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アメリカの挫折 寺地功次(著) - めこん
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9784839603274

アメリカの挫折 「ベトナム戦争」前史としてのラオス紛争

歴史・地理
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発行:めこん
A5判
縦216mm 横155mm 厚さ35mm
重さ 920g
544ページ
上製
定価 5,000円+税
ISBN
978-4-8396-0327-4   COPY
ISBN 13
9784839603274   COPY
ISBN 10h
4-8396-0327-8   COPY
ISBN 10
4839603278   COPY
出版者記号
8396   COPY
Cコード
C3022
専門 単行本 外国歴史
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2021年8月18日
書店発売日
登録日
2021年7月21日
最終更新日
2021年9月3日
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紹介

アメリカはなぜ小国ラオスに手を出したのか?
膨大な軍事援助をつぎ込み、政治に干渉し、信じられないほどの量の爆弾を投下して、多くの人を殺傷し、結局、反共産政府の確保という目的に失敗。この失敗はその後アメリカが経験するベトナムでの挫折の前触れとなった。
アイゼンハワーは、ケネディは、どこで間違ったのか、なぜ間違ったのか。
膨大な政府文書の分析を軸に、アメリカのラオスにおける挫折の歴史を再現。
その後のアメリカのイラクやアフガニスタンへのコミットメントを考察する上での格好のテキストであり、またヴェールに包まれていた1950~60年代のラオス現代史が明らかになるなど、さまざまな視点から読むことができる大著です。

目次

序章

第1章 第1次インドシナ戦争とアメリカによるラオス介入の起源
第1節 第2次世界大戦後のラオス情勢とアメリカ
1. 戦後初期のアメリカの東南アジア政策
2. ラオ・イサラとフランスのラオス再占領
3. ラオ・イサラ亡命政府とスパーヌウォン
4. 1949年フランス・ラオス一般協定
第2節 中国とアメリカのインドシナ政策
1. 中国によるベトミン支援の開始
2. アメリカのアジア政策とインドシナ
3. アメリカの「ラオス王国」承認とインドシナ援助
第3節 1950年以降のラオス情勢とパテート・ラーオ
1. ネーオ・ラーオ・イサラの発足
2. ベトミンとパテート・ラーオ
3. ベトミン軍による「国境作戦」と「北西部作戦」
第4節 朝鮮戦争勃発後のアメリカの東南アジア政策とラオス
1. インドシナ援助の開始とNSC 48/5、NSC 124/2
2. 「平穏なラオス」
第5節 1953年のベトミン軍のラオス侵攻
1. ベトミン軍のラオス侵攻とアメリカの対応
2. インドシナ援助の増大と「ラオス要因」
3. ベトミン軍のラオス再侵攻

第2章 1954年ジュネーブ会議とアメリカの対ラオス政策
第1節 ジュネーブ会議前のアメリカのインドシナ政策
1. NSC 5405と「秘密作戦」、「国内的安全保障」
2. インドシナ軍事介入論争と現地軍の育成、「国内的安全保障」
3. ディエン・ビエン・フー危機と「統一行動」
4. 東南アジアにおける集団防衛体制の模索
第2節 ジュネーブ会議におけるアメリカの政策
1. ジュネーブ会議参加国をめぐる問題
2. ジュネーブ会議とラオス・カンボジア問題
3. ラオス・カンボジア問題の切り離しと外国軍撤退
4. 米英7原則と東南アジア集団防衛体制
第3節 ジュネーブ合意の成立とラオス
1. 仏軍基地、パテート・ラオ「再集結地域」をめぐる対立
2. ダレス、マンデス=フランス、イーデン会談
3. ジュネーブにおける最終合意
第4節 ジュネーブ合意に対する評価
1. ラオスに関するジュネーブ合意
2. ラオス国内の反応
3. アメリカの反応
第5節 マニラ条約と東南アジア条約機構(SEATO)の発足
1. 米英合同研究グループと多国間協議の開始
2. マニラ条約の成立

第3章 1954年ジュネーブ会議後のアメリカの対ラオス援助体制の構築
第1節 アメリカによる対ラオス直接援助の開始
1. 直接援助の提案
2. ラオス国内情勢
3. カントリー・チームの始動
第2節 王国政府との協議とアメリカの軍事援助
1. 対ラオス軍事援助に対するJCSの留保
2. ヨスト公使の王国政府との協議とアメリカの圧力
3. 「緩衝地帯」としてのラオスとNSC 5429/5
4. 王国軍兵力レベルと対ラオス軍事援助の決定
第3節 王国政府=パテート・ラーオ交渉とアメリカの反対
1. 王国政府=パテート・ラーオ交渉をめぐるアメリカの圧力
2. ダレスのラオス訪問
第4節 王国政府=パテート・ラーオ交渉の決裂
1. バンドン会議と王国政府
2. 交渉の決裂
第5節 自主防衛計画と「計画評価局」(PEO)
1. ラオス警察・憲兵隊の増強
2. 自主防衛計画の開始
3. PEOの設置
4. タイ・ラオス軍事協力

第4章 1955年選挙とアメリカの干渉
第1節 情報宣伝活動とラオス政治家への支援
1. 情報宣伝活動
2. 国民戦線形成とアメリカの資金援助
第2節 アメリカによる経済的救援活動と情報宣伝活動
1. 6カ月行動計画と経済的救援活動
2. 選挙直前の情報宣伝活動
第3節 1955年選挙の結果
1. アメリカによる選挙干渉と民主主義
2. 「ラオス愛国戦線」(NLHX)の発足
第4節 1955年選挙後のアメリカの対ラオス援助政策
1. 軍事援助の拡大と自主防衛軍の増強
2. NSC 5612/1とラオス作戦計画

第5章 アメリカによるパテート・ラーオとの合意への反対と国内的安全保障
第1節 スワンナプーマーの交渉路線とアメリカの反対
1. 1956年8月スワンナプーマー=パテート・ラーオ予備合意とアメリカの圧力
2. 王国政府指導者の北京訪問
3. 1956年12月スワンナプーマー=パテート・ラーオ暫定合意とアメリカの対応
第2節 アメリカによる民生援助計画、友愛作戦と選挙対策
1. 民生援助計画と30万ドル緊急援助
2. 友愛作戦
3. ラオス作戦計画の立案
第3節 1957年政治危機とスワンナプーマー=パテート・ラーオ最終合意
1. 暫定合意後の政治危機
2. 第3次スワンナプーマー内閣の成立
3. 1957年11月スワンナプーマー=パテート・ラーオ最終合意

