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ロヒンギャ難民100万人の衝撃 中坪央暁(著) - めこん
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ロヒンギャ難民100万人の衝撃

発行:めこん
四六判
縦188mm 横148mm 厚さ30mm
重さ 450g
552ページ
並製
定価 4,000円+税
ISBN
978-4-8396-0317-5
Cコード
C0030
一般 単行本 社会科学総記
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2019年8月25日
書店発売日
登録日
2019年8月19日
最終更新日
2019年10月9日
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書評掲載情報

2019-11-16 朝日新聞  朝刊
評者: 保阪正康(ノンフィクション作家)
2019-11-03 読売新聞  朝刊
評者: 篠田英朗(東京外国語大学教授、国際政治学者)
2019-10-12 日本経済新聞  朝刊
評者: 野村進(ノンフィクションライター)
2019-09-15 毎日新聞  朝刊

紹介

バングラデシュで実際にロヒンギャ難民支援に従事してきた元毎日新聞記者の衝撃のレポート。難民キャンプの写真150点。
ロヒンギャ難民とはどのような人たちなのか?
ロヒンギャはなぜミャンマーから逃げなければならなかったのか?
100万もの難民はどのような暮らしを送っているのか?
世界各国はどのような支援をしているのか?
将来の展望は?

目次

プロローグ 

第1章 ロヒンギャとは誰か――迫害の歴史 
無国籍の少数民族 
仏教国のイスラム教徒 
世界中に二〇〇万人が拡散 
アラカン王国以来の歴史 
日本軍の進攻と英国の密約 
「ロヒンギャ」の名乗り 
一瞬のマユ辺境行政区 
ネウィン独裁政権の登場 
最初の難民流出(一九七八年) 
国籍法と一三五民族 
国境を挟んだ移民の往来 
ネウィン独裁が決めた弾圧 

第2章 少数民族弾圧――繰り返される難民流出 
軍事政権下の難民流出(一九九一~九二年) 
    ラカイン州での人権侵害 
    民政移管後も続いた差別 
    ラカイン州での教育差別 
    二〇一二年の衝突と弾圧 
    「静かに虐殺される」国内避難民 
    仏教界のビンラディン 
    ボート・ピープルの出現 
    武装勢力ARSAの誕生 
    ARSAの二〇項目要求 
    コラム ARSAの解剖学 
    二〇一六年一〇月の衝突 
    予見可能かつ計画された大惨事 
    NVC受け取りの強要 
    民兵動員と情報操作 
    軍事力の急速な増強 
    ロヒンギャ集落の包囲・封鎖 
    ジェノサイドの最終ステージ 

第3章 大惨事の発生――2017年8月25日 
未明の一斉襲撃 
ロヒンギャ大虐殺 
コラム 難民の証言~コックスバザールのキャンプで 
闇に葬られた衝撃の事実 
国連調査団報告 
調査協力拒んだミャンマー 
女性に対する性暴力 
誰がヒンドゥー教徒を殺したか 
難民救ったバングラデシュ住民 
日本人医師が見た惨状 
一カ月間で六七〇〇人を殺害
入国直後に各地に拡散 
国軍による謀略説 
コラム 容易に往来できた国境 

第4章 渦巻く非難――アウンサンスーチーの沈黙 
    バングラデシュの方針転換 
    バングラデシュ軍の奮闘 
    「民族浄化」への非難 
    アウンサンスーチー氏の反論 
    スーチー氏見限ったロヒンギャ 
    正反対のミャンマー側報道 
    国連のミャンマー非難決議 
    国軍司令官ら六人「訴追を」 
    日本外交の独自のアプローチ 
    独立調査委員会への疑念 
    ロイター通信記者の不当逮捕 
    コラム ミャンマーの大虐殺 
    ブルドーザーで痕跡を一掃 
    コラム 「損害賠償は総額六〇億ドル」 

第5章 難民キャンプの日々――過酷な楽園 
    竹材とビニールの大都市 
    巨大キャンプの風景 
    イスラム諸国の存在感 
    1K相当のテントの我が家 
    モスク・マドラサ・学習センター 
    一日六〇人の新生児 
    表情異なるキャンプ群 
    食事と買い物事情 
    売買される援助物資 
    難民キャンプのドラえもん 
    子供だけで暮らす世帯 
    難民キャンプの花嫁 
    二度目のキャンプ生活 
    コラム キャンプ生まれの二世・三世 
    夜のキャンプは別の世界 
    コラム ミャンマー産ヤバとロヒンギャ 
    武装グループの戦闘訓練 
    売春宿に売られる少女たち 
    コラム ロヒンギャの少女たちが苦しむ売春宿 
    土砂崩れ・洪水への備え 
    〝泥の島〟への一〇万人移転計画 
    

