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永久にたたかわぬ国
- 初版年月日
- 2019年6月1日
- 書店発売日
- 2019年5月29日
- 登録日
- 2019年5月23日
- 最終更新日
- 2019年5月23日
紹介
満州から引き揚げた少年が戦後の激動期を生き抜きます。
戦争責任の徹底追及と戦争責任者の厳罰、新しい国づくりの要となる新憲法の制定、平和で民主的、豊かな国づくりの3つの課題がどのように進められたかを庶民の眼で記します。
目次
一 焦土の祖国……満州から引き揚げてきた少年は、廃墟となった祖国に一歩を踏みだす
二 赤いりんごの故郷津軽……故郷に癒され、復学を決意
三 六・三制新学制発足……国民主権の平和憲法に日本の理想を見出す
四 アメリカ占領政策の急転換……SLの罐磨き労働者になるが、政令201号による組合弾圧はじまる
五 東京裁判判決下る……米ソ東西陣営の冷戦激化、日本は共産主義陣営に対する防壁としての役割を担わされる
六 ドッジ・ラインと定員整理闘争……産業復興と自立、大量首切りとレッドパージ
七 下山事件発生……暗い予感と新たな道を求めて
前書きなど
まえがき
一九四六(昭和二一)年七月のはじめに、私は、日本の旧関東軍が中国東北部につくりあげ、わずか一三年ほどで崩壊した旧満州国から引揚げてきた。敗戦後一年間、ソ連軍の侵攻により多くの犠牲者を出し、さらに占領下における略奪や暴行、拉致、日本人に反感を持つ満漢人の襲撃等多くの苦難を乗り越えてきた引揚者は、祖国の地を踏んで心の底から安堵感にひたった。二人の幼子を連れた未亡人の大きなリックサックを持って、郷里まで付き添ってくれるようにと頼まれた私は、未亡人のふるさと愛知県の伊良湖岬まで一緒に行くことになる。引揚げ列車から目にした広島の光景は忘れられない。沿線の都市部はくりかえされた空爆撃により焼け野原となっており、そのすさまじさに、じっと目をこらすばかりであった。伊良湖岬に一ヶ月ほどお世話になり、東京に向う。東京大空襲の直前まで在京していた祖父の所在を確認するため、幼少期を過ごした市ヶ谷に足を向けた。焼け野原にバラック小屋を建てて住んでいた長谷部さんのところに泊めてもらい、アイスキャンデー売りの手伝いなどをしたりして、一ヶ月ほどをおくる。その後、連絡のついていた青森県西津軽の舘岡にある亡父の実家に身を寄せ、農家の仕事を時おり手伝いながら、戦後アメリカの対日方針による新教育制度下で誕生した六・三制の新制中学三年に編入する。校舎は焼失しており、新学制は青空教室ではじめなければならなかった。また教員も十分そろわず、教科書はなかった。しかし、先生方の工夫と努力の甲斐もあって、新教育は手探りながらも楽しく、勉強する意欲をかきたてるものであった。満洲で離れ離れになっていた母たちも無事帰ってきた。新制中学卒業とともに私は自立のため、義父の知人の世話で国鉄仙台機関区の庫内手採用試験を受け、無事就職。蒸気機関士になる意志をかため、一方、その間新たに設置された新制高校の定時制課程に進学する。
六〇〇万人を超える海外からの引揚者は、それぞれの落ち着き先で当面の生活維持のために仕事をもとめた。大手の職場では官民問わず過剰な労働力をかかえることになった。私の就職した国鉄では人員五〇万人余をかぞえ、実定員を二割も超えているといわれた。日本経済は超インフレにおちいり、国家財政は危機的状況にあった。一方、大戦後の平和は永つづきせず東西冷戦は深刻化していく。アメリカは対日政策を一方的に転換し、日本の非軍事化、民主化という占領初期の方針から、極東における共産主義に対する防壁としての役割を重視するようになる。そのために、急速な日本の産業の復興と経済的自立をもとめるようになった。経済安定九原則がアメリカからしめされ、ドッジ公使による荒治療法(ドッジ・ライン)にもとづいて、1ドル360円という為替ルートが強制的に設定された。