第6章 1958年補完選挙とアメリカの干渉
第1節 アメリカの政策転換と補完選挙対策
1. 国内的安全保障とスワンナプーマー政府との協力
2. パーソンズ提案と50万ドル特別資金援助計画
第2節 アメリカによる選挙干渉の実態
1. 国民戦線の形成と候補者への資金援助
2. ブースターショット作戦
第3節 1958年補完選挙の結果

第7章 1958年補完選挙後のラオス内政とアメリカの干渉
第1節 補完選挙後のラオスとアメリカ
1. 「ラオス人民連合」(RPL)設立とアメリカの圧力
2. 「国益防衛委員会」(CDNI)設立とアメリカの支援
3. 「活発な政治勢力」としての王国軍
第2節 プイ・サナニコーン政府とアメリカの関与・圧力
1. プイ・サナニコーン政府の発足とアメリカの圧力
2. アメリカの援助をめぐる不正・腐敗と通貨改革
3. 民生援助計画の拡大
4. PEOの増員・権限拡大と王国軍訓練への参加
第3節 深まる危機
1. 1NLHX排除とプイ政府の対外政策
2. プイ首相への特別権限委任――「砲火を浴びる民主主義」
3. ハノイ、ヴィエンチャンとジュネーブ合意の形骸化
4. プイの苦境とアメリカのジレンマ
第4節 転換点としての1958年

第8章 1959年危機と軍部・CDNIクーデター、1960年選挙
第1節 1959年危機の発生
1. 王国軍=パテート・ラーオ軍統合の失敗
2. 王国軍=パテート・ラーオ軍の衝突
3. 国連安保理事会小委員会のラオス派遣
第2節 1959年危機へのアメリカの対応
1. 王国軍・自主防衛軍の増強
2. 米軍派遣の提案とラオス非常事態計画
第3節 軍部・CDNIの1959年12月軍事クーデター
1. 軍部・CDNI支持をめぐる米政府内の対立
2. クーデター直前のワシントンの政策変更
3. 1959年12月軍事クーデター
第4節 1960年選挙とアメリカ
1. クー・アパイ暫定政府の発足
2. 1960年選挙に対するアメリカの政策
3. 1960年選挙の結果
第5節 「赤の殿下」スパーヌウォン逃走とソムサニット政府の成立
1. 米英仏豪4カ国による圧力
2. スパーヌウォン逃走事件

第9章 ラオス内戦とアメリカ――1960年コンレー・クーデターと本格的内戦の開始
第1節 1960年8月、コンレーの軍事クーデター
1. コンレー・クーデターの発生
2. コンレーとプーミー・ノーサワン
3. ソムサニット内閣辞職とスワンナプーマーの復活
第2節 スワンナプーマー政府=プーミー=ブンウム派の対立とアメリカの対応
1. コンレー・クーデター直後のアメリカの政策
2. スワンナプーマー政府の成立とプーミー=ブンウム派の離反
3. プーミー=ブンウム派の「反クーデター革命委員会」
第3節 アメリカによるプーミー=ブンウム派への軍事的財政的支援
1. ワシントン=ヴィエンチャンの意見対立
2. プーミー=ブンウム派への全面的支援と国王への働きかけ
3. パーソンズ特別使節団のラオス訪問とソ連
4. スワンナプーマーとの「便宜的」協力からスワンナプーマー排除へ
第4節 ヴィエンチャンの戦闘とプーミー=ブンウム「暫定政府」支持
1. プーミー軍によるヴィエンチャン侵攻作戦へのアメリカの全面的支援
2. ヴィエンチャンの戦闘とソ連による軍事援助の開始
3. アメリカのプーミー=ブンウム「暫定政府」支持

第10章 ケネディ政権の登場とラオス軍事介入計画
第1節 アイゼンハワー政権とケネディ政権の軍事介入計画・政治交渉路線
1. アイゼンハワー政権からケネディ政権へ
2. 王国軍への軍事支援拡大(NSAM 29)と政治的解決の模索
第2節 キーウェスト会談、米英軍事介入計画とSEATOプラン5
1. ケネディ大統領のテレビ会見――政治的解決と軍事的解決
2. ケネディ=マクミランのキーウェスト会談
3. SEATOプラン5と米英軍事介入計画の立案
第3節 ケネディ政権のラオス軍事介入論争
1. 錯綜する軍事介入論争
2. ピッグズ湾事件

第11章 1962年ラオス「中立化」の成立とアメリカ
第1節 ラオス「中立化」交渉の開始
1. ジュネーブ会議の開催
2. プーミー訪米
3. 1961年8月米英仏パリ合意とスワンナプーマー首相支持
第2節 プーミーへの「圧力」と交渉の行き詰まり
1. ハリマンのプーミー評価
2. 米政府内の意見対立とハリマン
3. 「感謝祭の虐殺」
4. プーミーへの「圧力」と懐柔策
第3節 スワンナプーマーとの「直接交渉」路線への転換
1. ナムターの衝突とスワンナプーマーとの「直接交渉」
2. ハリマンの脅しと「軍事制裁」の検討
3. 「軍事制裁」の決定
第4節 ナムター陥落とラオス「中立化」の成立
1. ナムター陥落
2. ラオス「中立化」の成立
3. アメリカの政策の限界と挫折

第12章 ラオス「中立化」の崩壊と第2次インドシナ戦争
第1節 ラオス「中立化」の形骸化
1. 「国家統一暫定政府」の実質的崩壊
2. アメリカ「撤退」のための「中立化」とその代償
第2節 アメリカによるラオス偵察飛行と報復爆撃
1. ケネディ政権のラオス非常事態計画
2. 1964年「4月危機」とアメリカによる間接爆撃・偵察飛行の開始
3. 1964年6月、アメリカによるラオス報復爆撃
第3節 アメリカによるラオス空爆の本格化と第2次インドシナ戦争
1. トライアングル作戦 452
2. ホー・チ・ミン・ルートに対する「侵攻阻止爆撃」
3. バレル・ロール作戦と継続的空爆の本格化

終章
あとがき
参考文献

前書きなど

序章

 1821年7月4日――いまから200年前のアメリカ合衆国の独立記念日に、その後第6代アメリカ大統領となるジョン・クィンジー・アダムズ(John Quincy Adams)は歴史に記憶される有名な演説をおこなった。当時、アダムズは、ジェイムズ・モンロー(James Monroe)大統領の国務長官として、ラテン・アメリカのスペイン植民地の独立問題に対する対応を迫られていた。アメリカ外交史の研究書などでもしばしば引用されることになるこの演説でアダムズは、独立宣言以来の半世紀近く、諸国家のなかでアメリカが「平等な自由、平等な正義、そして平等な権利」という原則を掲げ、他国の独立を尊重し他国の問題に干渉することを控えてきたことを強調した。そして次のように述べたのである。