第6章 人道支援の現場――国際社会の役割 
    援助の調整メカニズム 
    国連機関の微妙な関係 
    AARの難民支援 
    不満高まる地域住民 
    踊っちゃいけないの? 
    NGOビザと事業認可 
    ミャンマー避難民って誰? 
    日本のNGOの支援活動 
    コラム コックスバザールのラカイン人 

第7章 遠のく帰還――解決の道はあるのか 
    送還に抵抗する難民たち 
    RRRCの冷静な対応 
    二国間合意の罠 
    帰還を捏造するミャンマー 
    キャンプを抜け出す難民たち 
    確執深まる両国関係 
    アナン勧告のメッセージ 
    国家顧問「勧告を実現する」 
    日本が支援する投資フェア 
    中国の開発プロジェクト 
    ミャンマー人の本当の気持ち 
    帰りたくない難民たち 
    二〇二〇年総選挙と改憲論議 
    バングラデシュを支え続ける 
    「世界は力を貸してほしい」 
    
あとがき  
注    

前書きなど

         
プロローグ

 大きな瞳に涙がいっぱい溜まっていた。
真っ黒なニカーブを被り、目元を除いて全身を覆った若い女性は、生後一年に満たない娘を抱き、一〇歳の妹を連れて、バングラデシュ南東部コックスバザール県のハキンパラ難民キャンプにたどり着いたところだった。モンスーン期から乾季に入ったばかりの午後の日差しは思いのほか強く、竹材とビニールで急ごしらえしたテントが建ち並ぶ丘の急坂を上る時、さらさら乾燥した砂質土にサンダル履きの彼女の足が何度か滑った。
 女性はアイシャ(二一歳)と名乗り、「ミャンマーの村から一〇日間歩いて国境を越えて来ました。私たちの村は家もモスクも何もかも焼き払われ、モロビ(イスラム教師)だった夫は兵士に殺されました。他所に避難して身を潜めていたのですが、村人たちは皆バングラデシュに逃れてしまい、食べる物もなくなって、私たちもこちらに来る決心をしました。途中の集落や水田、森の中で数え切れないほどの遺体を見ました。両親は行方不明で、生きているかどうかも分かりません」と話した。
ミャンマー治安部隊による激しい武力弾圧が始まって二カ月余り、虐殺とレイプの嵐の中を若い姉妹たちは生き延びた。アイシャの娘は一見して重い障害があるらしく、目を閉じたままよだれを垂らし、ぐったり身動きもしない。難民キャンプまで行けば何とかしてもらえると信じて、避難する人々の流れに身を任せて歩き続けて来たものの、この状況で幼い命が持ち堪えられるかどうかは分からなかった。
ミャンマー西部のラカイン州に暮らすイスラム系少数民族ロヒンギャが二〇一七年八月末以降、無差別のジェノサイド(集団殺害)を逃れ、隣接するバングラデシュに数十万人規模で流入した出来事は、「人道と人権上の悪夢」(アントニオ・グテーレス国連事務総長)として国際社会に大きな衝撃を与えた。なお難民流入が続く同年十一月上旬、初めて現地に入った私は、その異様な雰囲気に少なからず幻惑されていた。
十数万棟の粗末なテントが見渡す限り広がる光景は、これまで地球上に出現したどの難民キャンプとも違っていた。ニュース映像や写真を通じて状況は把握しているつもりだったが、実際に現場に立ってみると、想像の域を超えた圧倒的なスケールを脳が認識できないのか、かえって現実味が薄い感じがする。頭の中にぼんやりと映画「スター・ウォーズ」にでも出て来そうな辺境の惑星のイメージが浮かんだ。
文字通り着の身着のまま、ほとんど飲まず食わずに山野を越えてきたアイシャたちは疲れ果てていた。「この子に今すぐ何か飲ませないといけないし、妹もお腹を空かせているのですが、おカネがなく頼れる人もいません。私たちはどうすれば良いのでしょうか」。声を震わせるアスマの傍らで、薄汚れた水玉模様のワンピースを着た妹がうつむいたまま、じっと耐えている。大切な家族を奪われ、家財をすべて失った姉妹は何ひとつ所持しておらず、この瞬間、世界中で最も無力で弱々しい存在だった。
 私はどうすることもできず、難民キャンプでしてはいけない行為なのだが、思わずポケットにあったバングラデシュの少額紙幣を数枚、彼女の手に握らせてしまった。もう少しキャンプの状況に慣れていれば、国連機関の現地スタッフに姉妹を引き渡していただろうし、そもそも数百円程度では何の足しにもならなかったと思う。
一カ月ほど経ってこの時のことを思い出し、アイシャという名前と住んでいた村、そして障害のある娘を手掛かりに、ハキンパラ難民キャンプで彼女たちを探してみた。しかし、同じようなテントが無秩序に密集し、難民の入れ替わりも激しい初期のキャンプでの人探しは、まさに「藁山の中から針を探す」愚行であり、とても見付けられるものではなかった。