補助金削減、復興債の発行を禁止し、一方では公共料金の大幅値上げ等の超均衡予算実施をせまった。アメリカの経済的援助打ち切りの意図を知った政府は、日本経済の自立という名目のために、この方針にしたがい、国鉄、専売公社を公共企業体にし、業務の効率的運営のため独立採算制をとるとともに、国鉄の九万六千人の定員整理をはじめとする官公労、民間を含む約一〇〇万人におよぶ首切りを強行する。個々人の理由を明確に示されることもなく、わずか在職一年二ヶ月あまりで、私は職を失った。この間、下山事件、三鷹事件、松川事件等、戦後最大の国鉄関連の事件が続発し、労働組合を主導してきた共産党系指導層は全員免職(第一次レッドパージ)になり、ドッジ・ライン、それにしたがう政府の意図どおり定員整理は終わった。
いっぽう、戦争終結のために日本国が受諾したポツダム宣言は、占領下にあって、その目的とするところは具体的にどのようにすすめられたであろうか。ポ宣言の一つの柱である、日本軍国主義勢力の永久排除と戦争遂行能力の破砕については、極東国際軍事裁判(略称・東京裁判)が一九四六(昭和二一)年五月三日に開かれ、一九四八(昭和二三)年一一月一二日まで二年半にわたっておこなわれた。定時制高校に進学した四八年七月から、社会科の授業において、今次の大戦をめぐって、開戦の詔勅、またポ宣言受諾の詔勅の内容を検討し、テーマを設けて、質問や意見を出し合いながら戦争責任を究明する授業がすすめられた。ポ宣言のいま一つの柱である、日本国民の間における民主的傾向の復活強化、言論・宗教および思想の自由並びに基本的人権の尊重と確立については、新憲法制定の施行の年に発足した新制中学の社会科で、「(新)日本国憲法」、「新しい憲法のはなし」(旧文部省編)を用いて新憲法の要となる主権在民・基本的人権・平和主義について展開された授業の一部分についてつづった。
占領の主体をになったマッカーサー総司令官は「降伏後における米国の初期対日方針(一九四五年九月二二日)」にもとづき、ポ宣言にそった具体的な施策を日本政府に間接統治方式で発令する。「日本の社会秩序において速やかに次のごとき社会改革を開始し、これを達することを期待する」(一九四五年一〇月二日)ために、一、選挙権付与による日本婦人の解放、 二、労働者の組合化の促進、労働者の搾取と酷使からの防衛、 三、教育の民主化・自由化、 四、秘密の検察およびその乱用が国民を絶えざる恐怖にさらしてきた諸制度の廃止、 五、独占的産業支配が改善されるよう、日本の産業機構が民主化されること、以上五点に関する「マッカーサーの五大指令」である。「マ指令」の教育の民主化、自由化が教育現場に与えた解放感と新鮮な感動の実態として、新制中学校、高等学校では自主的独創的な授業が試みられたことについてふれる。また占領当初の労働組合結成の奨励と労働者の権利保障の強化については、ほぼ二・一ストを境に、GHQは労働争議,スト権抑止の方向へ舵切りをすすめ、政令二〇一号公布、改正公務員法公布など弾圧的な法律がつぎつぎと打ち出されるようになっていく。占領政策の変容が労働運動に及ぼした深刻な影響について、労働現場にあった筆者のささやかな体験をもとに記述した。
本書は、米軍占領、間接統治下にあった一九四五年九月二日から、対日平和条約・日米安全保障条約を調印し、発効する一九五二年四月二八日までのほぼ六年八か月間にあって、筆者が引揚げてきた一九四六年七月から一九四九年の七月までの三年間、つまり占領統治下の前半についてのきわめて個人的な記録である。
なお、本書の題名『永久にたたかわぬ国』は、『写真図説・昭和万葉集』講談社版掲載の土岐善麿の歌「たたかひにやぶれて得たる自由をもてとはにたたかはぬ国をおこさむ」『冬凪』(昭和二二年)の四句と五句の一部分を借用、「とは」を漢字になおし、仮名づかいを改めた。
上記内容は本書刊行時のものです。