 自由と独立[freedom and independence]という旗が広げられたときはいつでも、またこれからも彼女[アメリカ]の心と祝福、祈りは共にある。
 しかし、彼女は破滅に追い込むべき怪物を追い求めて[in search of monsters to destroy]海外に行くことはない。
 彼女はすべての者の自由と独立を祝福し祈る者である。
 彼女は自らの自由と独立のためのみの闘士でありその擁護者に過ぎない。

 このように述べた上でアダムズは、自由と独立の擁護者であるはずのアメリカが他国の戦争に巻き込まれることに対し、次のように戒めた。

 アメリカは、たとえ他国の独立のためという旗の下であれ、自国以外の旗の下に参加することになれば、自らの力では抜け出すことができない、利害と陰謀そして個人の欲、妬み、野心が渦巻くあらゆる戦争に巻き込まれることになり、そして戦争は本性を現し自由の旗は踏みにじられることになることを熟知している。その政策の基本的な原理は、知らず知らずのうちに、自由から力へと変わることだろう……。彼女は世界の支配者となるかもしれない。しかし、もはや自らの精神の支配者ではなくなるだろう。

 このようなアダムズの警句にもかかわらず、19世紀はアメリカの膨張主義の時代と呼ばれるようになった。そして20世紀、21世紀のアメリカは、2度の世界大戦のみならず、世界の多くの国々の紛争に軍事的に関与する大国となった。
 1950年代以降のラオスの紛争は、第2次世界大戦後の世界でアメリカがそのように軍事的に関与した最初の事例のひとつである。当時、アメリカがラオスで「破滅に追い込むべき怪物」と見なしたのはパテート・ラーオ(The Pathet Lao)と呼ばれた左派勢力だった。しかし、パテート・ラオの軍事勢力は当初2000名程度と考えられていた。もちろん、アメリカが見ていたのは、パテート・ラオだけではなく、その背後にいたベトナムの共産主義勢力や中国、ソ連の存在だったろう。それでも、なぜアメリカは「自由と独立」を擁護するためという名目で、人口が200万人にも満たなかったこの遠い国ラオスに自ら出かけていったのか、そしてなぜアメリカの政策は挫折することになったのか。また、この挫折の過程においてアメリカは、第2次世界大戦中に自らがドイツと日本に投下した爆弾の総量を越える爆弾をラオスに投下することになった。ラオスの多くの人々から見れば、アメリカそのものがなぜ「怪物」とも言える存在と化してしまったのだろうか。このような疑問が本書の分析の根底にある問題意識である。
 しかし、ラオスにおけるアメリカの関与や戦争は、ベトナムにおける戦争の陰にかくれて、今日では知られていないことが多い。実際、1960年代半ばの空爆や戦闘部隊の派遣によるアメリカのベトナムへの本格的な軍事介入について語るとき、「ベトナム戦争」という呼称を使うことは一般的である。また、第2次世界大戦後のアメリカの東南アジア政策に関する研究もその焦点がベトナムに集中する傾向がある。しかし、アメリカの東南アジアあるいはインドシナにおける軍事的関与の深まりを理解する際、ベトナムを中心に歴史を語ることは、そのような関与の拡大過程や「ベトナム戦争」そのものの実態を単純化しかねない危険性をはらんでいる。
 戦後の東南アジアにおけるアメリカの関与は、ベトナムやアメリカの植民地であったフィリピンに限られたものではなかった。たとえば、1945年から1949年のインドネシア独立紛争では、国際連合の「インドネシア問題に関する斡旋委員会」(The Committee of Good Offices on the Indonesian Question)の一員として、アメリカは紛争の調停に深く関わった。そして最終的に宗主国オランダに圧力をかけ、スカルノ(Sukarno)、モハマッド・ハッタ(Mohammad Hatta)らによるインドネシアの独立達成の過程で重要な役割を果たす。結果的にはインドネシア独立を支持したこのようなアメリカの政策は、一見すると、フランスのインドシナへの復帰を支持し、この時期はまだインドシナ紛争への直接的な関与を回避していたアメリカの政策とは対照的なものだった。
 アメリカによるインドネシアへの関与はその後も続いた。1958年になるとアメリカは、ドワイト・D・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)政権の下で、インドネシア内政へのあからさまな介入をおこなう。アメリカはスカルノ政府が「左傾化」したと見なし、この年、同政府に対する反乱勢力を「秘密作戦」(secret operations)により軍事的、財政的に支援した。しかし反乱は鎮圧され、アメリカの介入は失敗に終わる。但し、このときの反乱鎮圧で示されたインドネシア国軍の実力を評価したアメリカは、インドネシアにおける西側指向の反共主義勢力としての国軍の重要性を認識するようになった。その後もインドネシアとアメリカの関係は紆余曲折を経るが、1965年の9・30事件以降のスハルト(Soeharto)軍事独裁体制とアメリカとの緊密な関係の基礎はこの頃から作られることになった。
 戦後のタイ王国に対するアメリカの本格的な関与は、王国軍と準軍事組織をふくむ王国警察の育成のために、1950年代はじめからアメリカが強力な軍事的な支援をおこなったことにはじまった。特に1957年からの2度にわたるクーデターで反共主義者のサリット・タナラット(Sarit Thanarat)陸軍元帥が政権の座に就くと、アメリカはサリット政府との緊密な関係を築くことになる。そして1960年代にかけてタイは、フィリピンとともにインドシナにおけるアメリカの軍事作戦の拠点として不可欠な国となった。タイは、ラオス国内への軍事要員の派遣やベトナム、ラオス、カンボジア領内でのアメリカによる空爆のための基地の提供など、さまざまなかたちでアメリカの軍事作戦に積極的に協力したのである。
 このような反共主義を軸としたアメリカとタイとの密接な軍事的協力関係のはじまりは、1950年9月、ハリー・S・トルーマン(Harry S. Truman)政権が、「ベトナム国」(The State of Vietnam)に軍事援助顧問団(The Military Assistance Advisory Group: MAAG)を派遣したことと連動していた。トルーマン政権は、フランスが担ぎ出した阮(グエン)朝最後の皇帝バオ・ダイ(Bao Dai)を元首とするベトナム国を2月に承認していたが、第1次インドシナ戦争でのフランスによる軍事作戦への援助を強化するために同国へのMAAG派遣を決定したのである。これは、同じ年の9月に、アメリカがタイにMAAGを派遣し本格的な軍事援助を開始した決定と軌を一にしていた。インドシナに隣接するタイは、当初からインドシナにおける共産主義勢力との戦いにおいて要になると考えられていたのである。
 本書が対象とするラオスにおいても、アメリカは、第1次インドシナ戦争の休戦をもたらした1954年のジュネーブ会議の直後から深く関与することになった。特に、1950年代後半にアメリカがラオスに対し提供した援助の規模は、国の大きさや人口に比して過剰と言えるものだった。1955年から1960年の間、国民1人当たりの援助額で言えば、アメリカのラオスへの援助は南ベトナムへの援助を上回っていたと考えられる。また同時期のアメリカのラオスへの援助総額を他の東アジア・東南アジア各国への援助総額と比較しても、ラオスより多いのは南ベトナムと中華民国(台湾)のみだった。タイ、インドネシア、カンボジア、そしてアメリカの同盟国だった日本、大韓民国(韓国)、フィリピンに対する6年間のそれぞれの援助総額は、ラオスへの援助総額よりは少なかったのである。