 爆発的な難民流入が起きた直接のきっかけは、ロヒンギャの武装勢力「アラカン・ロヒンギャ救世軍」(ARSA:Arakan Rohingya Salvation Army)率いる数百人規模の集団が二〇一七年八月二五日未明、ラカイン州最北端のマウンドー県界隈にある警察施設など約三〇カ所を一斉に襲撃したことである。ARSAはロヒンギャを代表する組織ではないが、ミャンマー国軍は直ちにARSA摘発を名目とするロヒンギャ掃討作戦(Clearance Operation)を発動し、警察と国境警備警察、仏教徒のラカイン人民兵などが加わって村々を焼き払い、女性や子供、高齢者を含む無抵抗のロヒンギャ住民を殺害した。最初の一カ月間だけで少なくとも六七〇〇人が殺害され(NGO「国境なき医師団」推計)、国連調査団報告によると、八月下旬以降の犠牲者の総数は控えめに見積もっても一万人に上る。死者を約二万五〇〇〇人と推計する調査報告もある。
ラカイン州から追い立てられる形で、同年末までに約六五万人の難民が濁流のようにバングラデシュ側に押し寄せ、年明け以降も少しずつ流入が続いた。ロヒンギャ難民の流入は一九七〇年代から何度か繰り返され、コックスバザール県内には主に一九九〇年代から滞留する“古株”の難民が相当数いた。そこに今回の事態で七四万五〇〇〇人の “新参”が加わり、難民の累計は九〇万九〇〇〇人に膨れ上がった。データによって数字が整合しないが、古株の数は約二一万三〇〇〇人、ないし三〇万三〇七〇人という別々の統計があり、後者に新規流入を足すと難民の総数は一〇四万八〇七〇人になる。バングラデシュ国内では一一〇万人という数字がしばしば使われており、把握できていない多数の流入者を勘案すると、恐らくこちらの方が実態に近い。ちなみに一〇〇万人超というのは、日本では宮崎、富山、秋田あたりの県民人口に相当し、香川、和歌山、山梨など九県よりも多い。
 コックスバザール県南部のウキア・テクナフ両郡に計一二カ所散在する難民キャンプのうち、最大規模のクトゥパロンと隣接するバルカリの両キャンプを合わせたクトゥパロン・バルカリ拡張キャンプ(旧称メガキャンプ/ウキア郡)は、南北五・五キロ×東西四キロ余りのエリアに約六三万人が密集し、世界で最も人口密度が高く、かつ最も衛生状態が悪い異様な空間を形成している。冒頭のアイシャ姉妹に出会ったハキンパラ難民キャンプは、この巨大キャンプのすぐ南側に飛び地のように位置し、そこまで含めると南北約八キロに渡ってキャンプが連なっている。
コックスバザールに来たばかりの私は、ベンガル語の方言とされるロヒンギャの言葉を話す地元のバングラデシュ人青年に通訳を任せ、迷路のような巨大キャンプを方角も分からずに歩き回った。何人かに聞き取り調査していると、「兵士に家族を殺された」「撃たれた傷を見てほしい」と訴える難民が次々に現れた。
「ひどい目に遭った若い夫婦を知っている。話を聞いてやってくれないか」と小柄な老人に半ば強引に案内されたテントには、マウンドー県マウンドー郡ボリバザール村から逃れて来たという二五歳と二二歳の姉妹、そして姉の夫が感情を失ったように座り込んでいた。
美しい顔立ちをした姉妹によると、彼女たちが暮らす村は九月初旬のある朝、ミャンマー国軍の攻撃を受けた。「兵士たちは民家やモスク、マドラサ(イスラム学校)を焼き払い、銃やナイフで住民を手当たり次第に殺したのです」。近くに住む姉妹の両親、妹の夫が射殺され、姉は喉元に二カ所、妹は頭部三カ所と右手に切創を負った。二人はヒジャブ(スカーフ)を外して傷跡を見せてくれたが、喉元に刃物を押し付けられた傷を見て、私は性的暴行を受けたのではないかと直感した。姉夫婦の一歳の長男も犠牲になったと言うので、どのように殺されたのか尋ねると、いかにも善良そうな夫は無言のまま、両脚を持って地面に叩き付ける動作を何度も繰り返して見せた。
