳、論創社)がある。

李聖和  (イソンファ)  (翻訳

大阪生まれ。関西大学法学部卒業後、会社勤務を経て韓国へ渡り韓国外国語大学通訳翻訳大学院修士課程(韓日科・国際会議通訳専攻)修了。現在は企業内にて通訳・翻訳業務に従事。韓国文学翻訳院翻訳アカデミー特別課程・アトリエ課程修了。第二回「日本語で読みたい韓国の本翻訳コンクール」で最優秀賞受賞。訳書にペク・スリン『静かな事件』(クオン)、『わたしの心が傷つかないように』(日本実業出版社)などがある。

岡裕美  (オカヒロミ)  (翻訳

同志社大学文学部卒業、延世大学国語国文学科修士課程修了。二〇一二年、第十一回韓国文学翻訳院翻訳新人賞を受賞。訳書にキム・スム『ひとり』(三一書房)、イ・ジン『ギター・ブギー・シャッフル』(新泉社)、『僕は李箱から文学を学んだ』(クオン、共訳)、『韓国・朝鮮の美を読む』(野間秀樹・白永瑞編、クオン、共訳)などがある。

姜芳華  (カンバンファ)  (翻訳

岡山県倉敷市生まれ。岡山商科大学法律学科、梨花女子大学通訳翻訳大学院卒、高麗大学文芸創作科博士課程修了。梨花女子大学通訳翻訳大学院、漢陽女子大学日本語通翻訳科、韓国文学翻訳院翻訳アカデミー日本語科、同院翻訳アトリエ日本語科、ハンギョレ教育文化センターなどで教える。韓国文学翻訳院翻訳新人賞受賞。日訳書にチョン・ユジョン『七年の夜』(書肆侃侃房)、同『種の起源』(早川書房)、ピョン・ヘヨン『ホール』、ペク・スリン『惨憺たる光』(共に書肆侃侃房)、『私の生のアリバイ』(クオン)、チョン・ミジン『みんな知ってる、みんな知らない』(U-NEXT)など。韓訳書に児童書多数。共著に『일본어 번역 스킬(日本語翻訳スキル)』(넥서스 JAPANESE)がある。

上記内容は本書刊行時のものです。