 ラオスに対するアメリカの援助には他にも特異な面があった。本書でも明らかにするように、アメリカの援助の大部分は、軍事援助、あるいは技術援助等もふくむ準軍事援助に分類されるものだったことである。その結果、1950年代後半のラオス王国政府の軍事予算はアメリカがほぼ丸抱えすることになった。またラオスの国家予算全体で見ても、その約3分の2はアメリカが負担していた。そしてラオスにおけるアメリカの軍事的関与は、実質的な軍事援助顧問団の派遣から王国軍の軍事作戦への米軍人の関与へとエスカレートしていくことになる。
 1950年代後半のラオスに対するアメリカの援助には、多くの非公式な援助がふくまれていたことも特異な点だった。このような非公式な、あるいは秘密の援助の大部分は、公式の統計に表れる援助額には必ずしも反映されていなかったと推測される。アメリカは、1954年ジュネーブ会議後からラオスの政治家や政党・政治集団に秘密裏に資金援助をおこなった。1955年、1958年、1960年の3度にわたるラオスの国政選挙では、アメリカが支持する反共保守派の勝利のために、秘密の選挙資金の提供のみならず民生援助、公式・非公式な緊急援助や情報宣伝活動等を通して、アメリカはあからさまな選挙干渉もおこなった。ラオスの政治におけるさまざまな局面で、ラオスの政治家や軍人に対する援助を梃子にしたアメリカの圧力も多岐にわたった。
 しかしながら、ラオスにおけるこのようなアメリカの深い関与にもかかわらず、アメリカのラオスに対する政策が成功したとは言えなかった。インドシナに関する1954年のジュネーブ会議での合意は、ラオスの正統政府としての王国政府の存在を認めたが、同時にホー・チ・ミン(Ho Chi Minh)らのベトミン(Viet Minh、ベトナム独立同盟会)が支援するラオスの左派勢力パテート・ラオがラオスの北東部2県のポンサーリー(Phongsaly)とサムヌーア(Sam Neua, Xam Neua)で「再集結[regroup]」することを認めた。ジュネーブ合意は、ラオスで1955年中に国家統一のための選挙をおこなうことも定めていた。しかしアメリカはこのジュネーブ合意を承認せず、選挙の実施やパテート・ラオとの国家統一政府(連立政府)の形成にも反対した。パテート・ラオを排除したラオスにおける西側指向の反共主義的政府の成立を目指したのである。
 しかし、中立派のスワンナプーマー(Souvanna Phouma)親王を首相とする王国政府は、アメリカの反対にもかかわらず、1957年11月にパテート・ラオとの連立政府の設立に合意する。その後、アメリカが支援するプーミー・ノーサワン(Phoumi Nosavan)らの軍人や保守勢力の台頭によりスワンナプーマーによる連立政府は崩壊した。しかし1960年8月には、軍部・保守勢力が支配する王国政府に反対する中立派の若手将校コンレー(Kong Le)が率いるクーデターが発生する。これ以降、ラオスはパテート・ラオも巻き込んだ本格的な内戦に突入することになった。アメリカは内戦でプーミーおよびブンウム・ナ・チャンパーサック(Boun Oum Na Champassak)親王らの反共保守派を軍事的に支援した。これに対しパテート・ラオおよび中立派に対するソ連の空輸による援助もはじまり、ラオス内戦は国際化することにもなった。しかし、アメリカによる大量の軍事援助にもかかわらず、プーミー・ブンウム派は内戦で勝利することはできなかった。
 結局、アメリカは、プーミー・ブンウム派による勝利に見切りをつけ、1962年7月、新たなジュネーブ会議でラオスの「中立化」(neutralization)に合意する。1962年のジュネーブ合意では、内戦を戦っていたスワンナプーマーら中立派、プーミー・ブンウム派、パテート・ラオという3つの勢力による「国家統一暫定政府」を設立することが決められた。また、ラオス内戦に介入していた外国の軍事要員、つまりアメリカと北ベトナムの軍事要員のラオスからの「撤退」(withdrawal)も定められた。8年間におよぶアメリカの大量の軍事援助や政治的、軍事的介入にもかかわらず、アメリカはラオスにおける西側指向の反共主義的政府の確保という目的の達成に失敗し、その政策は挫折したのである。この挫折は、11年後にアメリカが経験するベトナムにおける挫折の前触れとなるものであった。1973年1月の「パリ和平協定」でも、アメリカは、ベトナムでの当初の反共主義的政府の維持という目標や戦争での「勝利」に見切りをつけ、軍事要員のベトナムからの「撤退」を決断したのである。
 但し、軍事要員を「撤退」させることは、ラオスからのアメリカの完全な「離脱」(disengagement/extrication)を意味していたわけではなかった。1963年から1964年にかけて、スワンナプーマー首相の下での国家統一暫定政府は、中立派・右派とパテート・ラオの対立により形骸化し、両勢力間の軍事的衝突も起こるようになった。これと同時にアメリカは、中立派・右派の軍隊に支えられたスワンナプーマー政府への軍事支援を強化することになる。そして1964年中にアメリカは、ベトナムでの戦争に先駆けて、ラオス領内での米軍の戦闘機・戦闘爆撃機による継続的な空爆を開始したのである。
 今日では、以上のようなラオスにおける紛争やアメリカの関与は歴史的事実としてさえほとんど忘れ去られている感がある。しかし、1950年代末からラオス「中立化」成立にかけて、アメリカの援助政策に対する批判やラオス内戦の勃発とその国際化などもあり、ラオス問題はアメリカ国内のみならず国際的な注目を浴びるようになっていた。1961年1月に大統領に就任したジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)は、ラオス紛争を最重要課題のひとつとして捉え、政権発足と同時に省庁間タスク・フォースを発足させラオス問題を集中的に検討させた。3月にはテレビ時代の黎明期でまだ珍しかったテレビ記者会見を就任早々のケネディ大統領自らが開き、ラオス紛争解決のためのアメリカの政策を国民および世界に向けて訴えたことはその象徴的な出来事でもあった。
 ケネディ政権でラオスが注目される前にも、アメリカでは、1958年にウィリアム・J・レドラー(William J. Lederer)とユージーン・バーディック(Eugene Burdick)という米海軍の元軍人による、ラオスをモデルにしたとも思われるアジアの小国とアメリカ外交の関わりをテーマにした小説『醜いアメリカ人』(The Ugly American)がベスト・セラーになっていた。翌年には、ジュネーブ会議後にアメリカの援助団体CAREの支部長としてラオスで活動し旅行作家としても著名だったオーデン・ミーカー(Oden Meeker)が、ラオスでの自身の体験を『ラオスの小さな世界』(The Little World of Laos)という著書として出版している。この頃は、米連邦議会でも対ラオス援助に関する公聴会が開かれ、援助をめぐる不正行為や無駄遣いがアメリカで注目を浴びていた時期だった。なお、『醜いアメリカ人』は、1963年にハリウッドでマーロン・ブランド(Marlon Brando)、岡田英次主演で映画化もされている。
 そして1970年代はじめにかけては、ジャーナリストや外交官、研究者によるラオス紛争に関する優れた研究がいくつか出版された。この背景には、ベトナムにおけるアメリカの本格的軍事介入の開始や「ベトナム戦争」のカンボジア、ラオスへの拡大もあったと考えられる。ラオス紛争に関する最初の本格的研究は、1964年に出版されたアーサー・J・ドーメン(Arthur J. Dommen)の『ラオス紛争――中立化の政治学』(Conflict in Laos: The Politics of Neutralization)である。ドーメンは1959年からサイゴン、1961年から1963年まで香港でUPI支局長を務め、ラオス現地でも取材をおこなったアメリカ人ジャーナリストだった。1968年には、1960年から英大使館付武官としてラオスに駐在したヒュー・トーイ(Hugh Toye)が『ラオス――緩衝国家か戦場か』(Laos: Buffer State or Battleground)という著書を出版した。