 すぐ近くのテントで暮らす農民一家の一一歳の少年の証言も衝撃的だった。「朝七時頃、兵士たちが家に急に入って来て、家族全員を外に連れ出した。父さんと母さん、兄弟姉妹を庭に集めて撃ったんだ。兵士がずっと辺りを探し回っていたので近付けなかったけど、みんな死んでしまったと思う」。少年はたまたま物陰に隠れて難を逃れ、無我夢中で森に逃げ込んだ。その後、叔父の家族に連れられて国境を越えたが、ずっと裸足だったので右足の裏に深い切り傷を負った。一二人家族でひとり生き残った少年は、問い掛けには言葉少なに答えるものの、二カ月経っても放心状態でずっと遠くを見ている感じだった。救援物資の真新しいボーダー柄のポロシャツが、薄暗いテントの中でひどく場違いに見えた。
 兵士に銃床で背中や腰を打ち据えられ、息子に背負われて半死半生で逃げて来たものの、寝た切りになった九〇歳のおばあさんにも会った。声を発する力もなく、ゴザの上に横たわっていたが、何を思ったか突然やせこけた右腕を伸ばし、枕元に座る私の頭をなで続けた。身内の誰かと勘違いしたのか、あるいは見知らぬ見舞客に礼を言おうとしたのかも知れないが、すでに光を失った両眼を見て、気の毒だが長くはないと思った。
その他にも、家を焼かれた時に左上腕部から背中にかけて大火傷を負った女性(六〇歳)、右脚の大腿部に貫通銃創を負った男性(五〇歳)、左脚を撃たれて歩行が不自由になった少女(一三歳)、あるいは「イマーム(イスラム指導者)だった夫(父親)が治安部隊に連行され、拷問された遺体で見付かった」と話す家族など、わざわざ探す必要がないほど被害者がいた。正確に言うと、この場にいる誰もが武力弾圧の被害者であり目撃者だった。悲惨な体験を誰かに訴えずにはいられないのか、難民キャンプの外の世界に伝えてほしいのか、恐らくその両方だろうが、性的暴行の被害は別として、自分から証言しようとする難民が多いのが強く印象に残った。
ロヒンギャ難民問題が今日、世界最大の人道危機であることは論を俟たない。半年足らずの短期間に約七〇万人が越境したが、とりわけ初期には一週間に一二万人という“世界記録”レベルの異常なスピードで流入が続いた。長年に渡って執拗な差別と弾圧を加えた挙句、圧倒的暴力をもって自国内の少数民族を根こそぎ追い出したミャンマーの国家的犯罪は、二一世紀のアジアで起きたとは思えないほど残虐非道であり、軍事政権の支配から脱却したはずのミャンマー民主化が幻想だったことを世界中に露呈するとともに、ノーベル平和賞(一九九一年)を受賞した民主化指導者、アウンサンスーチー国家顧問兼外相に対する国際社会の評価は回復不能なまでに急落した。
折から中東のイスラム過激派組織IS(イスラム国)が弱体化し、二〇一一年から続くシリア内戦が終結に向かう兆しが見え始めた時期と重なったこともあって、常に次の現場を志向する国連や援助機関、メディアの注目を集めやすかった皮肉な事情を差し引いても、国際社会が継続的に対処すべき最優先課題のひとつであるのは間違いない。
 一九七〇年代から繰り返し流入するロヒンギャ難民の受け皿であるバングラデシュのチッタゴン管区コックスバザール県には、難民キャンプの膨大な人道ニーズに応えるべく、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、国際移住機関(IOM)をはじめとする国連・国際機関、国際赤十字・赤新月社連盟、日本を含む海外および地元のNGOが多数集結している。ベンガル湾に面した人口二十数万人の県都コックスバザール市には、援助関係の外国人一五〇〇人前後が常時入れ替わりながら滞在するのに加え、その何倍もの現地スタッフが雇用され、無数の車両と運転手が動員され、地元業者には建設工事や資機材調達が大量発注されて、いわば空前の“難民バブル”状態にある。二〇一九年に入って狂騒が一段落した感じはあるが、この状況はしばらく静かに続いていくだろう。
私が所属する(特活)難民を助ける会(AAR Japan/柳瀬房子会長)は、二〇一九年に創立四〇周年を迎えた日本で最大手の国際NGOとして、アジアや中東、アフリカなど約一五カ国で人道支援プロジェクトを展開するとともに、東日本大震災など国内の被災地でも活動している。今回の事態を受けて、AARは二〇一七年一一月初旬、調査チームを現地に派遣し、翌一二月にコックスバザール事務所を開設して、ミャンマー避難民(ロヒンギャ難民)支援を本格化した。私はそれまで数年間、国際協力機構(JICA)の業務でアジアやアフリカの平和構築支援の現場に通っていたが、ちょうどこの頃、縁あって旧知のAARに入職したばかりだった。NGOの仕事は初めてだったが、開発途上国の現場経験だけは豊富なこともあって、事前研修もそこそこに慌ただしく現地に投入された。
