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ヴィジョンとファンタジー
ジョン・マーティンからバーン = ジョーンズへ
原書: Ars in Britannia I, VISIO ET PHANTASIA : Ex John Martin ad Edward Brune-Jonesh Vernet
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2016年7月
- 書店発売日
- 2016年6月28日
- 登録日
- 2016年6月29日
- 最終更新日
- 2016年6月29日
紹介
ジョン・マーティンの描くバビロン崩壊の崇高美に、ヘンリー・フュスリの描くゴシック・スペクタクルに、リチャード・ダッドの描く奇矯な妖精たちに、サミュエル・パーマーの描く月の光と翳に、バーン=ジョーンズの描く天地創造の天使たちに、これらの創造の軌跡とさまざまな美的表象を探り、イギリス近代美術のヴィジョンとファンタジーを明らかにする!
目次
プロローグ ヴィジョンとファンタジー──イギリス美術の夢幻郷 田中正之
第1章 ジョン・マーティン《ベルシャツァル王の饗宴》──物質的崇高の表象 荒川裕子
第2章 ヘンリー・フュスリとゴシック・スペクタクル マーティン・マイロン/小野寺玲子
第3章 リチャード・ダッドの見果てぬ夢──シェイクスピアのファンタジーを追って 小野寺玲子
第4章 サミュエル・パーマーのパストラルにおける翳り──夢と影のヴィジョン 山口惠里子
第5章 礼拝像を離れて──バーン = ジョーンズの《天地創造の日々》の構造 喜多崎親
エピローグ ヴィジョンとファンタジー──イギリス美術の視覚性 小野寺玲子
註
あとがき
人名索引
前書きなど
「ヴィジョン」は語源からいえば「幻影、まぼろし」であり、またそれを見る力である。一三世紀のイギリスで多数の黙示録写本が制作されたことが知られているが、その挿絵のひとつ(図1)を参照しよう。〈第五のラッパ〉で始まる災厄の場面が枠の中に展開し、その枠に開けられた小窓を通してそれを注視する聖ヨハネの姿が、枠の外側に描かれている。選ばれた幻視者であるヨハネは、その幻視力によって通常の人にはいまだ見えない終末世界を目撃するわけだが、絵画表現でこのように、目で見る行為が強調されていることに驚かされる。眠っているあいだに見る夢や、頭で考えだした想像ではなく、ヴィジョンは目に映った光景なのである。イギリスが近世国家へと変貌を始める一五世紀末からは、英語のヴィジョンという語が生理的・光学的意味での「視覚、視力」にも使われるようになった。
この「視覚」が科学の時代に注目されたのは自然な流れといえよう。ニュートンの『光学』が出版され、光が人間の眼に及ぼす効果について関心が高まったのは、一八世紀初頭のことである。世紀後半には、光学機器を使った見世物、たとえばガラス板に描いた絵に蠟燭の光をあてて、その画像を壁に投影する幻灯ショー(マジック・ランタン)が登場する。ガスを使った強い光源が発明されると、より迫力あるスペクタクル映像となって、この世のものとも思われぬ光景を現出させることができた。これにより人為的に疑似「幻視」が生み出され、大衆に共有される。一九世紀初めのロンドンではこうした視覚的見世物──ファンタスマゴリア、アイドフュージコンなど──が、他のどの都市よりも活況を呈していたという。それらが絵画芸術に及ぼした影響は興味の尽きないテーマである(第1章、第2章)。光が束の間現出させる影(cast shadow)に魅了された画家が現われることにも、納得がいく(第4章)。
一八三〇年代には写真が発明され、人間の視野 = ヴィジョンがレンズを通して掌中に納まるまでになる。天地創造という壮大なヴィジョンが、レンズあるいは眼球のメタファーのような水晶球の中に映しだされ、天使の手で差しだされるという絵画イメージ(第5章)と関係があるのだろうか。わたしたちは、あたかも幻視者になりかわって、画面の外から神の御業を目撃するのである。
本書のもうひとつのキーワードである「ファンタジー」は、「空想、幻想」であり、「ヴィジョン」が実際に見ることと強く結びついているのに対し、むしろ見たと思いこんでいるが実は存在しない、といった意味合いの言葉である。ちなみに今日のように「幻想文学」の意味で使われるのは意外に新しく、第二次世界大戦後であるらしい(寺澤芳雄編『英語語源辞典』研究社による)。シェイクスピアの『ハムレット』第一幕第一場、先王の亡霊を見て蒼白になったホレーシオに、歩哨が「気のせいではないと思わないか」(Is not this something more than Fantasie?)と問う台詞の「気のせい」に、ファンタジーという語が使われている。また「想像、想像力」の意味もあり、前述のニュートンの著書から「われわれはファンタジー(phantasy)の力により夢で色彩を見る」という用例が、オックスフォード英語大辞典に採録されている。これもやはり、「実際には存在しないが」という前提なのである。
実際には存在しないであろう幽霊や魔女、妖精など、超自然現象への関心および想像力の重視は、理性の時代への反動として一八世紀後半から一九世紀にかけて高まった。シェイクスピアが国民的作家として称揚され、バイロンやキーツといったロマン主義の詩人たちが豊かな才能を開花させた。妖精伝承を集めた書物の出版は、一九世紀前半から相次いでいる。これらはみな、イギリス絵画に豊かなイメージ源を提供した(第3章)。また、中世の古城や修道院を舞台に幽霊や魔術師が登場する、ゴシック小説と呼ばれる文学が一八世紀末に流行した。そこでは不合理で衝撃的な事件が次々と起こり、読者の恐怖心を煽る。ヘンリー・フュスリは、ゴシック小説を髣髴とさせる怪奇で煽情的な作品を描き、見る者の想像力を刺激した(第2章)。
では想念が生みだし情に訴えるファンタジーは、科学の時代のヴィジョンと相容れないものかというと、そうではない。先に述べた視覚的見世物が生みだすのは、現われては消える、実体のない映像である。テクノロジーによって可能になった、信仰によらないヴィジョンは、語義どおりのファンタジーでもある。また科学の進歩の延長線上に、驚愕のファンタジーが生まれることもあろう。ゴシック小説の白眉ともいわれる『フランケンシュタイン』(一八一八年)を思い起こせばよい。作者メアリー・シェリーは、ロマン派の詩人として名高いシェリーの妻でもある。
一八世紀、一九世紀のイギリスは、このように探究と幻想に充ちたダイナミックな時代であったと思われる。ロマン派の詩や近代小説の発展はつとに知られるところであるが、視覚芸術の分野もそれに呼応するように豊かな実りを謳歌していたことはまちがいない。さまざまな文化現象と美術との関連性は決して単純ではないが、まずは肉体の眼と心の眼とを使って、この時代のイギリス美術を存分に楽しんではどうだろうか。
上記内容は本書刊行時のものです。