 1969年には、オーストリア出身のジャーナリスト・研究者のバーナード・B・フォール(Bernard B. Fall)による、『危機の解剖――1960~1961年のラオス危機』(Anatomy of a Crisis: The Laotian Crisis of 1960-1961)という研究が出版された。フォールは、第2次世界大戦中フランス・レジスタンス運動に参加し、戦後フランスやドイツ、アメリカで学問を修めながら、1950年代からベトナム、ラオスなど現地での取材・調査をおこなった。彼は第1次インドシナ紛争に関する多くの論考を発表し、1961年に出版した『歓喜なき道』(Street without Joy)という著作ですでに名声を獲得していた。その後、フォールはワシントンDCにあるハワード大学(Howard University)の教授となったが、1967年、ベトナムで調査中に地雷で亡くなった。『危機の解剖』は彼の死後出版されたものである。
 このような一連の研究は、当時現場を経験した人物にしか書けない情報や鋭い洞察を含んでおり、本書の研究でも大いに参考となる。いずれの著者も、アメリカのベトナム軍事介入が行き詰まる前から、インドシナにおけるアメリカの政治的、軍事的関与のあり方の問題点を批判的に描き出していた。それでも現在から見れば、著作の性質上、史料的な裏付けが示されていない記述や推測の域を出ない記述も多い。アメリカの対ラオス政策の研究としては、その後に公開された米政府文書等と照らし合わせて、その叙述や解釈は改めて検証される必要があるだろう。
 1970年代はじめには、アメリカ外交の研究という観点からアメリカの対ラオス政策を分析した研究者による本格的な研究が発表されるようになった。ベトナム軍事介入に対する国内の批判が強まり、リチャード・M・ニクソン(Richard M. Nixon)政権によるベトナムからの米軍戦闘部隊の漸進的撤退が進められていた頃である。1972年に出版されたチャールズ・A・スティーヴンソン(Charles A. Stevenson)の『名もなき地の果て――1954年以後のアメリカの対ラオス政策』(The End of Nowhere: American Policy toward Laos since 1954)は、ラオスにおけるアメリカの介入過程を包括的かつ批判的に分析した最初の研究である。スティーヴンソンは、既存の研究や関係者の回顧録、当時入手できた政府文書等を渉猟するだけでなく、対ラオス政策の形成に関わった米政府関係者への多くのインタビューも基に詳細な分析をおこなった。そのため同書は、米政府内での政策立案をめぐる意見対立や米政府関係者とラオス指導者らとの密接な関係にも迫った研究となっている。またスティーヴンソンは、ラオス「中立化」に至る過程のみならず1971年までの米・ラオス関係も分析している。現在でもこの本は、1950年代から1970年代初頭までの米・ラオス関係について体系的に知るために最初に読む研究として価値があるだろう。1973年には、マーティン・E・ゴールドスティン(Martin E. Goldstein)が『アメリカの対ラオス政策』(American Policy toward Laos)という研究を出版している。この書は既存の研究以外は公刊史料や新聞記事等に主に依拠し、1962年までの対ラオス政策を中心に分析した研究である。そのためスティーヴンソンの本格的研究に比べると、1950年代から知られている事実を整理した傾向の強い研究となっている。
 ベトナムにおけるアメリカの挫折を背景にして、アメリカの政策に内在した問題点や、国民にあまり知られていなかった政府内の対立や「秘密作戦」の実態も明らかにしようとしたスティーヴンソンの研究は、当時としては画期的なものだった。それでも現在から見ると、インタビューに依拠した研究であるがゆえに、分析や解釈が当事者の主観や自己防衛的、組織防衛的な姿勢に左右されているきらいもある。特に、アメリカの外交・安全保障政策における中央情報局(The Central Intelligence Agency: CIA)の役割が議論されるときに、このような傾向は問題となる。ラオスに限った話ではないが、CIAによる「秘密戦争」(secret war)といった解釈やCIAの「独走」といった側面が強調されたり、CIA対国防省あるいはCIA・国防省対国務省といった省庁間対立が往々にして注目されることになる。しかし、本書でも明らかにするように、真相は、そのような単純な省庁間の対立や外交官とCIA局員との意見対立という図式だけで語ることができないものだった。CIAの作戦とされる活動も、CIA単独でおこなっていたとは限らない。本書でも明らかにするように、軍事的あるいは準軍事的な作戦の遂行においては米軍や国防省など他の省庁との連携は重要だった。国務省が蚊帳の外に置かれていたということは必ずしもなく、大統領をはじめとしたワシントンの政策決定者の同意も不可欠だった。また当事者へのインタビューは、貴重な情報を提供してくれるが、当事者だからと言って、政策形成の全体像やアメリカが実施したさまざまな秘密の政策や作戦の全体像を把握していたとは限らないことにも留意する必要がある。そのため、その後公開された政府文書等と照らし合わせてこの辺の事実を再検討する必要がある。
 1973年に米軍がベトナムから撤退し、1975年にベトナム民主共和国(The Democratic Republic of Vietnam: DRV)がベトナム全土を統一すると、ラオスやカンボジアでも社会主義政権が成立した。そして「ベトナム戦争」に関する研究や回顧録等が数多く出版され、カンボジア内戦とポル・ポト(Pol Pot)政権下での虐殺行為も注目を集めるようになった。しかしベトナムやカンボジアとは対照的にラオスに関する一般の関心は失われ、ラオス紛争やアメリカの関与に関する研究はほとんど出版されなくなった。
 このような状況が変わりはじめるのは、1980年代後半から1990年代にかけて、国務省や国防省などの外交・安全保障政策に関する政府文書が公開されるようになってからである。この時期の最初の研究は、1993年に出版されたティモシー・N・キャッスル(Timothy N. Castle)の『ベトナムの陰で戦って――ラオス王国政府に対する米軍事援助、1955年~1975年』(At War in the Shadow of Vietnam: U.S. Military Aid to the Royal Lao Government, 1955-1975)だろう。キャッスルは、未公刊の国防省・米軍の一次史料や当事者へのインタビューを活用し、軍事援助を通した米・ラオス関係を分析している。当時としては、史料に基づいてはじめてラオスに対する秘密作戦もふくむアメリカの軍事支援の仕組みや実態を実証的に分析した画期的な研究だった。但し、キャッスルの研究は公開がはじまったばかりだった国務省文書を利用していなかった。そのため、多くの新事実を明らかにしていたものの、アメリカの対ラオス政策全体を包括的に分析したものではなかった。