およそ若いとは言えない新人の援助ワーカーとして、難民支援の実務やルールを実地に学びながら、車で片道一~二時間の難民キャンプに通い、不慣れなプロジェクト運営に四苦八苦する日々が始まった。その傍ら、ロヒンギャ難民の素顔に接し、彼らの日常生活やキャンプ内外の動向、人道支援の現場をつぶさに観察するとともに、時に俯瞰して国際政治や歴史の文脈でこの問題を考える機会に恵まれた。いくつもの偶然が重なった結果ではあるが、ロヒンギャの人々との出会いは私にとって必然だったと感じている。
ロヒンギャ難民は「虐げられた無力な人々」「女性はレイプされ、子供たちは心の傷を負っている」という切り口で伝えられることが多く、難民キャンプで空しく泣き暮らしているように思うかも知れないが、身近に触れ合った人々の印象は全く違う。とにもかくにも苛烈な弾圧を生き抜いて来た彼らは、強靭かつ忍耐力があり、信仰心が厚く勤勉で、昔の日本人にも通じる美徳を備えている。教育水準は概して低いが、規律と礼節をわきまえ、自分たちを取り巻く情勢を熟知している。私見ながら美少女が多く(成人女性は顔を覆って見えない)、男性はすっきり細身の男前で、年寄りは年寄りらしい威厳を保ち、子供たちは元気で明るく人懐っこい。
不衛生で劣悪な生活環境とはいえ、難民キャンプにも活気に満ちた日常がある。イスラムの祝祭で取って置きのドレスを娘たちに着せたり、親戚がテントに集まって婚礼を祝ったり、剽軽な掛け声に合わせて仲間と力仕事に励んだり、露店の売り手と客がやり合ったりする姿を見ていると、当たり前の話だが、ロヒンギャの人々が私たちと同じように、ささやかな喜びや楽しみを求めて日々を生きていることが分かる。
他方、ひと皮めくると、国連の保護下にある従順な難民の群れというのは、実は仮面に過ぎない。ごく一部だが覚せい剤の売買や殺人などの犯罪に手を染める者がいるし、同じロヒンギャの少女を騙して売春宿に売り渡す男さえいる。キャンプの行政官には面従腹背で、国連の援助物資を市場で転売し、海外の同胞から活動資金を受け取り、ミャンマーへの反攻に備えて密かに戦闘訓練を行う図太さも持っている。
だからと言って、ロヒンギャ難民を「イスラム過激派につながるテロの温床」「そんな連中を援助する必要があるのか」などと言い立てるのは、妄信的に「かわいそうな人々」と憐れむのと同じように意味がない。個々の側面を切り離して論じるのではなく、すべての要素をひっくるめて、ロヒンギャが置かれた現実を理解する必要がある。私たちが彼らについて知っていると思っていることなど、所詮たかが知れていると考えた方が良い。
 ロヒンギャ問題とは何か、あの日何が起きたのか、解決の道はあるのか、そして日本に何ができるのか――。その全体像を描き、未来を正確に見通す力量など持ち合わせていないが、せめて傍観者による論評でも報道でもなく、学術研究でもなく、ロヒンギャ難民に直接関わる当事者のひとりとして、できる限り難民キャンプの内側から世界を眺めてみたい。そこで見えてきたものを、この未曽有の人道危機に心を寄せる皆さんと共有できればと思う。

著者プロフィール

中坪央暁  (ナカツボ ヒロアキ)  (

1963年生まれ。同志社大学文学部卒業。毎日新聞ジャカルタ特派員、東京本社編集デスクを経て、国際協力分野のジャーナリストに転じる。アフガニスタン紛争、東ティモール独立、インドネシア・アチェ紛争のほか、国際協力機構(JICA)の派遣で南スーダン、ウガンダ北部、フィリピン・ミンダナオ島など紛争・難民問題、平和構築の現場を継続取材。2017年12月以降、国際NGO「難民を助ける会」(AAR Japan)バングラデシュ・コックスバザール駐在としてロヒンギャ難民支援に携わる。

上記内容は本書刊行時のものです。