 1995年には、やはり軍事面や秘密作戦に焦点を当てたロジャー・ウォーナー(Roger Warner)の『バックファイアー――ラオスにおけるCIAの秘密戦争とベトナム戦争との関係』(Back Fire: The CIA's Secret War in Laos and Its Link to the War in Vietnam)、ケネス・コンボイ(Kenneth Conboy)の『陰の戦争――ラオスにおけるCIAの秘密戦争』(Shadow War: The CIA's Secret War in Laos)が出版されている。キャッスルの研究もそうだが、この2冊の本の特徴は、「ベトナム戦争」におけるひとつの戦場としてのラオスへの関心から、「中立化」後から1970年代までのアメリカによるラオス領内での爆撃作戦やラオス山岳民族のモン族(The Hmong)部隊への軍事支援も扱っていることである。但し、タイトルに「CIAの秘密戦争」という表現を使っていることからもわかるように、より一般の読者を意識した内容となっている。 そのため、これらの本では出典などが明示されていない記述も多い。またアメリカによる「秘密」の作戦に焦点を当てる点で偏った分析となっており、この時期のアメリカの対ラオス政策の全体像を知る上では注意が必要な研究でもある。それでもCIAや軍関係者へのインタビューもおこない、軍事作戦や秘密作戦の詳細にまで踏み込んだ内容を含んでいるところがあり、他の研究や公開された米政府文書とつき合わせることにより参考にできる部分もある。なお、アメリカの対ラオス政策を知るうえではウォーナーやコンボイの著作と同様の問題を抱えてはいるが、1993年にジェイン・ハミルトン=メリット(Jane Hamilton-Merritt)がモン族への軍事支援に関する『悲劇の山々――モン族、アメリカ人とラオスのための秘密戦争、1942~1992年』(Tragic Mountains: The Hmong, the Americans, and the Secret Wars for Laos, 1942-1992)という本を出版している。
 2001年には、ドーメンが『フランス人・アメリカ人のインドシナ体験――カンボジア、ラオス、ベトナムにおけるナショナリズムと共産主義』(The Indochinese Experience of the French and the Americans: Nationalism and Communism in Cambodia, Laos, and Vietnam)という大著を出版した。1000ページ以上にもおよぶこの研究は、タイトルが示すとおり、インドシナ3国における第1次インドシナ戦争開始以来のフランスとアメリカの政策を、現地のナショナリストたちとの関係も取りあげながら綿密かつ包括的に分析したものである。ラオスに関する分析は彼の1964年の『ラオス紛争』をベースにしてはいるが、公開された米政府文書も活用しており新たな事実や解釈も提示している。何よりも、30年以上におよぶインドシナ3国における紛争とアメリカとの関係を包括的、詳細に分析した研究は他に類がないものである。
 2010年代になると、1980年代後半以降に公開された米政府の外交・安全保障文書も踏まえた、ラオス紛争に対するアメリカの政策を包括的に分析した単著が出版されることになる。その代表的なものは、2012年に出版されたセス・ジェイコブズ(Seth Jacobs)の『崩れ落ちる天地――冷戦下ラオスにおけるアメリカの対外政策』(The Universe Unraveling: American Foreign Policy in Cold War Laos)とウィリアム・J・ラスト(William J. Rust)の『泥沼の前に――アメリカのラオス介入、1954~1961年』(Before the Quagmire: American Intervention in Laos, 1954-1961)である。スティーヴンソンの研究から40年をへて、ようやく本格的なラオス紛争に対するアメリカの政策に関する研究が出版されたと言える。
 外交史研究における「文化的」アプローチを重視するジェイコブズの研究の最大の特徴は、政府文書のみならずアメリカの新聞、雑誌や書物等におけるラオスに関する当時の言説や米政府関係者らの発言を幅広く分析していることである。この点では興味深い研究となっている。そしてこのような言説の分析をもとにジェイコブズは、アメリカの対ラオス政策は、従来の研究で強調されてきた戦略的な考慮というより「文化的偏見の産物[a product of cultural prejudices]」であったと主張している。彼は、政府のみならず民間やジャーナリズムの世界のアメリカ人が、ベトナム人と比べて、ラオス人が勇気や知性、成熟さ、道徳心、活力などの点で劣っているという認識をもっていたことを強調し、このような認識にアメリカの政策の原因を求めている。
 但し、このようなジェイコブズの分析や主張にはいくつかの問題点を指摘せざるをえない。まず、ラオス人に対する「文化的偏見」だけで、ジェイコブズが劣っていると見なされたとするラオスにそもそもアイゼンハワー政権がなぜ介入することになったか、また同時にケネディ政権がなぜ「中立化」、「撤退」という一見すると逆の政策を選択したのかを説明することはむずかしい。彼の研究では、同じ「文化的偏見」がなぜ異なる政策を生み出したのかについて説得力のある答えが導き出されているとは言えないのである。またアメリカ人の「文化的偏見」は、多かれ少なかれどこのアジアの国々に対しても存在していた。それにもかかわらず、他の国に対する政策との比較もなく、「文化的偏見」がアメリカの対ラオス政策の根源にあるとジェイコブズは結論づけている。ジェイコブズの研究は、「文化的偏見」の程度や差異により、個々の国々に対するアメリカの政策の違いをどのように説明できるのかという疑問を逆に抱かせるものになっている。
 さらに、対外政策における因果関係の分析としては、新聞、雑誌、書物等における言説が、実際にどの程度あるいはどのように政策形成者の思考や政府の政策に直接的な影響を与えたかを実証できているとも言えない。ある意味で、結論は著者の説明の仕方と読者の主観的な印象に委ねられることになる。またジェイコブズの研究は、当時の興味深いさまざまな言説の分析に紙幅を費やしているため、ラストや本書の研究に比べると、詳細な事実や政策決定の分析という点では十分でない部分があるのも残念である。
 ラストの研究は、既存の研究を踏まえ、新たに公開された米政府文書等を広範囲また綿密に分析した研究である。彼は、2014年には『泥沼の前に』の続編となる『失う多くのもの――ジョン・F・ケネディとラオスにおけるアメリカの政策』(So Much to Lose: John F. Kennedy and American Policy in Laos)という本も出版した。 この2冊により、ラストは、1954年から1963年までのアメリカのラオスに対する政策をこれまででもっとも詳細に分析したと言える。ラストの研究は、多くの政府関係者の言動や事実関係に関する説明が豊富で、そのときどきのアメリカの政策に関する記述も参考になるところが多い。但し、アメリカの政策の体系的な分析やアメリカの対外介入政策におけるラオスの位置づけという点では、まだ望むべき点があるだろう。たとえば、ラストは1954年のジュネーブ会議以前の時期を分析の対象とはしていない。そのため、本書で試みるような、そもそもなぜラオスにアメリカが深く関与することになったのかという原因の分析や、それらがその後のアメリカの政策形成にどのような影響を与えたのかということに関する分析が欠如している。そしてラストの研究では、ベトナムの「泥沼の前」のラオス紛争に対するアメリカの政策の展開を細かく記述することを優先するあまり、1954年以降の分析についても、本書で展開するような、アメリカの政策にどのような特徴や問題があり、その政策がなぜ、どのように失敗したのかという体系的な分析が弱いのも残念な点である。またラストの研究は、本書が重視する、ジョンソン政権になってからのラオスにおけるアメリカの本格的な空爆開始に至る時期を対象としていない。
 ラストも、スティーヴンソンなど他の研究者と同様に、米政府内の対立や混乱を強調する傾向がある。しかし、このような分析だけでは混乱が失敗をもたらしたというだけの単純な解釈に陥りかねない。「泥沼」というレトリックや解釈は、当時の米政府関係者の思考や政策の実態を単純化しかねないという問題もはらんでいる。本書では、米政府内の対立や混乱も踏まえた上で、米政府関係者の思考や政策展開における合理性や不合理性の両面に焦点を当てながら、この時期のラオスに対するアメリカの政策の展開やその背景、そして失敗の原因をより体系的に分析し明らかにしたいと考えている。

 本書は、以上のような既存の研究の成果も踏まえながら、近年公開された米政府文書等を広範かつ詳細に分析し、第2次世界大戦終了から1962年のラオス「中立化」に至るまでのラオスにおけるアメリカの関与、そして「中立化」成立後のラオスにおけるアメリカの戦争の開始までを再検討するものである。第1章では、大戦終了から1953年頃までのラオス情勢の変遷とアメリカ側のラオスに対する認識の変化を、第1次インドシナ戦争の展開も踏まえて分析する。この時期にアメリカは、独立国家としてさえほとんど認識していなかったラオスをなぜ重視するようになったのか。インドシナのみならず東南アジアという地域レベルのアメリカの政策形成も視野に入れて検討したい。
 第2章では、1954年ジュネーブ会議とその前後におけるインドシナ戦争およびラオスに対するアメリカの政策を分析する。1954年5月のディエン・ビエン・フー(Dien Bien Phu)陥落前、米政府内ではインドシナへの軍事介入という選択肢が議論されたことはよく知られている。第2章ではこの軍事介入論争について改めて検討する。またその後のジュネーブ会議における交渉でラオス問題についてどのような協議がおこなわれ、どのような合意が達成されたか、またアメリカはジュネーブでの交渉や合意に対してどのような対応をとったかを分析する。同時に、ジュネーブ会議終了後にアメリカが主導して設立した地域レベルの集団防衛体制である東南アジア条約機構(The Southeast Asia Treaty Organization: SEATO)の形成過程についても分析する。第1章と第2章を通して、これまでの研究では欠落していた1954年までのラオスに対するアメリカの認識や関与の変遷を分析し、なぜアメリカがラオスに深く関与することになったのかを明らかにしたい。
 ジュネーブ会議での合意により、フランス軍は訓練部隊を除いてラオスから撤退した。ラオスはベトナムのように分断されることはなく、ラオス王国政府が正統政府として国土全体に対する主権を維持することになった。対外的にもラオスは、フランスとの協議なく防衛権・外交権を行使できる独立した主権国家となった。第3章では、完全な独立を果たしたラオスに対し、フランスの意向を考慮する必要がなくなったアメリカが、どのような援助体制を築いていったのかを分析する。特に、いかなる政策的考慮に基づいて、アメリカがどのように軍事援助をラオスで開始することになったかが焦点となる。この際、アメリカの援助政策においては、「国内的安全保障[internal security]」(あるいは「国内治安」)という考え方が重視されるようになったことも重要な点である。本書全体を通して、「国内的安全保障」に加え、SEATOや地域の多国間関係に関わる東南アジアを中心とする「地域的安全保障」(regional security)、東西両陣営の対立や東南アジア以外の他の世界も念頭に置いた「国際的安全保障」(international security)というレベルにおけるアメリカ側の政策考慮の重層的な分析も重視したいと考えている。
 1954年ジュネーブ合意は、前述のように、パテート・ラオ勢力が北東部2県で「再集結」することを認め、1955年中に統一選挙をラオスで実施することも定めていた。しかし、選挙実施のための王国政府とパテート・ラオとの交渉は決裂した。その結果、パテート・ラオは1955年末に実施された選挙をボイコットし、北東部2県での選挙は実施されなかった。第4章では、王国政府に対する軍事面、国内的安全保障面での援助強化に加え、王国政府側の選挙での勝利のために情報宣伝活動やラオス政治家への資金提供、緊急の経済的支援活動などの面で、アメリカがどのように1955年の選挙に干渉したのかを分析する。
 第5章では、1957年11月にようやく成立した、王国政府とパテート・ラオとの間の「国家統一政府」設立に関する最終的な合意までのラオス国内情勢の変遷と、それに対するアメリカの政策を分析する。特にこの章では、1955年選挙後の政治的混乱をへて発足したスワンナプーマー政府のパテート・ラオとの交渉路線に強硬に反対するアメリカの政策が問題となる。それと同時に、パテート・ラオとの交渉により彼らが参加する選挙が実施された場合の対策も視野に入れた、この時期にアメリカが開始したラオスでの民生援助計画や緊急援助の実施についても分析する。
 第6章では、パテート・ラオとの合意に基づいて、北東部2県で1958年5月に実施された「補完選挙[supplementary elections]」に対するアメリカの政策について分析する。 パテート・ラオがはじめて参加したこの選挙の際に、アメリカは、1955年選挙のときと同様に国内的安全保障面での王国政府への援助を強化するとともに、王国政府側候補者への秘密の資金提供、緊急の民生援助をおこなった。この章では、このようなアメリカの政策の詳細について明らかにすると同時に、アメリカによる資金提供や援助という名の下での物量作戦にもかかわらず、選挙の結果が米政府関係者に大きなショックを与えた背景についても分析したい。
 第7章と第8章は、1958年の補完選挙後から1960年8月の中立派将校コンレーによる軍事クーデターが発生する前までの時期を扱う。補完選挙における中道・左派勢力の躍進に危機感を抱いたラオスの保守派政治家や軍人たちは、選挙後、新たな政治組織として「ラオス人民連合」(RPL)と「国益防衛委員会」(CDNI)を設立する。第7章では、補完選挙の実施にもかかわらず、アメリカの支援によるこのような政治組織の設立やラオス政治における軍人の台頭により、パテート・ラオが次第に国内政治から排除されていく過程を分析する。また軍人や保守勢力と密接な関係を重視したアメリカの政策のラオス内政への影響も分析する。その上で第7章では、ジュネーブ会議以降のラオス紛争における転換点としての1958年の意味についても考察したい。
 1959年になると、1957年11月の合意で予定されていた王国軍へのパテート・ラオ軍部隊の統合が失敗し、ラオス情勢は両軍部隊の軍事的衝突が起こる事態へと悪化する。第8章では、このような「危機」の発生を受けアメリカが王国政府への軍事援助をさらに強化した経緯や、ラオス政治における文民統治が崩壊し、1960年にかけてアメリカの支持を背景に実質的な軍人支配が確立していく過程を分析する。この過程でアメリカはラオスの非常事態における米軍の軍事介入の可能性の検討もはじめた。またアメリカは1959年12月のプーミーら軍部・CDNIによる軍事クーデターを容認した。第9章では、米政府内での軍事介入に関する議論や軍事クーデターへのアメリカの関わりについても明らかにする。また軍事クーデター後の1960年選挙におけるアメリカの関与についても分析する。
 ラオスでは、1960年8月のコンレーによるクーデターから1962年7月のジュネーブ会議でのラオス「中立化」に関する合意までの間、パテート・ラオ勢力も巻き込んだ本格的な内戦が展開されることになった。第9章は、コンレーのクーデターから1960年12月の首都ヴィエンチャン(Vientiane)の戦闘までの時期を主に扱う。クーデター後にコンレーら中立派が支持するスワンナプーマー政府が成立したが、アメリカはスワンナプーマー政府に反旗を翻したプーミー・ブンウム派を軍事的に支援した。そしてプーミー軍がヴィエンチャンを軍事的に制圧した後、プーミー・ブンウム「暫定政府」をアメリカは承認する。第9章では、この間のラオスの各勢力に対するアメリカの政策の変遷とラオス内戦におけるアメリカの軍事介入について検討する。
 1961年1月に発足したケネディ政権は、国際的な支持もなくラオス全土を支配する能力にも欠けるプーミー・ブンウム「暫定政府」という重荷をアイゼンハワー政権から受け継ぐことになった。第10章では、アメリカがラオス紛争の交渉による政治的解決を目標として掲げながらも、同時にプーミー軍への軍事支援を拡大し、ラオスへの米軍による介入計画も検討した1961年中の政策論争を分析する。この時期、アメリカは、単独での軍事行動も視野に入れながら、イギリスとの合同のラオス軍事介入計画の立案もおこなっていた。第10章では、当時ほとんど知られていなかった米英による軍事介入計画の詳細についても明らかにしたい。
 第11章では、1961年後半から1962年7月のジュネーブ会議でのラオス「中立化」成立までのアメリカのラオスに対する政策の変遷を分析する。最終的にアメリカは、米軍地上戦闘部隊によるラオス内戦への軍事介入という選択肢をあきらめ、プーミー・ブンウム派を政治交渉の場に引き出し、ラオス「中立化」という名目でのラオスからの米軍事要員の「撤退」という決定を下した。この章では、アメリカがこのような決定に至った経緯を分析し、その理由についても考察したい。
 最後の第12章では、ラオスにおける「中立化」の実質的崩壊と内戦再発の時期を扱う。この時期にアメリカがどのような動機や経緯で、右派・中立派やモン族などの軍隊に対する軍事援助を強化し、リンドン・B・ジョンソン(Lyndon B. Johnson)政権下で、ラオス領内でのパテート・ラオ軍やホー・チ・ミン・ルート(The Ho Chi Minh Trail)に対する米軍機による直接の、また継続的な空爆に従事するようになったかを明らかにしたい。

著者プロフィール

寺地功次  (テラチコウジ)  (

広島県呉市出身。東京外国語大学英米語学科卒業、東京大学大学院社会学研究科(国際関係論専攻)博士課程満期退学(国際学修士)、イェール大学大学院政治学部(M.A.)。白梅学園短期大学教養科専任講師、共立女子大学国際文化学部専任講師をへて、現在、共立女子大学国際学部教授。この間、国立民族学博物館地域研究企画交流センター共同研究員、ジョージ・ワシントン大学シガー・アジア研究センター客員研究員。
専門分野は、アメリカ政治外交論、国際関係論。共著に、『世紀の区切り』(明現社、2000年)、『アメリカが語る民主主義』(ミネルヴァ書房、2000年)、『アメリカのナショナリズムと市民像』(ミネルヴァ書房、2003年)、『太平洋世界の中のアメリカ』(彩流社、2004年)、『アメリカの政治』新版(弘文堂、2013年)など

上記内容は本書刊行時のものです。